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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
87/140

87:春休みのお出かけ

 春休みも中盤に差しかかるころ。

 学内はすっかり静けさに包まれていた。


 寮の食堂も談話室も、普段より人影は少なく、昼夜の境目さえ曖昧になっている。

 そんな空気の中、澪はここ数日、ある違和感を拭えずにいた。

 ときどき、夜になると、あかりがふっと姿を消す。

 理由を聞けば「ちょっと自主練習」と返ってくるが、帰ってきた彼女はいつも、うわの空だった。口数も少し減り、笑顔に影がある。

 澪には、それがどうしても気がかりだった。


 午前の陽射しが寮の窓に差し込み始めたころ。

 澪は自室でストレッチをしていたあかりに声をかけた。


 「ねえ、今日は……自主練、ちょっとやめにしない?どこかに出かけようよ。せっかくの春休みなんだし」


 あかりは、少し驚いたように振り向く。


 「え……でも、せっかくここまで頑張ってきたし……この調子で続けたほうが……」


 「うん、でも、頑張りすぎると逆に視野が狭くなっちゃうよ。リフレッシュも練習のうち、って先生たちも言ってたじゃない?」


 澪の声はやさしく、それでいてどこか“あかりの心の奥”を見透かしているような強さがあった。あかりは言葉を探すように黙り込む。

 澪の前では、いつも自分が素直になってしまう。

 そう感じる瞬間だった。


 「……わかった。今日は、行ってみようか」


 小さく微笑むあかりに、澪もほっとしたように頷いた。


 「せっかくならさ、エリカも誘ってみない?」


 その言葉に、澪の表情が一瞬だけ固まる。


 「……エリカ? えっと……うーん」


 あかりはその反応に気づきながらも、軽く笑って言う。


 「無理に仲良くなる必要はないけど、断られるかもしれないし、誘うだけ誘ってみようよ。春休みに3人で出かけるなんて、きっと一度きりかもしれないしさ」


 あかりのその一言には、どこか今の関係を変えたいというような、淡い決意がにじんでいた。

 澪はそれを感じ取ったのか、少しだけ黙って──やがてうなずいた。


 「……そうだね。あかりがそう言うなら」



***


 寮の外階段を下り、別棟のエリカの部屋をノックする。

 あかりは軽やかに言う。


 「エリカ、いるー?」


 中から少し間があって、ゆっくりと扉が開いた。

 朝の光が差し込むその隙間から、エリカが無言であかりを見つめる。その視線は相変わらず鋭く、そして澪のほうへほんのわずかに流れた。


 「ねえ、今日だけは練習なしにして、3人で出かけない?お昼でも食べに行こうよ。気分転換」


 エリカはあかりの顔をじっと見たあと、ちらりと澪の表情を確認する。澪は視線をそらさず、少しだけ緊張したまま立っていた。

 そして──


 「……いいわ」


 短く、それだけ言って、エリカは扉を少し広げる。

 あかりは笑顔を見せた。


 「じゃあ、あと一時間後に玄関集合で!」 


 そして、3人の春休みの一日は、まだ誰も知らない静かな予感とともに──始まりを迎えようとしていた。



***


 薄曇りの春空の下。

 校舎の門を出た3人は、少し風の強い歩道を抜けて、最寄りの駅へと向かっていた。


 「ここに来てから、電車に乗るの久しぶりかも」


 あかりが言うと、澪もふふっと笑ってうなずく。


 「うん。寮生活って便利だけど、意外と外の空気を忘れちゃうね」


 エリカは少し後ろを歩きながら、淡々とした様子で二人の会話に耳を傾けていた。その横顔はどこかまだ緊張をまとっているようにも見える。

 電車がホームに入ってくると、あかりが駆け足で駆け寄った。


 「来た来た! 映画館、たしか3駅先だったよね?」


 「うん。そんなに遠くない」


 車内はまだ空いていて、3人は並んで座ることができた。揺れる車内の静けさに、しばらくは沈黙が流れる。だが、その沈黙を破ったのは、やはりあかりだった。


 「ねえ……そういえばさ」


 ふと窓の外を見ながら、ぽつりと。


 「今年の入試って、倍率どれくらいなんだろうね?」


 その一言に、澪が目を丸くする。


 「う~ん、私たちのときと同じくらいなんじゃな?」


 「私、正直、受かると思ってなかったんだよね」


 あかりがくすっと笑う。


 「バレエも日舞も声楽も、中途半端だったし。でも、面接のとき──あの如月先生を見て、『あ……本物だ』って思って、変に緊張しちゃってさ」


 澪が微笑む。


 「分かる。テレビや雑誌で見てたもんね。如月玲奈……あの天翔の王子様が、目の前にいたらそりゃ緊張するよ」


 「……私も、緊張はしたわ」


 と、ここでエリカが口を開いた。

 少し遠くを見ながら、低い声で続ける。


 「でも、私は面接、5分しかなかったの。質問も二つだけ」


 「えっ……!?」


 あかりと澪が同時に声を上げた。


 「5分!?そんなに短かったの?」


 「うん。『志望理由』と『自分の強み』を聞かれて、終わったの。終わった瞬間、“あ、落ちたな”って本気で思った」


 澪は意外そうに眉をひそめた。


 「……それ、逆にすごいね。私は……たぶん30分くらいあった」


 「えっ、30分も!?」


 今度はあかりが驚く番だった。


 「うん。途中から如月先生ともうひとりの先生で、“この子は男役か娘役か”って話になって、延々と議論されて……すごくやりづらかったよ」


 エリカがちらりと澪を横目で見て、小さくうなずく。


 「……澪は、どっちの役でもいけそうだから。迷う気持ち、分かる」


 あかりは澪の横顔を見ながら、心の中で思う。


(やっぱり澪って、どこか人を惹きつけるんだよな……)


 電車はやがて目的の駅に着き、アナウンスが流れる。


 「次は、終点。○○シネマシティ前、○○シネマシティ前です──」


 「よし、着いた!」


 あかりが立ち上がりながら明るく言った。その声に、エリカもほんの少しだけ口元を緩める。澪はそれを見て、ほんの一瞬だけ──驚いたような、けれど柔らかな目をした。

 静かな車内の時間のなかで、3人の間に確かにあった“ぎこちなさ”は、少しずつ和らぎ、解け始めていた。

 そして、春の街へと降り立った彼女たちは、まるで舞台の幕間のように、少しだ“素顔を取り戻していくのだった。


 映画館の照明がゆっくりと落ち、スクリーンが光を帯び始める。

 あかり、澪、エリカの3人は中央よりやや後ろの列に並んで座っていた。

 選んだ作品は、若い舞台女優が栄光と挫折を繰り返しながら夢を追う、古い洋画のリバイバル上映だった。


 ──場面は、主人公が初舞台の袖で震えるシーンから始まる。


 あかりは、最初から目を丸くして画面を見つめていた。

 小さな息遣い一つも聞き漏らすまいとするような、真っすぐなまなざし。 主人公のセリフや表情にすぐ感情が反応し、眉が動き、頬がわずかに緩んだり、固まったり。


 「……すごい……」


 小さく漏れたその言葉は、無意識だった。

  あかりにとって、これは物語ではなく未来の自分だった。震える脚も、無理に張った笑顔も、すべて自分がこれから辿るかもしれない感情と重なっていた。


 隣に座る澪は、対照的だった。

 同じスクリーンを見つめてはいるものの、そのまなざしはどこか冷めていた。

 主人公が泣き崩れる場面でも、澪の目には涙は浮かばない。 けれど、そのまなざしには他人の悲しみを理解する知性があった。


(こういう物語は、最後にはうまくいくように作られてる……)


 そう心のどこかで思いながらも、澪はふと、スクリーンに映る舞台袖の暗がりにだけ心を留めた。


 ──あそこは、誰にも見えない場所。

 ──でも、一番心が出てしまう場所。


 澪は静かに、自分の中の本音にふれた気がした。


 そしてもう一人。エリカ。

 彼女は腕を組んだまま、真っ直ぐスクリーンを見据えていた。 感情をあらわにすることはないが、その横顔には、わずかな緊張が滲んでいた。


(……この主人公、いい目をしてる。演技も、台詞も甘いけど……芯がある)


 時折、目元だけがわずかに動いた。 それは、厳しい舞台の世界を知るものだけが持つ、「熱を内に秘めた冷静さ」。

 隣のあかりが泣きそうになっているのに気づいても、何も言わない。 ただ、ちらりと視線を向けて、すぐに画面に戻した。


(あんな風に、感情をそのまま表に出せるって、ある意味すごい)


 でも、自分にはもうできない。 エリカは、それを自覚していた。


  ──物語は、クライマックスを迎える。


 主人公が、かつての恩師の死を乗り越えて舞台に立つ。 セリフではなく、立ち姿だけで、観客を魅了する一幕。

 あかりは、目を潤ませながら息を呑んだ。

 澪は、まぶたを伏せて──ほんの少し、指先を握り締めた。

 エリカは、誰にも気づかれぬように、膝の上の手に力を込めていた。


  ──照明がついた。


 客席はゆるやかにざわめき、観客が立ち上がる。

 あかりは両手で目をこすって、ぽんと膝を叩いた。


 「……すごかった。私、ああいう役、いつか絶対やってみたい……!」

 

 澪は少し微笑んで言った。


 「そうだね。でもあれは、現実にはすごく“運”がいる役だと思うな」


 「うん、たしかに……」


 と、言いつつもあかりの瞳はまだ、熱を宿していた。


 「……でも、あの演技で泣ける観客って、案外すごいと思うわ」


 と、エリカがぽつりと言った。

 澪とあかりがエリカを見つめる。


 「泣くって、感情を出すってこと。 出せる人は、強い。出せなくなった人には、届かないこともあるの」


 その言葉が、どこか自分自身に向けられているように聞こえた。

 澪はふと、視線をエリカに預けた。

 その瞳は変わらず冷静で、しかし奥の奥に燃えるような熱を孕んでいた。


(この人、たぶん……私よりずっと深く、傷ついたことがあるのかもしれない)


**

 

 春の街。

 映画館の外には、柔らかな日差しと街のざわめきが満ちていた。

 3人は並んで歩き出す。

  まだ、完全に距離が縮まったわけではない。

 けれど── それぞれが同じスクリーンを見たことで、 少しずつ、互いの心の奥を知った気がしていた。

 この日が、3人にとって、ただの休日ではなく、

 次の舞台への、静かな始まりだった。

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