87:春休みのお出かけ
春休みも中盤に差しかかるころ。
学内はすっかり静けさに包まれていた。
寮の食堂も談話室も、普段より人影は少なく、昼夜の境目さえ曖昧になっている。
そんな空気の中、澪はここ数日、ある違和感を拭えずにいた。
ときどき、夜になると、あかりがふっと姿を消す。
理由を聞けば「ちょっと自主練習」と返ってくるが、帰ってきた彼女はいつも、うわの空だった。口数も少し減り、笑顔に影がある。
澪には、それがどうしても気がかりだった。
午前の陽射しが寮の窓に差し込み始めたころ。
澪は自室でストレッチをしていたあかりに声をかけた。
「ねえ、今日は……自主練、ちょっとやめにしない?どこかに出かけようよ。せっかくの春休みなんだし」
あかりは、少し驚いたように振り向く。
「え……でも、せっかくここまで頑張ってきたし……この調子で続けたほうが……」
「うん、でも、頑張りすぎると逆に視野が狭くなっちゃうよ。リフレッシュも練習のうち、って先生たちも言ってたじゃない?」
澪の声はやさしく、それでいてどこか“あかりの心の奥”を見透かしているような強さがあった。あかりは言葉を探すように黙り込む。
澪の前では、いつも自分が素直になってしまう。
そう感じる瞬間だった。
「……わかった。今日は、行ってみようか」
小さく微笑むあかりに、澪もほっとしたように頷いた。
「せっかくならさ、エリカも誘ってみない?」
その言葉に、澪の表情が一瞬だけ固まる。
「……エリカ? えっと……うーん」
あかりはその反応に気づきながらも、軽く笑って言う。
「無理に仲良くなる必要はないけど、断られるかもしれないし、誘うだけ誘ってみようよ。春休みに3人で出かけるなんて、きっと一度きりかもしれないしさ」
あかりのその一言には、どこか今の関係を変えたいというような、淡い決意がにじんでいた。
澪はそれを感じ取ったのか、少しだけ黙って──やがてうなずいた。
「……そうだね。あかりがそう言うなら」
***
寮の外階段を下り、別棟のエリカの部屋をノックする。
あかりは軽やかに言う。
「エリカ、いるー?」
中から少し間があって、ゆっくりと扉が開いた。
朝の光が差し込むその隙間から、エリカが無言であかりを見つめる。その視線は相変わらず鋭く、そして澪のほうへほんのわずかに流れた。
「ねえ、今日だけは練習なしにして、3人で出かけない?お昼でも食べに行こうよ。気分転換」
エリカはあかりの顔をじっと見たあと、ちらりと澪の表情を確認する。澪は視線をそらさず、少しだけ緊張したまま立っていた。
そして──
「……いいわ」
短く、それだけ言って、エリカは扉を少し広げる。
あかりは笑顔を見せた。
「じゃあ、あと一時間後に玄関集合で!」
そして、3人の春休みの一日は、まだ誰も知らない静かな予感とともに──始まりを迎えようとしていた。
***
薄曇りの春空の下。
校舎の門を出た3人は、少し風の強い歩道を抜けて、最寄りの駅へと向かっていた。
「ここに来てから、電車に乗るの久しぶりかも」
あかりが言うと、澪もふふっと笑ってうなずく。
「うん。寮生活って便利だけど、意外と外の空気を忘れちゃうね」
エリカは少し後ろを歩きながら、淡々とした様子で二人の会話に耳を傾けていた。その横顔はどこかまだ緊張をまとっているようにも見える。
電車がホームに入ってくると、あかりが駆け足で駆け寄った。
「来た来た! 映画館、たしか3駅先だったよね?」
「うん。そんなに遠くない」
車内はまだ空いていて、3人は並んで座ることができた。揺れる車内の静けさに、しばらくは沈黙が流れる。だが、その沈黙を破ったのは、やはりあかりだった。
「ねえ……そういえばさ」
ふと窓の外を見ながら、ぽつりと。
「今年の入試って、倍率どれくらいなんだろうね?」
その一言に、澪が目を丸くする。
「う~ん、私たちのときと同じくらいなんじゃな?」
「私、正直、受かると思ってなかったんだよね」
あかりがくすっと笑う。
「バレエも日舞も声楽も、中途半端だったし。でも、面接のとき──あの如月先生を見て、『あ……本物だ』って思って、変に緊張しちゃってさ」
澪が微笑む。
「分かる。テレビや雑誌で見てたもんね。如月玲奈……あの天翔の王子様が、目の前にいたらそりゃ緊張するよ」
「……私も、緊張はしたわ」
と、ここでエリカが口を開いた。
少し遠くを見ながら、低い声で続ける。
「でも、私は面接、5分しかなかったの。質問も二つだけ」
「えっ……!?」
あかりと澪が同時に声を上げた。
「5分!?そんなに短かったの?」
「うん。『志望理由』と『自分の強み』を聞かれて、終わったの。終わった瞬間、“あ、落ちたな”って本気で思った」
澪は意外そうに眉をひそめた。
「……それ、逆にすごいね。私は……たぶん30分くらいあった」
「えっ、30分も!?」
今度はあかりが驚く番だった。
「うん。途中から如月先生ともうひとりの先生で、“この子は男役か娘役か”って話になって、延々と議論されて……すごくやりづらかったよ」
エリカがちらりと澪を横目で見て、小さくうなずく。
「……澪は、どっちの役でもいけそうだから。迷う気持ち、分かる」
あかりは澪の横顔を見ながら、心の中で思う。
(やっぱり澪って、どこか人を惹きつけるんだよな……)
電車はやがて目的の駅に着き、アナウンスが流れる。
「次は、終点。○○シネマシティ前、○○シネマシティ前です──」
「よし、着いた!」
あかりが立ち上がりながら明るく言った。その声に、エリカもほんの少しだけ口元を緩める。澪はそれを見て、ほんの一瞬だけ──驚いたような、けれど柔らかな目をした。
静かな車内の時間のなかで、3人の間に確かにあった“ぎこちなさ”は、少しずつ和らぎ、解け始めていた。
そして、春の街へと降り立った彼女たちは、まるで舞台の幕間のように、少しだ“素顔を取り戻していくのだった。
映画館の照明がゆっくりと落ち、スクリーンが光を帯び始める。
あかり、澪、エリカの3人は中央よりやや後ろの列に並んで座っていた。
選んだ作品は、若い舞台女優が栄光と挫折を繰り返しながら夢を追う、古い洋画のリバイバル上映だった。
──場面は、主人公が初舞台の袖で震えるシーンから始まる。
あかりは、最初から目を丸くして画面を見つめていた。
小さな息遣い一つも聞き漏らすまいとするような、真っすぐなまなざし。 主人公のセリフや表情にすぐ感情が反応し、眉が動き、頬がわずかに緩んだり、固まったり。
「……すごい……」
小さく漏れたその言葉は、無意識だった。
あかりにとって、これは物語ではなく未来の自分だった。震える脚も、無理に張った笑顔も、すべて自分がこれから辿るかもしれない感情と重なっていた。
隣に座る澪は、対照的だった。
同じスクリーンを見つめてはいるものの、そのまなざしはどこか冷めていた。
主人公が泣き崩れる場面でも、澪の目には涙は浮かばない。 けれど、そのまなざしには他人の悲しみを理解する知性があった。
(こういう物語は、最後にはうまくいくように作られてる……)
そう心のどこかで思いながらも、澪はふと、スクリーンに映る舞台袖の暗がりにだけ心を留めた。
──あそこは、誰にも見えない場所。
──でも、一番心が出てしまう場所。
澪は静かに、自分の中の本音にふれた気がした。
そしてもう一人。エリカ。
彼女は腕を組んだまま、真っ直ぐスクリーンを見据えていた。 感情をあらわにすることはないが、その横顔には、わずかな緊張が滲んでいた。
(……この主人公、いい目をしてる。演技も、台詞も甘いけど……芯がある)
時折、目元だけがわずかに動いた。 それは、厳しい舞台の世界を知るものだけが持つ、「熱を内に秘めた冷静さ」。
隣のあかりが泣きそうになっているのに気づいても、何も言わない。 ただ、ちらりと視線を向けて、すぐに画面に戻した。
(あんな風に、感情をそのまま表に出せるって、ある意味すごい)
でも、自分にはもうできない。 エリカは、それを自覚していた。
──物語は、クライマックスを迎える。
主人公が、かつての恩師の死を乗り越えて舞台に立つ。 セリフではなく、立ち姿だけで、観客を魅了する一幕。
あかりは、目を潤ませながら息を呑んだ。
澪は、まぶたを伏せて──ほんの少し、指先を握り締めた。
エリカは、誰にも気づかれぬように、膝の上の手に力を込めていた。
──照明がついた。
客席はゆるやかにざわめき、観客が立ち上がる。
あかりは両手で目をこすって、ぽんと膝を叩いた。
「……すごかった。私、ああいう役、いつか絶対やってみたい……!」
澪は少し微笑んで言った。
「そうだね。でもあれは、現実にはすごく“運”がいる役だと思うな」
「うん、たしかに……」
と、言いつつもあかりの瞳はまだ、熱を宿していた。
「……でも、あの演技で泣ける観客って、案外すごいと思うわ」
と、エリカがぽつりと言った。
澪とあかりがエリカを見つめる。
「泣くって、感情を出すってこと。 出せる人は、強い。出せなくなった人には、届かないこともあるの」
その言葉が、どこか自分自身に向けられているように聞こえた。
澪はふと、視線をエリカに預けた。
その瞳は変わらず冷静で、しかし奥の奥に燃えるような熱を孕んでいた。
(この人、たぶん……私よりずっと深く、傷ついたことがあるのかもしれない)
**
春の街。
映画館の外には、柔らかな日差しと街のざわめきが満ちていた。
3人は並んで歩き出す。
まだ、完全に距離が縮まったわけではない。
けれど── それぞれが同じスクリーンを見たことで、 少しずつ、互いの心の奥を知った気がしていた。
この日が、3人にとって、ただの休日ではなく、
次の舞台への、静かな始まりだった。




