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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
85/140

85:春の夜と揺れる心

 春の夜は、妙に静かだった。外はまだ風が強く、ガラス窓を小さく叩く音が規則正しく響いている。

 人影の減った寮の談話室。灯りはひとつ、あかりの頭上だけを照らしていた。

 誰もいない長椅子に、あかりは一人腰を下ろしていた。頬杖をつきながら、開きかけたノートを眺め、何も書かれないページをじっと見つめている。


 「……春の夜は、長いわ」


 ふいに、耳の奥で誰かの声が蘇った。

 甘く、深く、低く響くあの声。――宝生聖子の声。

 春休みに入る前夜。

 あの晩、聖子の部屋のドアをノックした自分。開いた扉の向こうで、妖艶な微笑みとともにあかりを招き入れた彼女。深い紅茶の香りと、ほの暗い間接照明の光。

 「進級おめでとう」と言った後の、あの言葉。


> 「あなたがこの部屋を訪れたいときに、この部屋を訪れなさい。 春の夜は長いわ。特別な春にしてあげる。」


 思い出しただけで、胸の奥がざわりとする。まるで薄い絹を撫でるような声だった。

 それはレッスンという言葉の枠を超えて、あかりの中に潜む何かを揺さぶった。

 あれから数日が経った。

 昼は、澪とエリカと三人で自主練習をしている。最初はぎこちなかったけれど、今ではどこか安心できる時間になってきた。澪の静かでまっすぐな言葉、エリカの厳しくも温かい視線。そして自分の中にも、確かな手応えが芽生えはじめていた。


 だけど――。


 あの夜の感覚を、一度思い出してしまうと、心の奥に熱を帯びたものが残っているのを、無視できなくなる。


(……また、行ってもいいのかな)


 それはただのレッスンへの欲求なのか。あるいは、聖子という人の醸す、舞台とはまた別種の魅力に惹かれているのか。

 わからない。

 わからないまま、心は少しずつ傾いていく。


 窓の外を見れば、桜の枝が風に揺れている。満開にはまだ早い。だが、確実に春はそこにあった。

 ふと、あかりは立ち上がる。ノートを閉じ、そっと胸に抱えたまま、談話室を後にする。

 この夜、彼女が向かう先を、まだ誰も知らない。

 けれどその背中には、はっきりと「選択の気配」が漂っていた。


 ――春の夜は、まだ長い。



***


 寮の廊下を静かに歩きながら、あかりはふと立ち止まった。

 談話室から戻る途中、階段の踊り場にある小さな窓のそば。風が微かに入り込み、制服の袖を撫でる。外にはまだ若い桜の枝が揺れていて、その下を誰も歩いていない。

 今夜はとても静かだ。

 あかりは胸に手を当てて、深く息を吸い込んだ。それだけで、喉の奥まで熱が上がってくるような感覚がした。


(……これって、なんなんだろう)


 最近、ずっと胸の奥にあるざわめき。

 宝生聖子の声、仕草、視線。

 それらを思い出すだけで、呼吸が浅くなる。

 あの、整いすぎていて、どこか影を含んだ横顔。

 茶葉を注ぐ細い指。

 稽古のあとに微笑むあの唇のかたち。


(好き……なの?)


 そう問いかけた瞬間、あかりは自分の心が跳ねたのを感じた。

 でも――「憧れ」と「好き」って、どう違うんだろう。

 天翔歌劇団を目指していた頃、あかりはDVDの中のトップスターに恋をしたことがある。「こんな人になりたい」と思いながら、いつの間にか「こんな人に抱きしめられたい」と思っていた。

 でもそれは、あくまで夢の中の話で。まさか、今、生きて隣にいる人に、同じ感情を抱いているなんて……。


 いや、違うのかもしれない。

 舞台に立つ人への憧れ。

 美しい存在に見とれる気持ち。

 それが恋に似ているだけかもしれない。


 それとも。


 聖子の手が肩に触れたときの、あの熱。

 耳元でささやかれたときの震え。

 それは恋じゃなければ、何だというのか。


(わたし……どうしたらいいんだろう)


 はっきりした言葉にはならない。

 でも、身体がそれを覚えている。

 目を閉じれば、あの部屋の灯りの色まで、くっきりと浮かぶ。


(怖い……でも、知りたい)


 春の夜風が、少し冷たく感じた。

 けれどその中に、自分を新しい場所へ運んでいく予感も、微かに混じっていた。


 あかりは顔を上げた。

 まだ答えは出ないけれど――この気持ちをまっすぐに見つめてみたい、と思った。

 廊下の先、教師棟へと続く暗がりの向こうに、灯りが一つ、あかりの心を試すように、じっと待っているようだった。



***


 寮の裏手に回り込み、講師棟へとつながる小道を歩くと、夜の空気が急に変わる。人の気配がまったく消えた、もうひとつの世界のようだった。

 講師棟の階段を上りながら、あかりは手すりにそっと手を添えた。軋む鉄の音が、夜気にかすかに響く。誰かに聞かれてはいけないわけではないのに、心臓が高鳴るのを止められなかった。

 五階まで、あと少し。

 そのたびに心が一段ずつ震えていくような感覚だった。


(行って、どうするの?)


 自分に問いながら、それでも足は止まらなかった。

 聖子の言葉が耳の奥で、静かに息をする。


 「春の夜は長いわ。特別な春にしてあげる」


 五階の廊下に出た瞬間、あかりは立ち尽くした。

 昼間は明るすぎるほどの光が差し込むこの廊下も、今は闇に沈んでいた。非常灯の緑色の光だけが、ゆらりと床を照らしている。

 そして、あの扉の前へ。

 あかりはしばらく扉を見つめていた。

 ノックをしようとした手が、わずかに震えた。緊張なのか、何か別の感情なのか、自分でもわからなかった。

 小さく、二度、ノックする。


 ……返事はない。


 耳を澄ませる。でも、室内からは何の物音もしない。テレビの音も、足音も、ページをめくる音さえもしなかった。


(……いないの?)


 それとも――ただ、出てきたくないだけ?

 そんな考えがよぎった瞬間、心臓がひゅっと縮む。あかりはそっとドアノブに触れたが、もちろん施錠されている。彼女は自嘲気味に微笑んだ。


(わたし、何してるんだろう)


 気まずさとも寂しさともつかない感情が胸に広がる。

 けれど、そのなかにある安堵もまた、否定できなかった。


(今夜は、違ったのかも。……それだけ)


 扉の前からそっと離れ、来た道をゆっくりと戻る。

 夜風が、冷たくも心地よく肌を撫でた。


 「会えなくて、よかったのかもしれない……ね」


 誰にも聞こえないような声で、あかりはぽつりとつぶやいた。

 その言葉が空に溶けていくころ、あかりの頬にかすかに春の風が触れた。

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