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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
84/140

84:前に進む道

【夕暮れの講師棟3階・講師室】


 陽が落ちきる少し前の時刻、講師棟の廊下には朱色の光が差し込んでいた。その光は磨かれた床に、長く影を落とす。

 講師室の一角で、如月玲奈は黙々と書類を整理していた。静けさの中、紙が擦れる音だけが耳に残る。

 そこへ、ハイヒールの音がひとつ、廊下に響いたかと思うと、ドアがそっと開いた。


 「宝生先生、今いいかしら?」


 振り返ると、そこには宝生聖子がいた。

 黒のカーディガンの下に柔らかいベージュのワンピースをまとい、髪を片側に流したその姿には、どこか夜を予感させる艶やかさがあった。


 「……構わないけれど、何の用?」


 玲奈は手を止め、そっとペンを置いた。

 聖子は玲奈の前に歩み寄ると、窓の外にちらと目をやりながら本題を切り出す。


 「神田麻琴のこと」


 玲奈の指が一瞬止まった。


 「……彼女が、どうかした?」


 「今日また、私の部屋に来たわ。特別レッスンを受けさせてほしいって」

 

 聖子の声には、どこか疲れた響きがあった。それでも微笑みは崩さず、あくまで淡々と語る。


 「もちろん、断ったわ。私は彼女の特別レッスンをするつもりはないの」


 玲奈は聖子の目を見つめる。


 「でも、それだけ言うために来たの? あなたが生徒を拒むなんて、よくあることじゃない」


 聖子は片眉を上げ、小さく笑った。


 「ええ。だけど――あれほど真剣に頭を下げられると、少し、ね。やる気のある生徒に対して、このままノーを突きつけ続けるのが正しいのか、考えてしまったのよ」


 「……それで、私にどうしろと?」


 玲奈の声には迷いはない。けれどその瞳は、聖子の思惑を探るように細く揺れていた。

 聖子はまるで打ち合わせたかのように言った。


 「あなたが面倒を見るのはどうかと思って」


 玲奈は無言で聖子を見つめる。そして、ゆっくりと首を横に振った。


 「私はどの生徒にも分け隔てなく接するって、決めているの。誰か一人を特別扱いすれば、他の子たちの信頼を失う。だから、誰にも個別には教えない」


 すると聖子は、唇の端を軽く持ち上げて言った。


 「ご立派。さすがね、如月先生」


 皮肉とも賞賛とも取れる口ぶりだった。

 それでも玲奈は、目を伏せてから小さくため息をついた。


 「……神田麻琴のことは、私も気にはなっている。真面目で、挫けそうでも食らいつく子。才能だけでは測れない何かを、あの子は持ってる」


 聖子はわずかに目を細めた。


 「それなら――」


 「私には何もできない。でも……霧島先生になら、話してみることができるかもしれない」


 玲奈はまっすぐに聖子を見つめ、言い切った。


 「彼なら、麻琴にとっても意味のある指導ができるかもしれないわ」


 聖子は黙って玲奈を見つめ、それからふっと微笑んだ。


 「助かるわ」


 夕闇は静かに、講師棟の廊下を包んでいく。春はもう、すぐそこに来ていた。

 そして、聖子は音もなく踵を返すと、夕闇のなかへ溶けるように、静かに講師室を後にした。

 その背中に、玲奈は小さく呟いた。


 「……私だって、あの子を見放したいわけじゃないのよ」


 自分にしか守れない生徒がいる。

 それは、教えること以上に難しく、重たい責任だ。


(麻琴……あなたの必死さが、誰にも届かないなんて、そんな世界じゃないことを願うわ)


 窓の外に残る夕焼けの残光が、玲奈の瞳に淡く映っていた。



***


【講師棟2階・霧島要の部屋】


 午後の光がやや傾きかけた頃、如月玲奈は講師棟の2階へと足を運んでいた。

 静かな廊下を歩き、木製の重たい扉の前で軽くノックする。


 「どうぞ」


 聞きなれた低い声が返り、玲奈はドアを押して中へ入った。

 霧島要は、デスクの上の資料に目を通していた。グレーのシャツにネイビーのカーディガンを羽織り、彼らしい落ち着いた雰囲気を纏っている。


 「少し、お時間いいですか?」


 「如月先生? 珍しいですね、あなたからここに来るのは」


 霧島は顔を上げると、手元の資料を閉じて椅子の背にもたれかかった。

 玲奈はまっすぐに彼の視線を受け止める。


 「宝生先生から……神田麻琴のことについて、相談を受けました」


 その名を口にした瞬間、霧島の眉がわずかに動いた。

 だが、驚きというよりは、懐かしさと納得の混じった反応だった。


 「……神田、ね」


 霧島は腕を組み、少し目を細めた。


 「選抜試験には落ちたけど、努力家ですよ。私も以前、2か月ほど補習を担当しましたから、あの子の必死さはよく知ってます」


 玲奈は頷き、続ける。


 「彼女、今とても追い込まれています。外部レッスンも経済的に厳しい。宝生先生に特別レッスンを申し出たものの、断られました。私も彼女の特別レッスンを引き受けることはできません」


 霧島は静かに聞いていたが、やがて小さく息をついた。


 「宝生先生が……わざわざあなたに、神田麻琴のことを?」


 「ええ。……でも、あの人、言葉を濁してはいたけれど、あの子を見捨てたいわけじゃないみたいです」


 その言葉を受け、霧島は一瞬だけ視線を泳がせた。

 そのあとで、まっすぐ玲奈を見返す。


 「……なるほど。つまり、宝生先生の代わりに私が面倒を見ろと、そういうことか」


 霧島は静かに頷くと、椅子の背にもたれ、組んだ指先を唇に当てる。


 「たしかに、神田麻琴には真面目さがある。器用ではないが、努力を惜しまない生徒だ。だが……才能の面で言えば、頭ひとつ抜けたものはない」


 玲奈は一瞬、眉をわずかにひそめた。


 「……それでも、あの子にはまだ変わる可能性があると私は思っています。だから、諦めてほしくない」


 霧島は少しだけ笑みを浮かべた。


 「如月先生がそこまで言うのは珍しいな」


 「私自身、特別レッスンの類は好まない。でも……あの子がこの春を無為に過ごすのは、あまりに惜しい。霧島先生、あなたの指導ならあの子にとっても意味のある指導ができると思う」


 霧島はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと頷いた。


 「……いいでしょう。やってみます」


 玲奈の瞳が、ほっとしたように細められる。


 「ありがとうございます、霧島先生」


 霧島は苦笑しながらも、どこか嬉しそうだった。


 「私も教師ですからね。やる気のある生徒を見過ごすわけにはいかない。神田には、前に進む道が必要だ」


 玲奈は静かに礼を述べ、研究室をあとにした。

 扉が閉まったあと、霧島は窓の外に目をやり、小さくつぶやいた。


 「……あの子が、また立ち上がれるといいが」


 春の風が窓の隙間から吹き込み、机の上の書類を少し揺らした。



***


【 春休み・午後の教室棟ロビー】


 神田麻琴は、窓辺のベンチにひとり座っていた。

 手元のノートをぼんやりと眺めながら、何度も書いては消した練習メニューを見つめている。

 外は春の日差し。けれど、心にはまだ、寒い風が吹いていた。

 進級試験の結果が出てから、どれほど時間が経っただろう。

 あの日、「なんでもする」と言って聖子の部屋を訪ねた。だが、聖子から返ってきたのはやんわりとした拒絶だった。

 

(……やっぱり私なんかじゃ、だめなんだ)


 麻琴の胸の奥が、じくじくと疼いた。


 「神田」


 不意にかけられた声に、麻琴は小さく肩を跳ねさせた。

 顔を上げると、講師の霧島要が立っていた。


 「霧島先生……?」


 「ああ、ちょっと話がある。いいか?」


 霧島は麻琴の隣に腰を下ろした。

 春の光が、ふたりの間に静かに差し込んでいた。


 「この春休みのあいだ、俺の特別にレッスンを受けてみないか?」


 「……え?」


 麻琴の目が見開かれる。


 「演技と表現の基礎を、もう一度鍛え直す。それと、舞台に立つ上での身体作りもな。短期集中の補習というかたちだ。……どうだ?」


 麻琴は一瞬、返す言葉を失った。

 それは、喉の奥に詰まっていた感情を揺さぶられるような提案だった。


 「……でも……私、選抜にも入ってませんし、成績も下の方で……なぜ……」


 「やる気がある生徒を放っておけない。それだけだ」


 霧島の言葉は淡々としていたが、その奥にあった真摯な温度は、麻琴の胸をまっすぐに打った。


 「……あの、これって……宝生先生の——」


 「宝生先生に“直接頼まれたわけじゃない。だが、君のことを気にしていたのは事実だ。……それに、如月先生も」


 麻琴は息を飲んだ。あの冷静で毅然とした玲奈が、自分のために——。


 「私なんかが……受けてもいいんでしょうか……」


 「なんかじゃない」


 霧島は語気を強めた。


 「舞台に立ちたいと思って、ここに来ているだろう。君にもその資格はある。——やるか、やらないかは、自分で決めろ」


 麻琴の手が、膝の上でぎゅっと握られる。

 そして次の瞬間、彼女は顔を上げて、霧島の目をまっすぐに見返した。


 「……やります。私、やります!」


 春の光が、まるで答えるように麻琴の頬を照らした。

 霧島は、口元を少しだけ緩めると、静かに頷いた。


 「じゃあ、明日から朝9時。教室はCスタジオを使う。準備運動は済ませておくように」


 「……はい!」


 麻琴の声は、今までになくはっきりとしていた。

 胸の奥に差していた暗い影が、少しだけ薄くなった気がした。

 ベンチに残ったノートの上に、新しい風が吹いたようだった。

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