83:再びのお願い
【春休み・午後の専門学校 廊下にて】
風の強い午後だった。
吹き抜ける風が校舎の窓を震わせ、空の明るさとは裏腹に、どこか冷たさを孕んでいた。
静まり返った専門学校の廊下を、神田麻琴は歩いていた。
春休みとはいえ、寮に残った者の多くは自主練に励んでいる。麻琴もまた、何をすべきかを探していた。
けれど、心は重かった。
(……私は、何をしてるんだろう)
春の進級試験の結果は22位。ぎりぎりで、下位クラスへ振り分けられた。特別レッスンの選抜にも落ち、外部レッスンを受けたくても――家庭の事情で、それは難しい。
(私だって、頑張ってきたはずなのに……)
歩く足を止めた。
ふと、開け放たれた教室の扉から声が聞こえた。
「……ここは、この流れで入りましょう。せーの!」
教室の奥で、三人の姿が跳ねるように舞っていた。
鷹宮あかり、綾小路澪、紫堂エリカ。
春休みにも関わらず、三人で自主練をしているのだ。
窓から差し込む陽光の中で、三人は踊っていた。汗ばむ髪を揺らし、声を掛け合い、笑い合いながら。
あかりが少しバランスを崩すと、澪が優しく支える。エリカが新しいステップを提案し、ふたりが頷く。
それはとても自然で、まるで呼吸のような調和だった。
麻琴は、足を止めたまま、その光景を見つめていた。
(あかり……)
思い出す。
かつて、自分と同じ補習を受けていたあかり。あの頃は、麻琴のほうが上だった。少なくとも、そう信じていた。
なのに、今――。
「……くそ……」
つぶやいた声は、誰にも届かない。
あの場に自分も入りたいと、思ってしまった。でも、口にすることはできなかった。
選ばれたわけでもない。聖子にも拒まれた。誰かにすがるのも、情けなくてできなかった。
ただ黙って、扉の外に立ち尽くすだけ。
そして、静かに背を向けた。廊下の先へ、ただ歩き出す。その足取りは、重く、悔しさを引きずるようだった。
(まだ、終わってない。……まだ、終われない)
振り返ることはしなかった。
だけど、心の奥に残った光景は、鮮やかで、苦しかった。
春休みの静かな午後。
舞台に懸ける者たちの影が、知らぬところで交差し始めていた。
***
一度、寮に戻ったものの、麻琴は自室でじっとしていられなかった。
窓の外には沈みかけた陽が、校舎の壁を茜色に染めている。
(自分は、何も変われていない……)
進級試験に落ちたことも、選抜試験に選ばれなかったことも――すべて、自分の実力が足りなかったからだと、今ならわかる。
(あかりは……変わった)
最初は自分と同じ位置にいた。むしろ、あの頃は自分のほうが上だった。
でも、あかりは這い上がった。
一方の自分は、レッスンを断られただけで落ち込んで、人に頼るのも、情けないと思って、そうして動けないまま、足を止めていた。
(……誰に笑われたっていい。悔しいまま、終わるのはもっと嫌だ)
麻琴はゆっくりと立ち上がった。
自分の足で、自分のペースで、もう一度やり直すために。
机の引き出しから取り出したのは、進級試験の個人成績表。
そこには、「日舞C」「演技C+」「声楽B」「モダンB-」と並んでいた。
「足りないところは、全部やる。人の倍、いや三倍やればいい」
誰かに引き上げてもらうのではなく、自分で、自分を舞台に立たせる。
「やる。やってやる……!」
次のチャンスが来るまでに、追いつく。
そしていつか、選抜にも、主役にも――自分の名前を刻む。
机の上のレッスンスケジュール表を手に取る。
教室の空き時間、寮の自主練スペース、図書室の利用枠――一つひとつ書き込みながら、麻琴は自分だけの特訓計画を立て始めた。
背筋を正し、顔を上げる。
「私にだって……できる。絶対、できる」
声に出すと、不思議と涙がにじんだ。
ずっと閉じていた心の奥から、何かが少しずつ剥がれていく。
その夜、麻琴は誰にも知られず、静かに教室の鍵を借りた。
そして、鏡の前に立ち、誰もいない教室で一人、舞台のセリフを繰り返す。
「――愛したわけじゃない。ただ、そこにあなたがいただけ……」
声はまだ拙く、身体もぎこちない。
けれど、目の奥だけは、燃えるような熱を宿していた。
今、ようやく彼女の「本当の闘い」が始まったのだった。
***
翌日。
陽が高く昇り、窓から射し込む光が廊下を淡く照らしていた。
その光の中を、麻琴は迷いなく歩いていた。
制服の襟元をきちんと正し、拳を小さく握りしめながら、講師棟の三階、宝生聖子の部屋の扉の前に立つ。
ノックの音は、ほんのわずか震えていた。
「……入って」
聖子の声は、相変わらず柔らかく、冷ややかだった。
ドアを開けると、聖子はソファに腰掛けて紅茶を手にしていた。
テーブルの上には、読みかけの戯曲が広がっている。
「あら、神田さん。どうしたの?」
「……先生、お願いがあって来ました」
「お願い?」
聖子はほんの少しだけ眉をひそめる。
「前に、特別レッスンをお願いしたとき、先生はお断りになりました。でも、どうしても……どうしても、受けたいんです。どうしても舞台に立ちたいんです。上に行きたい。だから、なんでもします。特別レッスン、していただけませんか」
懸命な声。まっすぐな視線。
だが、聖子は目を伏せ、しばし沈黙した。
そして、困ったような微笑を浮かべる。
「神田さん……私ね、すべての生徒に特別レッスンを断っているわけじゃないの」
麻琴の唇が震えた。
一瞬、息を呑んで、言葉が喉につかえる。
「……それじゃあ……先生は、私だから、断ったんですか?」
聖子は紅茶を一口啜り、視線を麻琴に戻す。
その目は淡く、どこか遠くを見ているようだった。
「あなたに何が足りない、とは言わないわ。でもね、特別レッスンというのは、生徒と講師の間に……ある種の濃密さが必要なの」
「……ほかの生徒には、その濃密さがあるんですか?」
少し強い声で麻琴が問う。
聖子は唇にかすかに笑みを浮かべたが、即答はしなかった。
「その話は、ここではしないわ」
「なんでもします、先生……お願いです。嫌なら嫌って、はっきり言ってください。でも、私は本気なんです。選抜にも落ちて、成績も下がって、自分に何が足りないかもわからない。でも……だからこそ、先生の力を借りたいんです」
紅茶のカップが、静かにソーサーの上に置かれた。
「……少し、考えさせてちょうだい」
短く、穏やかに、しかしそれ以上は聞くなとでも言いたげに、聖子は言った。
「今は……気持ちの整理がつかないの。だから今日は、帰って」
麻琴は黙ってうなずいた。
わかっていた。答えをくれる気など、最初からなかったのかもしれない。
扉の外に出た瞬間、聖子の部屋の空気が、音もなく彼女の背中から切り離された。廊下を歩きながら、麻琴は唇を噛んだ。
(濃密さ?そんなもの……私にはない)
あかりの顔が、ふと脳裏をよぎった。
でも、それでも──
(あきらめない。あの人が認めないなら、別の誰かに認めてもらうまでやる。先生に頼れないなら、自分でやる)
涙はこぼさない。それが、神田麻琴の最後の矜持だった。




