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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
83/140

83:再びのお願い

【春休み・午後の専門学校 廊下にて】


 風の強い午後だった。

 吹き抜ける風が校舎の窓を震わせ、空の明るさとは裏腹に、どこか冷たさを孕んでいた。

 静まり返った専門学校の廊下を、神田麻琴は歩いていた。

 春休みとはいえ、寮に残った者の多くは自主練に励んでいる。麻琴もまた、何をすべきかを探していた。

 けれど、心は重かった。


(……私は、何をしてるんだろう)


 春の進級試験の結果は22位。ぎりぎりで、下位クラスへ振り分けられた。特別レッスンの選抜にも落ち、外部レッスンを受けたくても――家庭の事情で、それは難しい。


(私だって、頑張ってきたはずなのに……)


 歩く足を止めた。

 ふと、開け放たれた教室の扉から声が聞こえた。


 「……ここは、この流れで入りましょう。せーの!」


 教室の奥で、三人の姿が跳ねるように舞っていた。

 鷹宮あかり、綾小路澪、紫堂エリカ。

 春休みにも関わらず、三人で自主練をしているのだ。

 窓から差し込む陽光の中で、三人は踊っていた。汗ばむ髪を揺らし、声を掛け合い、笑い合いながら。

 あかりが少しバランスを崩すと、澪が優しく支える。エリカが新しいステップを提案し、ふたりが頷く。

 それはとても自然で、まるで呼吸のような調和だった。

 麻琴は、足を止めたまま、その光景を見つめていた。


(あかり……)


 思い出す。

 かつて、自分と同じ補習を受けていたあかり。あの頃は、麻琴のほうが上だった。少なくとも、そう信じていた。

 なのに、今――。


 「……くそ……」


 つぶやいた声は、誰にも届かない。

 あの場に自分も入りたいと、思ってしまった。でも、口にすることはできなかった。

 選ばれたわけでもない。聖子にも拒まれた。誰かにすがるのも、情けなくてできなかった。

 ただ黙って、扉の外に立ち尽くすだけ。

 そして、静かに背を向けた。廊下の先へ、ただ歩き出す。その足取りは、重く、悔しさを引きずるようだった。


(まだ、終わってない。……まだ、終われない)


 振り返ることはしなかった。

 だけど、心の奥に残った光景は、鮮やかで、苦しかった。

 春休みの静かな午後。

 舞台に懸ける者たちの影が、知らぬところで交差し始めていた。



***


 一度、寮に戻ったものの、麻琴は自室でじっとしていられなかった。

 窓の外には沈みかけた陽が、校舎の壁を茜色に染めている。


(自分は、何も変われていない……)


 進級試験に落ちたことも、選抜試験に選ばれなかったことも――すべて、自分の実力が足りなかったからだと、今ならわかる。


(あかりは……変わった)


 最初は自分と同じ位置にいた。むしろ、あの頃は自分のほうが上だった。

 でも、あかりは這い上がった。

 一方の自分は、レッスンを断られただけで落ち込んで、人に頼るのも、情けないと思って、そうして動けないまま、足を止めていた。


(……誰に笑われたっていい。悔しいまま、終わるのはもっと嫌だ)


 麻琴はゆっくりと立ち上がった。

 自分の足で、自分のペースで、もう一度やり直すために。

 机の引き出しから取り出したのは、進級試験の個人成績表。

 そこには、「日舞C」「演技C+」「声楽B」「モダンB-」と並んでいた。


 「足りないところは、全部やる。人の倍、いや三倍やればいい」


 誰かに引き上げてもらうのではなく、自分で、自分を舞台に立たせる。


 「やる。やってやる……!」


 次のチャンスが来るまでに、追いつく。

 そしていつか、選抜にも、主役にも――自分の名前を刻む。

 机の上のレッスンスケジュール表を手に取る。

 教室の空き時間、寮の自主練スペース、図書室の利用枠――一つひとつ書き込みながら、麻琴は自分だけの特訓計画を立て始めた。

 背筋を正し、顔を上げる。


 「私にだって……できる。絶対、できる」


 声に出すと、不思議と涙がにじんだ。

 ずっと閉じていた心の奥から、何かが少しずつ剥がれていく。

 その夜、麻琴は誰にも知られず、静かに教室の鍵を借りた。

 そして、鏡の前に立ち、誰もいない教室で一人、舞台のセリフを繰り返す。


 「――愛したわけじゃない。ただ、そこにあなたがいただけ……」


 声はまだ拙く、身体もぎこちない。

 けれど、目の奥だけは、燃えるような熱を宿していた。

 今、ようやく彼女の「本当の闘い」が始まったのだった。



***


 翌日。

 陽が高く昇り、窓から射し込む光が廊下を淡く照らしていた。

 その光の中を、麻琴は迷いなく歩いていた。

 制服の襟元をきちんと正し、拳を小さく握りしめながら、講師棟の三階、宝生聖子の部屋の扉の前に立つ。

 ノックの音は、ほんのわずか震えていた。


 「……入って」


 聖子の声は、相変わらず柔らかく、冷ややかだった。

 ドアを開けると、聖子はソファに腰掛けて紅茶を手にしていた。

 テーブルの上には、読みかけの戯曲が広がっている。


 「あら、神田さん。どうしたの?」


 「……先生、お願いがあって来ました」


 「お願い?」


 聖子はほんの少しだけ眉をひそめる。


 「前に、特別レッスンをお願いしたとき、先生はお断りになりました。でも、どうしても……どうしても、受けたいんです。どうしても舞台に立ちたいんです。上に行きたい。だから、なんでもします。特別レッスン、していただけませんか」


 懸命な声。まっすぐな視線。

 だが、聖子は目を伏せ、しばし沈黙した。

 そして、困ったような微笑を浮かべる。


 「神田さん……私ね、すべての生徒に特別レッスンを断っているわけじゃないの」


 麻琴の唇が震えた。

 一瞬、息を呑んで、言葉が喉につかえる。


 「……それじゃあ……先生は、私だから、断ったんですか?」


 聖子は紅茶を一口啜り、視線を麻琴に戻す。

 その目は淡く、どこか遠くを見ているようだった。

 

 「あなたに何が足りない、とは言わないわ。でもね、特別レッスンというのは、生徒と講師の間に……ある種の濃密さが必要なの」


 「……ほかの生徒には、その濃密さがあるんですか?」


 少し強い声で麻琴が問う。

 聖子は唇にかすかに笑みを浮かべたが、即答はしなかった。


 「その話は、ここではしないわ」


 「なんでもします、先生……お願いです。嫌なら嫌って、はっきり言ってください。でも、私は本気なんです。選抜にも落ちて、成績も下がって、自分に何が足りないかもわからない。でも……だからこそ、先生の力を借りたいんです」


 紅茶のカップが、静かにソーサーの上に置かれた。


 「……少し、考えさせてちょうだい」


 短く、穏やかに、しかしそれ以上は聞くなとでも言いたげに、聖子は言った。


 「今は……気持ちの整理がつかないの。だから今日は、帰って」


 麻琴は黙ってうなずいた。

 わかっていた。答えをくれる気など、最初からなかったのかもしれない。

 扉の外に出た瞬間、聖子の部屋の空気が、音もなく彼女の背中から切り離された。廊下を歩きながら、麻琴は唇を噛んだ。


 (濃密さ?そんなもの……私にはない)


 あかりの顔が、ふと脳裏をよぎった。

 でも、それでも──


(あきらめない。あの人が認めないなら、別の誰かに認めてもらうまでやる。先生に頼れないなら、自分でやる)


 涙はこぼさない。それが、神田麻琴の最後の矜持だった。

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