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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
82/140

82:3人の春休み

 春分を過ぎたとはいえ、早朝の風にはまだ少し冬の冷たさが残る三月下旬。

 それでも昼前には、柔らかい陽射しが学舎の廊下を穏やかに照らし、寮の庭先では沈丁花が小さく香り始めていた。

 世間では新学期への準備が進む季節。天翔歌劇団付属専門学校の校舎にも、生徒の姿はまばらだった。多くの生徒は一時実家に戻り、静寂に包まれた校舎と寮には、わずかな者だけが残り、自主練習に励んでいた。


 ――寮の朝、202号室。


 鷹宮あかりは、夜明けとともに起きた。

 進級試験で得た小さな自信を支えに、あかりは春休みの全日程を練習にあてると決めていた。上位クラスに残れたことがゴールではなく、ここからが再スタートだと、彼女は痛感していた。

 ルームメイトの綾小路澪もまた、あかりと同じように、「ここに残る」と決めていた。


 「行こっか、あかり」


 「うん。昨日より、もう一歩先に進みたいね」


 澪は白いパーカーのフードを被り、まだ眠そうな顔をしながらも柔らかく笑った。二人は水筒と練習用のトートを手に、まだ薄暗い校舎へと向かう。

 春の朝、人気のない教室。

 選抜レッスンでも使われた一番奥の教室。

 外の桜はまだ蕾のままだが、窓から入る光は明るく、机のない稽古場はまるで舞台のように静かで神聖だった。

 二人は互いの動きを見ながら、バレエの基礎やステップを確認し、その後は即興演技の課題を互いに出し合いながら、数分間の芝居を繰り返した。


 「……あかり、さっきの声の出し方、良かったよ。もっと息を使ってる感じがした」


 「ほんと? 澪の間合いもすごくよかった。感情が乗ってたっていうか……」


 いつもより少し息の弾んだ声が教室に響く。

 まるで秘密の劇団のように、二人だけのリハーサルは続いていた。

 そこへ。


 「……ちょっといい?」


 その教室の引き戸が静かに開き、紫堂エリカが教室の入り口に立っていた。

 黒のTシャツにモノトーンのレギンス。髪は低い位置でシニヨンに結われており、淡い化粧のままでも、どこか他の誰よりも舞台の人間としての威厳を纏っている。


 「エリカ……」


 「今日はこの教室しか使えないみたいなの。使っていいかしら?」


 エリカは視線を澪に送るが、あかりが先に微笑む。


 「もちろん! よかったら、3人で練習しない?」


 その一言に、エリカは一瞬、目を細めた。

 だが、すぐに口を閉ざし、ふっと視線を逸らす。


 「遠慮しておくわ。私はひとりの方が集中できるの」


 淡々とした返答に、空気がわずかに静かになる。

 だがその空気を、やわらかく澪が壊した。


 「エリカ。お互いに自分では気づかない癖とか、直した方がいいところって、意外とあるでしょ。

それを言い合える仲間がいるのって、恵まれてると思う」


 静かで優しい声。澪はあかりの方に視線を送りながらも、エリカに対してまっすぐに言葉を続ける。


 「私も、あかりとやってきてそう感じたの。……どうかな?」


 エリカはふっと息をつき、わずかに眉を寄せた。

 視線を澪と、そしてあかりへと交互に送り、何かを飲み込むように、軽く頷いた。


 「……そこまで言うなら、少しだけ」


 それは彼女なりの歩み寄りだった。

 まるで頑なに閉ざされていた扉が、わずかに軋んで開くような音が、教室の空気に響いたようだった。

 そしてその日から、三人の練習が始まる。

 それぞれがそれぞれの道を志しながら、一つの空間に集まり、互いの技術と感情をぶつけ合う。

 そこにはまだ友情でも対立でもない、名付けようのない“緊張と熱”が存在していた。

 春は、確実にそこまで来ていた。



***


 春の陽光が窓から差し込む午後。

 古びた練習教室の床に、三つの影が静かに揺れていた。

 一面の鏡の前で、鷹宮あかり、綾小路澪、そして紫堂エリカは、三人並んでバーレッスンを行っていた。

 音源から流れるゆったりとしたピアノの旋律に合わせて、三人の腕と脚が、滑らかに、あるいはぎこちなく、優雅に動いていく。

 最も正確な動きをしているのは、エリカだった。

 骨格と筋肉のバランス、重心のコントロール、指先にまで行き届いた意識。男役としての基礎を仕上げるには、バレエの技術は不可欠。エリカはそれを知り尽くしている。

 だが今、彼女の視線は隣にいるあかりに向けられていた。


(……また少し、うまくなってる)


 ルルヴェでの軸の取り方、アラベスクでの背中のライン。

 入学当初はバランスさえとれなかったあかりが、今は鏡越しにエリカの隣で、見劣りしない動きをしている。


(悔しい。……でも、認めざるを得ない)


 あかりは、この一年で変わった。努力して、食らいついて、転んでも立ち上がって、前へ進むことだけは絶対にやめなかった。

 それが今、確実に成果として現れ始めている。

 エリカは、己の胸の内にわだかまる焦りを噛み殺した。あかりに勝ちたい――そう思う自分が、今日のこの教室にはいる。

 けれどそれ以上に、澪の視線が気になって仕方なかった。

 澪は、時折、練習の途中でふと動きが途切れることがあった。パッセの最中、形は崩れていないのに、何かが抜け落ちたように見える。


(……あの目)


 それは、遠くを見つめるような、どこか悲しげなまなざしだった。

 エリカの視線に気づいたのか、澪は目をそらし、軽く笑って見せた。その微笑みが、エリカの胸に痛みを生んだ。


(……今、あの笑顔は私に向いてない)


 いつからだろう。

 澪があかりといるとき、あんなにも自然な表情を見せるようになったのは。

 そして、自分の前では、どこか隠すように笑うゆうになったのは。


 「エリカ、今のグラン・バットマン、もう少し前脚の軌道が大きいと、男役らしさが出ると思う」


 不意に、あかりが声をかけてきた。汗をぬぐいながら、鏡越しにエリカを見ている。

 その目に、揶揄も悪意もない。ただ真剣に、学び合う姿勢があった。


 「……そうね。ありがとう。今度は、あかりの肩の高さ、左右で少し違ってた。気をつけて」


 「うん、わかった。ありがとう」


 素直に頷くあかりの姿に、エリカはまた言葉にしがたいもやもやを感じた。

 あかりはきっと、澪がどんな顔をしているのか、わかっていない。けれどそれでも澪は、あかりに本音を見せている。

 エリカは気づいていた。

 澪の中にある役への迷いと自分らしさの葛藤。

 娘役に惹かれる心。けれど体格も声も、男役向きとされてしまう不安。舞台人としての才能と、個人としての夢。

 それを、きっとあかりだけが、何も言わずに受け止めている。

 だからエリカは、思ってしまうのだ。


(ずるいわ、あかり……)


 努力も、成長も、友情も。

 すべて手に入れて、澪の隣に当然のように立っている、あかりが――。


 「じゃあ、次はピルエットの連続回転、三人でやってみようか」


 澪の声に、教室の空気がふわりと和らぐ。 

 はい、とあかりが元気よく返事をし、エリカは静かに頷いた。

 外の桜はまだ五分咲き。

 けれど三人の胸の内には、嵐のような春が吹き始めていた。互いに見つめ合いながらも、心の奥で競い合う三人。その均衡は、まだ崩れきっていない。

 だが、この春休みの終わりには――きっと何かが変わる。

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