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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
81/140

81:春を待つ夜

 三月末。

 春の気配はまだ薄く、空気は冷たいままだが、校舎の窓から差し込む陽の光は、どこかやさしさを含んでいた。

 天翔専門学校・本科生1年、最後の授業。

 教室には、選抜メンバーたちと、それぞれの努力の証が静かに並んでいた。

 鏡張りの稽古室に集まった生徒たちの前で、如月玲奈は静かに口を開く。


 「――今日で、1年生としての授業は最後です」


 柔らかだが凛とした声が、静まり返った教室に響く。

 澄んだその声音には、教師としての厳しさと、ほんの微かな情感が混ざっていた。


 「この一年間、みなそれぞれの壁に向き合い、舞台に向き合い、自分に向き合ったはずです。立派に乗り越えたとは言いません。ですが――よく、頑張ったと思います」


 その言葉に、生徒たちは静かに背筋を伸ばす。

 椅子に座っていた鷹宮あかりは、両手を膝に置き、じっと前を見つめていた。


 「今日で選抜レッスンも終わります。2年生になると、授業の組み方も変わり、それぞれの道がより具体的になります」


 玲奈は、一人ひとりの顔をゆっくりと見回すようにして言った。


 「春休みに実家に帰る者は、寮の部屋を一度整えてから帰りなさい。戻ってきた時、自分の気持ちも新たにできるように」


 教室には、微かな空気の揺らぎがあった。

 1年間の重みと、これから始まる2年目への期待と不安。それらが入り混じっていた。


**


 授業の終わり、澪は少しだけ周囲から離れ、窓際で空を仰いでいた。


(本当に……ここまで来たんだ)


 まだ迷いはある。けれど、それでも舞台に立ちたいという気持ちは、きっと本物だ。あかりと共に過ごしたこの一年が、その確信をくれた。


 少し離れた場所で、紫堂エリカは自分のノートに何かを書き込んでいた。周囲には目もくれず、あくまで淡々と――けれど、その筆圧にはかすかな焦燥が滲んでいた。


(2年では、もっと高く。もっと完璧に)


 その視線の端で、あかりが笑っているのが見えた。澪と話している。その笑顔が胸にひっかかる。


(……あの子は、まだ伸びる)


 そう思うと、また胸の奥に小さな棘が立った。


**


 「……じゃあ、これで終わり」


 玲奈の最後の声が教室に落ちると、拍手も歓声もないまま、生徒たちは静かに立ち上がった。

 ただ、誰もが胸に熱いものを抱えていた。1年という時間の重みと、それを共に過ごした仲間への想い。別れではなく、次へ進むための区切り。

 あかりは深く一礼をし、静かに鏡を見つめた。


(次は、もっと強くなって――舞台に立つ)


 そんな決意が、彼女の眼差しを曇らせなかった。

 こうして、天翔専門学校の本科1年、最後の授業は終わった。

 春を迎えるまで、あと少し。それぞれの2週間が、静かに始まっていく。



***


 その日の夜。

 寮の消灯時間が近づく頃、あかりはそっと自室を出た。

 春の入り口に立つ夜の風は、まだ少し冷たさを残している。制服の上に薄手のコートを羽織ってはいたが、心の中は不思議と熱を帯びていた。

 静まり返った校舎を抜け、講師棟へ向かう細い小道。足音ひとつ立てるのが惜しまれるほど、あたりは静かだった。

 ここには「許された者」しか入れないという雰囲気が漂っていた。

 あかりは小さく息を吸い、五階へと階段を上る。廊下に並ぶ講師たちの部屋。その奥──宝生聖子の部屋の前で、あかりは一瞬、手を止めた。


(……ご報告だけ。お礼だけ言って、すぐに戻るんだから)


 進級試験の結果が発表されてから、ずっと考えていたことだった。

 扉の前で、あかりは一度だけ深く息を吸って、そして静かにノックをした。


 「入って」


 ドアの奥から、聖子の落ち着いた声がした。

 部屋に入った瞬間、香りがふわりと鼻腔をくすぐった。甘くて、どこか艶のある茶葉の香り。いつもの花のような香りではない。

 そして目に入ったのは、照明を落とした空間のなか、ソファに優雅に座る聖子の姿だった。

 聖子は、深いワインレッドのガウンを身にまとい、濡れたような黒髪を片肩に流していた。濃淡のある陰影が、彼女の横顔をより神秘的に浮かび上がらせる。


 「……こんばんは。遅い時間にすみません。宝生先生、少しだけお時間をいただけますか?」


 聖子はソファに座ったまま、軽く頷いた。

 あかりが静かに部屋の中央まで進むと、彼女はゆったりと脚を組み替え、あかりを見上げる。


 「ええ、春休み前のご挨拶、かしら?」


 聖子はゆるやかに立ち上がり、ガラスのティーポットから紅茶を注ぎ始める。


 「いつもと違うお茶ですか?」


 「あら、よくわかるのね。今日はダージリンじゃなくて、ケニアのCTC。力強くて、ちょっと大人の香り」


 その声音もまた、どこかいつもと違って聞こえた。

 あかりは出された紅茶を両手で持ち、少し緊張した面持ちで口を開いた。


 「……あの、進級試験の結果が出ました。なんとか、Aクラスに入ることができました」


 しばしの沈黙のあと、聖子はわずかに唇を緩めて言った。


 「そう。おめでとう」


 聖子の声は淡々としていた。

 けれど、その奥に、確かにわずかな熱があった。


 「……ありがとうございます」


 あかりの声は震えていた。喜びとも不安とも違う、どこか深い感情の震えだった。


 「選抜レッスンも終わったわね」


 聖子がぽつりと口を開く。


 「選抜レッスンはどうだった? あなたにとって」


 「とても……濃密な時間でした。先生方のレッスンは厳しかったけれど、毎回が発見の連続で。私……自分が少しずつ変わっていくのを感じました」


 正直な言葉だった。目の前のこの人にも、嘘はつけないと思った。


 「そう……」


 聖子の目は、あかりを射抜くように見つめていた。

 深い湖のような黒。そこに映るのは、少女の成長か、それとも……。


 「春休みはどう過ごすの?」


 唐突な問いに、あかりは少し驚きながらも答えた。


 「実家には帰りません。もっと上手くなりたいから、寮に残って、自主練習を続けようと思っています。演技も、歌も、踊りも……」


 その答えを聞いた瞬間、聖子の瞳がふっと輝いた。

 月明かりがガラス越しに差し込む中、その目の奥に何かが宿ったように見えた。

 ゆっくりと、聖子は唇の端を持ち上げる。


 「……そう。あなたがこの春を稽古の春にするというなら、私も応えなくてはね」


 そして、紅茶のカップを置いた指先がすっと空を撫でるように動き、聖子は静かに言った。


 「どう?この春休み、朝から晩まで、1日中、私の特別レッスンを受けてみない?」


 一瞬、時間が止まったように感じた。

 ランプの明かりが、あかりの頬に柔らかく影を作る。

 まるで甘く深い罠のような誘い。


 「……えっ」


 小さく息を呑んだ。

 心臓が、跳ねた。


 「それとも、誰か別の先生に習う? 玲奈とか、霧島先生とか?」


 「い、いえ……!」


 あかりは思わず首を振っていた。

 意識していなかったが、その言葉に聖子は目を細める。


 「ふふ。冗談よ」


 ソファから立ち上がった聖子が、あかりに近づく。

 あかりは動けなかった。まるで、魔法にかけられたように。


 「あなたがこの部屋を訪れたいときに、この部屋を訪れなさい。春の夜は長いわ。特別な春にしてあげる」


 紅茶の香りが、ふたりの間に静かに漂う中、聖子のささやく声が、耳に残った。 

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