77:縮まる二人の距離
三月の風は、まだ冷たい。けれど、それでも確かに春の兆しが空気の端に混じっていた。
進級試験が目前に迫った朝、寮の食堂では、静かに緊張が流れていた。
トレイにパンとスープを乗せたあかりは、迷わず澪の隣に腰を下ろした。
「おはよう、あかり」
「おはよう、澪。……ちゃんと眠れた?」
「うん。そっちは?」
「うん……まあまあ。でも、もうすぐ本番って思うと、ちょっと胃がキュッてなる」
澪はふっと笑い、小さな声で言った。
「だいじょうぶ。わたしがいるよ」
それは励ましというより、誓いのようだった。
この数週間、2人は毎朝少し早く起きて、寮の小さな稽古場で基礎練をしてきた。バレエ、発声、台詞回し——あらゆる課題を互いに見つめ、支え合ってきた。
「ここまで来れたのは、澪のおかげだよ」
「わたしこそ。あかりがいたから、自分とちゃんと向き合えた」
言葉は少なかったけれど、心は繋がっていた。2人は、少しずつだが確実に、自分たちの居場所を掴みかけていた。
食堂の片隅で、その様子を見ている人物がいた。
紫堂エリカ。
トレイを前にしてはいたが、手は止まり、視線は明らかに2人に向けられていた。
(あの2人……また一段と距離が近くなってる)
エリカは無表情を装っていたが、その目には複雑な光が宿っていた。焦り……まではいかない。けれど、苛立ちにも似たざわつきが、心の底に渦巻いていた。
あかり——あの不器用で、取り立てて容姿も目立たず、ただひたむきな少女。
そして澪——容姿は際立ち、何もしなくても周囲を魅了する“天性の舞台人”。
その2人が、まるで運命に導かれるように並び立っている。
(……それが、本当に正解なの?)
進級試験は、すべての生徒にとって節目であり、再選別の機会でもある。
この先も生き残れるのは、ただのいい子でも仲良しでもない。
実力がすべての世界。実力と——華。
(私は……誰にも負けない)
エリカは静かに立ち上がった。
胸の奥で、見えない闘志が燃えていた。
***
その日、稽古場で行われた声楽の自主練では、あかりと澪はいつも以上に息を合わせていた。
ピアノの旋律に乗せて、2人の声が柔らかく、でも力強く空間を満たす。
その様子を見ていた上級生の一人がぽつりとつぶやいた。
「……あの2人、まるで双子みたいね。まったく違うのに、妙に調和してる」
だが別の上級生は、少し笑って言った。
「それがずっと続けばいいけど。舞台の上じゃ、仲良しだけじゃ通用しない」
その言葉は、まるで未来を暗示しているかのように、稽古場の空気に影を落とした。けれど今はただ、あかりと澪の2人だけが、前を見ていた。
繋がる視線。握り合った手の温もり。
この時だけは、迷いも、葛藤も、舞台の光の中に溶けていく。
2人の絆が試される進級試験。
その舞台は、すぐそこまで来ていた。
***
夜の寮の浴室。湯気の残る静かな脱衣所には、ほのかにシャンプーの香りが漂っていた。
天井から吊られた灯りが柔らかく空間を照らし、白いタイルの床に水滴が光っている。
「澪、もう少し前向いてくれる?」
タオルドライした澪の長い黒髪を、あかりが丁寧に手櫛で梳きながら、ドライヤーをあてていた。
「うん、ごめんね。……いつもありがとう、あかり」
「いいよ、澪の髪……すごく綺麗だから。ドライヤーあてるの、なんか楽しいんだ」
あかりはそう言いながら、指先を澪の髪の根元に沿わせ、ふわりと風を流す。
澪の髪はまるで絹のように柔らかく、湿った光を帯びて波打っていた。
その光景に、あかりの表情は自然とほころんでいた。
「あったかい……」
澪が目を閉じて呟いた。
そのやり取りのすべてを、ドアの影に立つ誰かが見つめていた。
紫堂エリカだった。
バスタオルの上に制服のジャージを羽織った姿のまま、足を止めたまま、エリカは微動だにせず2人の姿を見ていた。
——あの髪に、触れたい。
エリカの心の奥から、そんな衝動が静かに湧きあがる。
あの長く、黒く、美しい髪。濡れて、肌に貼りつく様も、乾いてふわりと揺れる様も、すべてが美しかった。
(私も……あの髪に触れたいのに)
けれど、エリカの手は動かなかった。選抜レッスンでも、普段の稽古でも、澪とは言葉を交わす機会があるはずなのに。あかりほど無防備にも、自然体にも、なれなかった。
(どうして、あの子ばかり……)
ドライヤーの音が、微かに熱を帯びながら鳴り続けていた。それはまるで、今のエリカの心をあざ笑うかのように、穏やかで、優しい音だった。
「はい、乾いた。サラサラだね、澪」
「うん……ありがとう、あかり」
2人は笑い合う。
その一瞬の笑顔が、エリカの胸に鋭く突き刺さった。
けれどエリカは、何も言わず、音もなくその場を立ち去った。
湯気の向こう、淡く濡れた瞳を、誰にも見られないようにして。
(……私は何をしてるんだろう)
エリカの背中に、ささやかな孤独が絡みつく。
それはきっと、誰にも言えない想いだった。
***
湯気の余韻が消えかけた廊下を、エリカは一人で歩いていた。
素足の裏に伝わる冷たい床の感触は、なぜか心地よく感じた。火照った身体を冷ますには、ちょうどよかったのかもしれない。
(くだらない……)
ぽつりと、唇の内側で呟いた。
自分がなにを嫉妬しているのか——それを認めるのは、悔しかった。
鷹宮あかりと綾小路澪。
あの2人が仲良くしている姿を見るたび、胸の奥がざわつくのは、どうしてなのだろう。あかりの成長に対しての焦りか、それとも澪が他の誰かに微笑むことへの嫉妬か。
(私は……あんなぬるい関係で満足する気はないのに)
エリカは自分に言い聞かせるように歩を進める。
舞台に立つために、天翔に来た。
人を出し抜き、光を奪ってでも、一番上に立つために。
けれど——
(なのに、どうしてあんなことが気になるの?)
あかりの手が澪の髪に触れていたときの、あの優しい指先の動き。
澪の頬がゆるんで、安らいだ表情を浮かべたときの、あの一瞬の静けさ。
舞台の上では決して見られない、素の、彼女たちの姿。
(私は、澪のそういう表情を、見たことがない)
目の奥が熱くなるような感覚を、エリカは押し込めるようにして唇を結ぶ。
自分はエリカ。成績トップ。選抜レッスンの筆頭。スター候補と名指しされた存在。
そんな自分が、こんな夜に、こんな小さな感情に足を取られていることが、何よりも許せなかった。
(くだらない……くだらない……)
そう言い聞かせても、心の奥に落ちてきた感情は、消えずに残っていた。
——触れたい。
——抱きしめたい。
——独り占めしたい。
そんな感情を、エリカは初めて「欲」として、自覚していた。
その夜、自室の布団の中に潜り込んだエリカは、背を向けて寝ている颯真の静かな寝息を聞きながら、眠れずに天井を見つめていた。
(……私、なにしてるんだろう)
初めて知る感情。
初めて揺らぐ誇り。
そして——気づかぬうちに、少しずつ心を占めてきた澪の存在。
(綾小路澪……)
口の中でその名を反芻した瞬間、胸の奥に波のようなざわめきが広がった。
(私の前で、誰にも笑わないでよ……)
自分でも知らないうちに、そんな想いを強く握りしめていた。
そしてエリカは思った。
――次の舞台では、どんな手を使ってでも、あの子を自分の隣に立たせてやる。




