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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
77/140

77:縮まる二人の距離

 三月の風は、まだ冷たい。けれど、それでも確かに春の兆しが空気の端に混じっていた。

 進級試験が目前に迫った朝、寮の食堂では、静かに緊張が流れていた。

 トレイにパンとスープを乗せたあかりは、迷わず澪の隣に腰を下ろした。


 「おはよう、あかり」


 「おはよう、澪。……ちゃんと眠れた?」


 「うん。そっちは?」


 「うん……まあまあ。でも、もうすぐ本番って思うと、ちょっと胃がキュッてなる」


 澪はふっと笑い、小さな声で言った。


 「だいじょうぶ。わたしがいるよ」


 それは励ましというより、誓いのようだった。

 この数週間、2人は毎朝少し早く起きて、寮の小さな稽古場で基礎練をしてきた。バレエ、発声、台詞回し——あらゆる課題を互いに見つめ、支え合ってきた。


 「ここまで来れたのは、澪のおかげだよ」


 「わたしこそ。あかりがいたから、自分とちゃんと向き合えた」


 言葉は少なかったけれど、心は繋がっていた。2人は、少しずつだが確実に、自分たちの居場所を掴みかけていた。

 食堂の片隅で、その様子を見ている人物がいた。

 紫堂エリカ。

 トレイを前にしてはいたが、手は止まり、視線は明らかに2人に向けられていた。


(あの2人……また一段と距離が近くなってる)


 エリカは無表情を装っていたが、その目には複雑な光が宿っていた。焦り……まではいかない。けれど、苛立ちにも似たざわつきが、心の底に渦巻いていた。

 あかり——あの不器用で、取り立てて容姿も目立たず、ただひたむきな少女。

 そして澪——容姿は際立ち、何もしなくても周囲を魅了する“天性の舞台人”。

 その2人が、まるで運命に導かれるように並び立っている。


(……それが、本当に正解なの?)


 進級試験は、すべての生徒にとって節目であり、再選別の機会でもある。

 この先も生き残れるのは、ただのいい子でも仲良しでもない。

 実力がすべての世界。実力と——華。


(私は……誰にも負けない)


 エリカは静かに立ち上がった。

 胸の奥で、見えない闘志が燃えていた。



***


 その日、稽古場で行われた声楽の自主練では、あかりと澪はいつも以上に息を合わせていた。

 ピアノの旋律に乗せて、2人の声が柔らかく、でも力強く空間を満たす。

 その様子を見ていた上級生の一人がぽつりとつぶやいた。


 「……あの2人、まるで双子みたいね。まったく違うのに、妙に調和してる」


 だが別の上級生は、少し笑って言った。


 「それがずっと続けばいいけど。舞台の上じゃ、仲良しだけじゃ通用しない」


 その言葉は、まるで未来を暗示しているかのように、稽古場の空気に影を落とした。けれど今はただ、あかりと澪の2人だけが、前を見ていた。

 繋がる視線。握り合った手の温もり。

 この時だけは、迷いも、葛藤も、舞台の光の中に溶けていく。

 2人の絆が試される進級試験。

 その舞台は、すぐそこまで来ていた。



***


 夜の寮の浴室。湯気の残る静かな脱衣所には、ほのかにシャンプーの香りが漂っていた。

 天井から吊られた灯りが柔らかく空間を照らし、白いタイルの床に水滴が光っている。


 「澪、もう少し前向いてくれる?」


 タオルドライした澪の長い黒髪を、あかりが丁寧に手櫛で梳きながら、ドライヤーをあてていた。


 「うん、ごめんね。……いつもありがとう、あかり」


 「いいよ、澪の髪……すごく綺麗だから。ドライヤーあてるの、なんか楽しいんだ」


 あかりはそう言いながら、指先を澪の髪の根元に沿わせ、ふわりと風を流す。

 澪の髪はまるで絹のように柔らかく、湿った光を帯びて波打っていた。

 その光景に、あかりの表情は自然とほころんでいた。


 「あったかい……」


 澪が目を閉じて呟いた。

 そのやり取りのすべてを、ドアの影に立つ誰かが見つめていた。

 紫堂エリカだった。

 バスタオルの上に制服のジャージを羽織った姿のまま、足を止めたまま、エリカは微動だにせず2人の姿を見ていた。


 ——あの髪に、触れたい。


 エリカの心の奥から、そんな衝動が静かに湧きあがる。

 あの長く、黒く、美しい髪。濡れて、肌に貼りつく様も、乾いてふわりと揺れる様も、すべてが美しかった。


(私も……あの髪に触れたいのに)


 けれど、エリカの手は動かなかった。選抜レッスンでも、普段の稽古でも、澪とは言葉を交わす機会があるはずなのに。あかりほど無防備にも、自然体にも、なれなかった。


(どうして、あの子ばかり……)


 ドライヤーの音が、微かに熱を帯びながら鳴り続けていた。それはまるで、今のエリカの心をあざ笑うかのように、穏やかで、優しい音だった。


 「はい、乾いた。サラサラだね、澪」


 「うん……ありがとう、あかり」


 2人は笑い合う。

 その一瞬の笑顔が、エリカの胸に鋭く突き刺さった。

 けれどエリカは、何も言わず、音もなくその場を立ち去った。

 湯気の向こう、淡く濡れた瞳を、誰にも見られないようにして。


(……私は何をしてるんだろう)


 エリカの背中に、ささやかな孤独が絡みつく。

 それはきっと、誰にも言えない想いだった。



***


 湯気の余韻が消えかけた廊下を、エリカは一人で歩いていた。

 素足の裏に伝わる冷たい床の感触は、なぜか心地よく感じた。火照った身体を冷ますには、ちょうどよかったのかもしれない。


(くだらない……)


 ぽつりと、唇の内側で呟いた。

 自分がなにを嫉妬しているのか——それを認めるのは、悔しかった。 

 鷹宮あかりと綾小路澪。

 あの2人が仲良くしている姿を見るたび、胸の奥がざわつくのは、どうしてなのだろう。あかりの成長に対しての焦りか、それとも澪が他の誰かに微笑むことへの嫉妬か。


(私は……あんなぬるい関係で満足する気はないのに)


 エリカは自分に言い聞かせるように歩を進める。

 舞台に立つために、天翔に来た。

 人を出し抜き、光を奪ってでも、一番上に立つために。


 けれど——


(なのに、どうしてあんなことが気になるの?)


 あかりの手が澪の髪に触れていたときの、あの優しい指先の動き。

 澪の頬がゆるんで、安らいだ表情を浮かべたときの、あの一瞬の静けさ。

 舞台の上では決して見られない、素の、彼女たちの姿。


(私は、澪のそういう表情を、見たことがない)


 目の奥が熱くなるような感覚を、エリカは押し込めるようにして唇を結ぶ。

 自分はエリカ。成績トップ。選抜レッスンの筆頭。スター候補と名指しされた存在。

 そんな自分が、こんな夜に、こんな小さな感情に足を取られていることが、何よりも許せなかった。


(くだらない……くだらない……)


 そう言い聞かせても、心の奥に落ちてきた感情は、消えずに残っていた。


 ——触れたい。

 ——抱きしめたい。

 ——独り占めしたい。


 そんな感情を、エリカは初めて「欲」として、自覚していた。

 その夜、自室の布団の中に潜り込んだエリカは、背を向けて寝ている颯真の静かな寝息を聞きながら、眠れずに天井を見つめていた。


(……私、なにしてるんだろう)


 初めて知る感情。

 初めて揺らぐ誇り。

 そして——気づかぬうちに、少しずつ心を占めてきた澪の存在。


(綾小路澪……)


 口の中でその名を反芻した瞬間、胸の奥に波のようなざわめきが広がった。


(私の前で、誰にも笑わないでよ……)


 自分でも知らないうちに、そんな想いを強く握りしめていた。

 そしてエリカは思った。

 ――次の舞台では、どんな手を使ってでも、あの子を自分の隣に立たせてやる。


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