76:進級試験に向けて
空はまだ冬の名残を留めて重く曇り、冷たい風が制服の裾を容赦なく揺らしていた。
2月初旬の朝。
校舎へと続く緩やかな坂道を、あかりと澪は肩を寄せ合うように歩いていた。
「……寒いね」
あかりが吐いた息は、白くふわりと空に溶けた。
「本当に。今日の風は指先にまでしみる……」
澪は手袋越しの指先をあかりの方へ少し伸ばしながら、笑った。
あかりも笑ったが、その笑顔の奥には緊張が滲んでいた。
「ねえ、澪……」
不意に声を潜め、真剣な眼差しを澪に向ける。
「進級試験、もうすぐだよね」
澪は小さく頷いた。
「うん。あと3週間。私たち1年生は試験の成績で男役・娘役の本配属が決まるし、2年に進んだらもう育成じゃなくて競争の場になる」
あかりは頷きながら、少しだけ視線を落とす。
「……私、今の成績、40人中22位なんだ。このままじゃ、きっと、上のクラスには行けない」
あかりの声には焦燥が滲んでいた。
進級試験では、成績順に上位クラスと下位クラスに分けられる。
上のクラスには、より多くの舞台のチャンスが巡ってくる。下のクラスに行けば、それだけで「トップ候補」の道が狭まるという現実。
「私、絶対に上のクラスに行きたい」
あかりの瞳が揺れていた。
それは、今にも崩れそうな決意だった。
そんなあかりの手を、澪がそっと取った。
温かくも芯の通った強さを宿した手だった。
「だったら……2人で特訓しよう」
「放課後も、朝も、時間のある限り、一緒にやろう。演技も、バレエも、日舞も、声楽も」
あかりは目を見開いた。
「でも……私、また倒れたりしたら——」
「だからこそよ」
澪はふっと笑って、あかりの手をぎゅっと握る。
「一人だと、また無理するでしょ? 倒れるまで頑張ってしまうの、私はもう見たくない。だから、私が一緒に練習する。あなたをちゃんと見て、ちゃんと支える」
「澪……」
「一緒に上のクラスに行こう。……絶対に」
その言葉に、あかりの胸がきゅうっと締めつけられた。
寒さでかじかんだ心に、やさしく火が灯るような感覚。
「ありがとう。……本当にありがとう、澪」
あかりの頬に、うっすらと紅が差していた。
寒さだけではない、確かな温度がそこにあった。
2人の影が並んで、朝の坂道に落ちていた。
それはまるで、春を迎える準備をするように、確かに、前へ進んでいた。
***
進級試験まで、残された時間はわずかだった。
季節はまだ冬の底にあり、校庭の木々は裸のまま冷たい風にさらされていた。
夕暮れの空は灰色に滲み、屋上の手すりには薄く霜が降りていた。
放課後の校舎、誰もいない音楽室の片隅に、あかりと澪のふたりの影があった。
小さな電気ヒーターの熱が、かすかに床に熱を送っている。けれど、寒さは指先を容赦なくかじっていく。
「あかり……声が震えてる」
ピアノの横で譜面を持つ澪が、心配そうに言った。
「あ、ごめん……もう一回やらせて」
あかりは喉を押さえながら、マフラーを少し巻き直す。
冬の乾いた空気が、声帯を焼いていくようだった。
だが——それでも。
「……いくよ」
あかりは息を吸って、もう一度、澪の伴奏に合わせて歌い出した。拙く、けれど誠実な音が、音楽室にこつこつと積もっていった。
それはまるで、冷たい地面に春の芽が顔を出すような、確かな手応えだった。
校舎裏の小道。
日舞の練習をするには少し狭すぎて、風も強く吹き抜ける場所だった。けれど、澪が「この時間なら誰も来ないから」と言って連れてきた。見よう見まねの所作、寒さで震える肩。
それでも2人は真剣だった。
「腕の角度、違うよ」
澪があかりの手首をそっと直す。
その指先があたたかくて、あかりは胸が少しだけ熱くなる。
「澪って……ほんと、丁寧だね」
「あかりのほうこそ。あかりはまっすぐだよ。ちゃんと進んでる」
「……ううん。進めてるのは、澪がそばにいるから」
ふたりは、ほろりと笑い合った。
その笑みは、凍える空気の中で確かに灯る、やわらかな光のようだった。
**
ある夜、寮の談話室。
誰もいない深夜、机に資料を広げてバレエの振付の確認をしていたあかりの隣に、そっとブランケットがかけられた。
「……風邪、ひくよ」
そう言って、澪が座る。
「……澪……ありがとう。でも、どうしてわかったの?」
「あかりがいそうな場所、もうだいたい覚えてる」
あかりは、黙って澪の横顔を見る。
冬の窓の外、白い月が澪の睫毛に静かに落ちていた。その表情は、どこか切なげで、同時に誰よりもあたたかかった。
「私、前は……ひとりでがむしゃらに頑張ればいいって思ってた」
あかりが言う。
「でも今は、誰かと一緒に進むことが、こんなにも支えになるなんて思わなかった」
「私もよ」
その言葉の中に、どれだけの真実が込められていたのか。
ふたりはもう、言葉にしなくても理解できる関係になっていた。
**
進級試験まで、あと2週間。
2人は毎朝、吐く息が真っ白になるまで発声し、毎晩、膝を擦りむくまで踊った。
冬の冷たい空の下で、それでも指先は確かに春へと向かっていた。
友情という名の焚き火は、雪の中でも燃え続ける。
ふたりはその火を胸に、小さな手で道を照らしながら歩いていた。その歩みは、確実に未来へと続いていた。




