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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
76/140

76:進級試験に向けて

 空はまだ冬の名残を留めて重く曇り、冷たい風が制服の裾を容赦なく揺らしていた。

 2月初旬の朝。

 校舎へと続く緩やかな坂道を、あかりと澪は肩を寄せ合うように歩いていた。


 「……寒いね」


 あかりが吐いた息は、白くふわりと空に溶けた。


 「本当に。今日の風は指先にまでしみる……」


 澪は手袋越しの指先をあかりの方へ少し伸ばしながら、笑った。

 あかりも笑ったが、その笑顔の奥には緊張が滲んでいた。


 「ねえ、澪……」


 不意に声を潜め、真剣な眼差しを澪に向ける。


 「進級試験、もうすぐだよね」


 澪は小さく頷いた。


 「うん。あと3週間。私たち1年生は試験の成績で男役・娘役の本配属が決まるし、2年に進んだらもう育成じゃなくて競争の場になる」


 あかりは頷きながら、少しだけ視線を落とす。


「……私、今の成績、40人中22位なんだ。このままじゃ、きっと、上のクラスには行けない」


 あかりの声には焦燥が滲んでいた。

 進級試験では、成績順に上位クラスと下位クラスに分けられる。

 上のクラスには、より多くの舞台のチャンスが巡ってくる。下のクラスに行けば、それだけで「トップ候補」の道が狭まるという現実。


 「私、絶対に上のクラスに行きたい」


 あかりの瞳が揺れていた。

 それは、今にも崩れそうな決意だった。

 そんなあかりの手を、澪がそっと取った。

 温かくも芯の通った強さを宿した手だった。


 「だったら……2人で特訓しよう」


 「放課後も、朝も、時間のある限り、一緒にやろう。演技も、バレエも、日舞も、声楽も」


 あかりは目を見開いた。


 「でも……私、また倒れたりしたら——」


 「だからこそよ」


 澪はふっと笑って、あかりの手をぎゅっと握る。


 「一人だと、また無理するでしょ? 倒れるまで頑張ってしまうの、私はもう見たくない。だから、私が一緒に練習する。あなたをちゃんと見て、ちゃんと支える」


 「澪……」


 「一緒に上のクラスに行こう。……絶対に」


 その言葉に、あかりの胸がきゅうっと締めつけられた。

 寒さでかじかんだ心に、やさしく火が灯るような感覚。


 「ありがとう。……本当にありがとう、澪」


 あかりの頬に、うっすらと紅が差していた。

 寒さだけではない、確かな温度がそこにあった。


 2人の影が並んで、朝の坂道に落ちていた。

 それはまるで、春を迎える準備をするように、確かに、前へ進んでいた。



***


 進級試験まで、残された時間はわずかだった。

 季節はまだ冬の底にあり、校庭の木々は裸のまま冷たい風にさらされていた。

 夕暮れの空は灰色に滲み、屋上の手すりには薄く霜が降りていた。


 放課後の校舎、誰もいない音楽室の片隅に、あかりと澪のふたりの影があった。

 小さな電気ヒーターの熱が、かすかに床に熱を送っている。けれど、寒さは指先を容赦なくかじっていく。


 「あかり……声が震えてる」


 ピアノの横で譜面を持つ澪が、心配そうに言った。


 「あ、ごめん……もう一回やらせて」


 あかりは喉を押さえながら、マフラーを少し巻き直す。

 冬の乾いた空気が、声帯を焼いていくようだった。

 だが——それでも。


 「……いくよ」


 あかりは息を吸って、もう一度、澪の伴奏に合わせて歌い出した。拙く、けれど誠実な音が、音楽室にこつこつと積もっていった。

 それはまるで、冷たい地面に春の芽が顔を出すような、確かな手応えだった。


 校舎裏の小道。

 日舞の練習をするには少し狭すぎて、風も強く吹き抜ける場所だった。けれど、澪が「この時間なら誰も来ないから」と言って連れてきた。見よう見まねの所作、寒さで震える肩。

 それでも2人は真剣だった。


 「腕の角度、違うよ」


 澪があかりの手首をそっと直す。

 その指先があたたかくて、あかりは胸が少しだけ熱くなる。


 「澪って……ほんと、丁寧だね」

 「あかりのほうこそ。あかりはまっすぐだよ。ちゃんと進んでる」

 「……ううん。進めてるのは、澪がそばにいるから」


 ふたりは、ほろりと笑い合った。

 その笑みは、凍える空気の中で確かに灯る、やわらかな光のようだった。



**


 ある夜、寮の談話室。

 誰もいない深夜、机に資料を広げてバレエの振付の確認をしていたあかりの隣に、そっとブランケットがかけられた。


 「……風邪、ひくよ」


 そう言って、澪が座る。


 「……澪……ありがとう。でも、どうしてわかったの?」


 「あかりがいそうな場所、もうだいたい覚えてる」


 あかりは、黙って澪の横顔を見る。

 冬の窓の外、白い月が澪の睫毛に静かに落ちていた。その表情は、どこか切なげで、同時に誰よりもあたたかかった。


 「私、前は……ひとりでがむしゃらに頑張ればいいって思ってた」


 あかりが言う。


 「でも今は、誰かと一緒に進むことが、こんなにも支えになるなんて思わなかった」


 「私もよ」


 その言葉の中に、どれだけの真実が込められていたのか。

 ふたりはもう、言葉にしなくても理解できる関係になっていた。


**


 進級試験まで、あと2週間。

 2人は毎朝、吐く息が真っ白になるまで発声し、毎晩、膝を擦りむくまで踊った。

 冬の冷たい空の下で、それでも指先は確かに春へと向かっていた。


 友情という名の焚き火は、雪の中でも燃え続ける。

 ふたりはその火を胸に、小さな手で道を照らしながら歩いていた。その歩みは、確実に未来へと続いていた。

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