75:それぞれのペース
まどろみから覚めたあかりは、まだ完全に立ち上がる気にはなれなかった。
ベッドに横たわるまま、天井を見つめる。
――“どうして麻琴がここへ来た理由が知りたかったの?”
聖子の声が、頭の奥でまだ残響のように揺れている。
(……わたし、どうしてあんなに気になったんだろう)
同じ夢を目指す仲間。
落ち込んで、聖子に頼ろうとした麻琴のこと。
それを聞いて――「ほっとした」自分がいた。
(最低……)
心の中で何度も呟く。でも、あの時の感情は、まぎれもなく「安心」だった。
それが、自分でもどうしようもなく悔しく、情けなかった。
(わたし、何してるんだろう)
誰かに追いつきたい。
誰にも負けたくない。
でも、その思いが、仲間を想う優しさよりも、自分の不安や執着を強くしていた。
ふと、ベッドの隣で本を読んでいた綾小路澪がそっと視線を向けた。
その眼差しは、何も言わなくてもすべてを見透かしているようで、あかりは目を逸らした。
(強くなりたい)
そう思いながら、あかりは再び眠りに落ちていった。
**
朝の食堂はいつもと同じように活気にあふれていた。だが、あかりが現れると、その空気は一瞬だけピリリと緊張に包まれた。昨日、選抜レッスンの最中に倒れたという噂は瞬く間に広まり、みんなの視線があかりに集まる。
「おはよう、あかり。大丈夫?」
普段は無口で冷静な橘颯真が、珍しく優しい声で問いかける。
「昨日は無理しすぎたって聞いたよ?」
水瀬大河も眉をひそめ、心配そうに続ける。
あかりは微笑みながらも、心の中ではまだ不安が膨らんでいた。
「ありがとう。大丈夫。もう平気」
そう答えながらも、まだ体のだるさと気持ちの重さは消えない。
そんなあかりの様子を、遠くから鋭い視線が見据えていた。
「体調管理もできないのね」
紫堂エリカの冷たい言葉が、教室の空気を凍らせた。
「選抜レッスンを受けてるなら、それくらい当然のことよ」
その言葉に、周囲の生徒たちは一瞬息を呑み、あかりを見つめた。あかりはその言葉の重みで押しつぶされそうになるが、顔を上げることができず、ただ黙って視線をそらした。
しかし、あかりは知っていた。エリカの言葉には嫉妬と焦りが入り混じっていることを。彼女もまた、プレッシャーや不安を抱えているのだと。
その時、澪があかりの隣に静かに寄り添った。
そっと肩に手を置き、小さな声で囁く。
「無理しないで。私たちは、みんなのペースで進めばいいんだから」
あかりはその温かさに、ふっと心が緩むのを感じた。
「ありがとう、澪……」
ほんの少しだけ笑みがこぼれた。
あかりの目には、まだ揺れる迷いや焦りが残っている。だが、その一瞬の優しさが、明日への力となることを彼女は知っていた。
選抜レッスンで負けられない焦りと、身体の限界との戦い。それでも、あかりはここで諦めるわけにはいかないのだ。
食堂のざわめきの中で、あかりは静かに決意を新たにした。
まだまだ、ここからだと。
***
朝の教室は、どこか張り詰めた静けさに包まれていた。
天翔歌劇団専門学校の演技教室。しんとした空気の中、如月玲奈は前に立ち、黒板の前で静かに語った。
「今日の課題は、『怒り』。……誰もが人生の中で一度は向き合う感情よ。抑えても、演じても、偽っても、どこかに残り続けるもの」
玲奈の目が、生徒たち一人ひとりをゆっくりと見渡す。
「今日は、その怒りと向き合ってみましょう。“演じる”というより、“掘り起こす”感覚で。順番は……名簿順で行くわ」
少しざわついた空気が走る中、あかりは席の中ほどに座っていた。
顔色はまだ完全には戻っていない。けれど、目にはいつも以上の光が宿っていた。
(……やらなくちゃ)
自分自身のために。
麻琴のために。
そして、自分の中にある醜い感情の正体を、ちゃんと知るために。
教室の中心、ひとりずつ、怒りの演技が披露されていく。
誰かに裏切られた怒り。
自分の無力さへの怒り。
言葉にならなかった怒り。
それぞれの“かたち”が舞台の上に浮かび上がっては、静かに消えていった。
そして──。
「次、鷹宮」
玲奈の声に、あかりは立ち上がった。
椅子を引く音が静寂に響く。
そして、舞台中央へと足を踏み出した。
一瞬の沈黙。
目を閉じ、息を整える。
(麻琴が宝生先生に断られたって聞いて……私……嬉しかった)
ぞっとするような自己嫌悪。
その醜さを直視したとき、あかりの身体の奥で何かが音を立てて崩れた。
「あんたなんかに、わたしの気持ちなんかわかるわけない──!」
舞台に放たれたその声は、鋭く空気を裂いた。
「努力して、我慢して、でもダメで、それでも頭を下げて、それでも……!」
肩が震える。拳を握りしめる。
「……それでも、見捨てられるくらいなら……最初から期待なんかしなきゃよかった……っ!」
生徒たちが静まり返る。
その叫びは、誰かへの怒りではなく、自分自身への怒りだった。情けなさ、嫉妬、罪悪感、悔しさ。あかりの奥底に澱のように沈んでいたものが、すべて混ざり合い、言葉になってほとばしっていた。
そして──。
「ああああああっ!」
怒声とも悲鳴ともつかない咆哮。
それは、どんな技術や演出を超えた、生の叫びだった。
沈黙。
一拍、二拍。
やがて、あかりは肩を上下させながら、黙って頭を下げた。
演技を終え、深く深く、礼をする。
その背中には、ただ一つの覚悟だけが滲んでいた。
「……すごかった」
小さく漏れたのは、ひまりの声だった。
彼女の目には、うっすらと涙が滲んでいる。
「……あんな表現、できるんだ」
ゆらもまた、声を落として言った。
「感情の奥にある怒りを、まっすぐ引き出して……あれは、もう演技じゃないかもしれない」
エリカは、腕を組んで無言で舞台を見つめていた。
胸の奥が、微かに熱くなっていた。
(あれだけがむしゃらに練習してたのは……こういう理由だったのね)
あのときの真っ直ぐすぎる瞳。自分にはできない向き合い方だった。
澪は、静かにあかりの背中を見ていた。
言葉では表せない感情が、胸にあった。あかりの叫びが、自分の心の奥にも、どこか刺さっていた。怒りという感情から最も遠いように見えていた彼女が──こんなにも、激しく、痛みを曝け出している。
(……ごめんね、あかり)
その背中に、言えない謝罪を重ねる。
**
授業の終わり、玲奈はあかりにそっと囁いた。
「よく、引き出せたわね自分の感情」
あかりは戸惑いながらも、小さく頷く。
玲奈は何も言わず、そのまま微笑んだ。
(──これで、あなたはまた一歩、舞台に近づいた)
その背後には、授業の様子を見届けていた宝生聖子の姿もあった。
廊下の影に身を隠しながらも、その瞳は、あかりの成長をしっかりと見つめていた。
微かな嫉妬。微かな喜び。そして、まだ名づけられない愛情の予感。演技の授業という名の、魂の解放。
あかりの演技は、生徒たちの心に、深く長く残ることになる──。
***
夕暮れの講師棟。
演技授業の録画データを再生する玲奈は、静かに一時停止を押した。
画面に映るのは、あかりが咆哮する瞬間。
その声が空気を揺らしたシーンだった。
「……すごいわね、あの子。ついに自分の感情に手を伸ばした」
独り言のように呟いたその背後から、やわらかな声が響いた。
「……彼女の中に、舞台に立つ覚悟が芽生え始めたわ」
宝生聖子だった。
レースのスカーフを巻いたまま、紅茶の香りを纏わせ、玲奈の隣に立つ。
「あなたが今日の課題を怒りにしたのね」
「……ええ。あの子が倒れた理由、だいたい察しがついたから」
玲奈はそう言って、ちらりと聖子を見た。
聖子は微笑みを崩さない。
「……嫉妬、罪悪感、独占欲。舞台に立つ者なら、誰もが通る道」
「それを成長と言うのなら、甘美すぎるわね」
玲奈は小さく笑った。
「でも……鷹宮あかりは、まだ踏み込むわ。きっと、もっと深く」
聖子の声は、どこか艶やかで、冷たさを孕んでいた。
「彼女は、まだ自分の感情に恋をしていない。本当の演技は……そこから始まるものよ」
玲奈は目を細めた。
その視線の奥にあるのは、かつて自分も踏み込んだ劇的な世界。
**
その夜、あかりは一人、寮のベッドの上で深く眠っていた。
夢の中で、誰かの声がした気がした。
──「あなたは、舞台に愛されるべき子よ」
誰の声だったかは、目を覚ましたあとには、もう思い出せなかった。




