表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
75/140

75:それぞれのペース

 まどろみから覚めたあかりは、まだ完全に立ち上がる気にはなれなかった。

 ベッドに横たわるまま、天井を見つめる。


 ――“どうして麻琴がここへ来た理由が知りたかったの?”


 聖子の声が、頭の奥でまだ残響のように揺れている。


(……わたし、どうしてあんなに気になったんだろう)


 同じ夢を目指す仲間。

 落ち込んで、聖子に頼ろうとした麻琴のこと。

 それを聞いて――「ほっとした」自分がいた。


(最低……)


 心の中で何度も呟く。でも、あの時の感情は、まぎれもなく「安心」だった。

 それが、自分でもどうしようもなく悔しく、情けなかった。


(わたし、何してるんだろう)


 誰かに追いつきたい。

 誰にも負けたくない。

 でも、その思いが、仲間を想う優しさよりも、自分の不安や執着を強くしていた。


 ふと、ベッドの隣で本を読んでいた綾小路澪がそっと視線を向けた。

 その眼差しは、何も言わなくてもすべてを見透かしているようで、あかりは目を逸らした。


(強くなりたい)


 そう思いながら、あかりは再び眠りに落ちていった。



**


 朝の食堂はいつもと同じように活気にあふれていた。だが、あかりが現れると、その空気は一瞬だけピリリと緊張に包まれた。昨日、選抜レッスンの最中に倒れたという噂は瞬く間に広まり、みんなの視線があかりに集まる。


 「おはよう、あかり。大丈夫?」


 普段は無口で冷静な橘颯真が、珍しく優しい声で問いかける。


「昨日は無理しすぎたって聞いたよ?」


 水瀬大河も眉をひそめ、心配そうに続ける。

 あかりは微笑みながらも、心の中ではまだ不安が膨らんでいた。


 「ありがとう。大丈夫。もう平気」


 そう答えながらも、まだ体のだるさと気持ちの重さは消えない。

 そんなあかりの様子を、遠くから鋭い視線が見据えていた。


「体調管理もできないのね」


 紫堂エリカの冷たい言葉が、教室の空気を凍らせた。


 「選抜レッスンを受けてるなら、それくらい当然のことよ」


 その言葉に、周囲の生徒たちは一瞬息を呑み、あかりを見つめた。あかりはその言葉の重みで押しつぶされそうになるが、顔を上げることができず、ただ黙って視線をそらした。

 しかし、あかりは知っていた。エリカの言葉には嫉妬と焦りが入り混じっていることを。彼女もまた、プレッシャーや不安を抱えているのだと。


 その時、澪があかりの隣に静かに寄り添った。

 そっと肩に手を置き、小さな声で囁く。


 「無理しないで。私たちは、みんなのペースで進めばいいんだから」


 あかりはその温かさに、ふっと心が緩むのを感じた。


 「ありがとう、澪……」


 ほんの少しだけ笑みがこぼれた。

 あかりの目には、まだ揺れる迷いや焦りが残っている。だが、その一瞬の優しさが、明日への力となることを彼女は知っていた。

 選抜レッスンで負けられない焦りと、身体の限界との戦い。それでも、あかりはここで諦めるわけにはいかないのだ。

 食堂のざわめきの中で、あかりは静かに決意を新たにした。

 まだまだ、ここからだと。



***


 朝の教室は、どこか張り詰めた静けさに包まれていた。

 天翔歌劇団専門学校の演技教室。しんとした空気の中、如月玲奈は前に立ち、黒板の前で静かに語った。


 「今日の課題は、『怒り』。……誰もが人生の中で一度は向き合う感情よ。抑えても、演じても、偽っても、どこかに残り続けるもの」


 玲奈の目が、生徒たち一人ひとりをゆっくりと見渡す。


 「今日は、その怒りと向き合ってみましょう。“演じる”というより、“掘り起こす”感覚で。順番は……名簿順で行くわ」


 少しざわついた空気が走る中、あかりは席の中ほどに座っていた。

 顔色はまだ完全には戻っていない。けれど、目にはいつも以上の光が宿っていた。

  

(……やらなくちゃ)


 自分自身のために。

 麻琴のために。

 そして、自分の中にある醜い感情の正体を、ちゃんと知るために。


 教室の中心、ひとりずつ、怒りの演技が披露されていく。

 誰かに裏切られた怒り。

 自分の無力さへの怒り。

 言葉にならなかった怒り。

 それぞれの“かたち”が舞台の上に浮かび上がっては、静かに消えていった。


 そして──。


 「次、鷹宮」


 玲奈の声に、あかりは立ち上がった。

 椅子を引く音が静寂に響く。

 そして、舞台中央へと足を踏み出した。

 一瞬の沈黙。

 目を閉じ、息を整える。


(麻琴が宝生先生に断られたって聞いて……私……嬉しかった)


 ぞっとするような自己嫌悪。

 その醜さを直視したとき、あかりの身体の奥で何かが音を立てて崩れた。


 「あんたなんかに、わたしの気持ちなんかわかるわけない──!」


 舞台に放たれたその声は、鋭く空気を裂いた。


 「努力して、我慢して、でもダメで、それでも頭を下げて、それでも……!」


 肩が震える。拳を握りしめる。


 「……それでも、見捨てられるくらいなら……最初から期待なんかしなきゃよかった……っ!」


 生徒たちが静まり返る。

 その叫びは、誰かへの怒りではなく、自分自身への怒りだった。情けなさ、嫉妬、罪悪感、悔しさ。あかりの奥底に澱のように沈んでいたものが、すべて混ざり合い、言葉になってほとばしっていた。

 そして──。


 「ああああああっ!」


 怒声とも悲鳴ともつかない咆哮。

 それは、どんな技術や演出を超えた、生の叫びだった。

 沈黙。

 一拍、二拍。

 やがて、あかりは肩を上下させながら、黙って頭を下げた。

 演技を終え、深く深く、礼をする。

 その背中には、ただ一つの覚悟だけが滲んでいた。


 「……すごかった」


 小さく漏れたのは、ひまりの声だった。

 彼女の目には、うっすらと涙が滲んでいる。


 「……あんな表現、できるんだ」


 ゆらもまた、声を落として言った。


 「感情の奥にある怒りを、まっすぐ引き出して……あれは、もう演技じゃないかもしれない」


 エリカは、腕を組んで無言で舞台を見つめていた。

 胸の奥が、微かに熱くなっていた。


(あれだけがむしゃらに練習してたのは……こういう理由だったのね)


 あのときの真っ直ぐすぎる瞳。自分にはできない向き合い方だった。


 澪は、静かにあかりの背中を見ていた。

 言葉では表せない感情が、胸にあった。あかりの叫びが、自分の心の奥にも、どこか刺さっていた。怒りという感情から最も遠いように見えていた彼女が──こんなにも、激しく、痛みを曝け出している。


(……ごめんね、あかり)


 その背中に、言えない謝罪を重ねる。


**


 授業の終わり、玲奈はあかりにそっと囁いた。


 「よく、引き出せたわね自分の感情」


 あかりは戸惑いながらも、小さく頷く。

 玲奈は何も言わず、そのまま微笑んだ。


(──これで、あなたはまた一歩、舞台に近づいた)


 その背後には、授業の様子を見届けていた宝生聖子の姿もあった。

 廊下の影に身を隠しながらも、その瞳は、あかりの成長をしっかりと見つめていた。

 微かな嫉妬。微かな喜び。そして、まだ名づけられない愛情の予感。演技の授業という名の、魂の解放。

 あかりの演技は、生徒たちの心に、深く長く残ることになる──。



***


 夕暮れの講師棟。

 演技授業の録画データを再生する玲奈は、静かに一時停止を押した。

 画面に映るのは、あかりが咆哮する瞬間。

 その声が空気を揺らしたシーンだった。


 「……すごいわね、あの子。ついに自分の感情に手を伸ばした」


 独り言のように呟いたその背後から、やわらかな声が響いた。


 「……彼女の中に、舞台に立つ覚悟が芽生え始めたわ」


 宝生聖子だった。

 レースのスカーフを巻いたまま、紅茶の香りを纏わせ、玲奈の隣に立つ。


 「あなたが今日の課題を怒りにしたのね」


 「……ええ。あの子が倒れた理由、だいたい察しがついたから」


 玲奈はそう言って、ちらりと聖子を見た。

 聖子は微笑みを崩さない。


 「……嫉妬、罪悪感、独占欲。舞台に立つ者なら、誰もが通る道」


 「それを成長と言うのなら、甘美すぎるわね」


 玲奈は小さく笑った。


 「でも……鷹宮あかりは、まだ踏み込むわ。きっと、もっと深く」


 聖子の声は、どこか艶やかで、冷たさを孕んでいた。


 「彼女は、まだ自分の感情に恋をしていない。本当の演技は……そこから始まるものよ」


 玲奈は目を細めた。

 その視線の奥にあるのは、かつて自分も踏み込んだ劇的な世界。


**


 その夜、あかりは一人、寮のベッドの上で深く眠っていた。

 夢の中で、誰かの声がした気がした。


 ──「あなたは、舞台に愛されるべき子よ」


 誰の声だったかは、目を覚ましたあとには、もう思い出せなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ