78:進級試験の朝
【 進級試験当日の朝 ― 鷹宮あかり】
2月の朝は、まだ夜の名残を引きずっている。
カーテンの隙間から差し込む冷たい光が、鷹宮あかりのまぶたをくすぐった。
目を開ける。
向かいのベッドでは綾小路澪が美しい顔で寝息を立てている。
天井の白さが、いつもより遠く感じるのは、緊張のせいだろうか。
(いよいよ……今日なんだ)
布団の中で、胸の奥が小さく鳴った。
鼓動は速く、でもどこか心地よい。これまで積み上げてきた日々が、今、自分を支えている気がした。
「上のクラスに行く――そのためにやってきたんだから」
あかりは、ぎゅっと自分の拳を握りしめた。
この1か月、授業も、選抜レッスンも、舞台稽古も、すべてがめまぐるしく過ぎた。時には倒れるほど無理をしたこともあった。だけど、それでも、自分の中で何かが確実に変わってきていると感じていた。
――舞台に立つ自分。
――演技にのめり込む自分。
――歌いながら、自分の存在が舞台と一体になるような感覚。
それは、ただ好きだけでは掴めなかった感覚。
誰かに勝ちたいという悔しさと、誰かに追いつきたいという焦りが混ざり合って、ようやく辿り着いた境地だった。
洗面所の鏡の前に立ち、あかりはそっと自分の頬を叩いた。
(大丈夫、私ならやれる。玲奈先生にも、霧島先生にも、そして……聖子先生にも、恥ずかしくないように。それにエリカにも、澪にも、負けたくない)
その思いが、あかりの背中を真っ直ぐにした。
制服に袖を通し、髪を整え、ルームメイトの澪よりひと足早く、あかりは廊下に出る。
吐く息が白い。
でも、心の中は静かに燃えている。
今日、すべてをぶつけよう。自分が、この一年で掴みかけた何かを、証明するために。
小さく呟いた。
「最高の一日にしよう」
それは、まだ誰の名前も冠していない、役者としての自分自身へのエールだった。
【進級試験当日の朝 ― 綾小路澪】
白い朝だった。
窓の外、空はどこまでも薄く、淡いグレーの雲が空の高みにたゆたっていた。
2月初旬の空気は凍えるほどに冷たく、呼吸ひとつで肺の奥まで痺れるようだった。
綾小路澪は、目覚ましが鳴る前に目を覚ましていた。枕元の時計は、午前六時二十三分を指していた。布団の中、澪はしばらく動けずにいた。毛布の重みの下で、心だけが何かを探し続けていた。
(中間試験……十三位)
その数字が、胸の内にじんわりと残っていた。
成績は確実に落ちている。中間試験の前は十位だった。自分でも、この下がり方が意味するものは分かっている。
(私、焦ってる……のかな)
あかりは上のクラスを目指して燃えている。
エリカは当然のようにトップを守り続けている。
でも自分は?
(男役で生きるなんて、強い言葉をあの子に言ったくせに)
――ほんとうは。
心のどこかで、未だに夢を見ている。
フリルのドレスをまとって、白い舞台の上で甘やかに笑う娘役の夢。
だって、ずっと憧れてきたのは、あの役だったのに。
けれど、与えられた身長。鳴り響く声の響き。
どこをどうとっても、男役向きと判断されてしまうこの身体。それに、見合った演技を、歌を、形にしようと自分なりに努力してきた。なのに、なのに――
(本当の私は、なにを望んでいるんだろう)
中途半端な気持ち。芯が通らないままでは、きっとまた順位を下げる。今度こそ、進級すら危うくなるかもしれない。
(そんなの、嫌だ……)
体を起こすと、となりのベッドにはあかりの姿がなかった。きっともう練習にでも出ていったのだろう。
あかりは今、自分が置いていかれるのではないかと恐れている。でも、同じくらい、澪も焦っていた。
(このままじゃ、あの子に追い越される)
それが悔しいわけではない。
でも、自分がこのまま何者にもなれないような気がして怖かった。
鏡の前で制服の襟を整えながら、澪はふと、目を閉じた。化粧を始める前の、すっぴんの自分。その顔を見つめながら、呟いた。
「――今日こそ、私を決める日」
男役か娘役かなんて、もうどうでもいい。
成績が何位かなんて、一瞬の結果だ。
けれど、自分が何を選ぶのかは、きっとこれからを決める。
そんな思いで、澪はゆっくりと筆をとった。
目の上に影を落とし、唇に紅をのせていく。心を鎧うようにして、いつもの綾小路澪ができあがっていく。
ドアを開けると、澪は冷たい空気の中に足を踏み出した。
(あかり……もう学校、行ってるかな)
その背を追うように、自分も歩き出す。
白く凍った朝の空気のなかで、澪の黒髪がさらりと揺れた。
【進級試験当日の朝 ― 紫堂エリカ】
目覚ましの音が鳴る前に、紫堂エリカは静かに目を開けた。
寝癖ひとつない黒髪が白い枕に広がっている。まるで、眠りそのものまで計算されたかのような静けさだった。
ベッドから起き上がると、規則正しく整えられた化粧台の前へ向かう。化粧水、整髪料、アクセサリー、どれも角度まで整然と並び、そこに一切の乱れはない。それが彼女の日常であり、美学だった。
301号室のルームメイト――橘颯真はまだ夢の中だった。
エリカは手早く制服に袖を通し、リボンを結んだ。
鏡の中の自分に一度だけ、静かに微笑んでみせる。
そこに迷いはなかった。
朝食はいつもと同じ――白米、焼き魚、味噌汁。
談話室に集まりはじめる生徒たちのざわめきの中でも、エリカの所作は変わらない。一口ごとに姿勢を崩さず、食器の音も立てず、完璧に近い静寂の中で箸を置いた。
「――行きましょうか」
誰に言うでもなく、そう口にして席を立つ。
教室までの道のりを、寒風が襟元から吹き込むが、エリカは一切動じない。身体の芯まで凛と冷えていることさえ、彼女にとっては武器だった。
(私がトップであることに、疑いはない)
入学時からずっと成績は一位。文化祭でもロミオを演じ、脚光を浴びた。努力もしてきた。怠けたことは一度もない。――だから、進級試験でも当然、最上位にいるはずだった。
なのに。
(最近、ざわざわする……)
心の奥に、ひとつだけ小さな針のようなものが刺さっていた。
――鷹宮あかり。
入学時にはまったく目立たず、選抜試験でも滑り込みに近かったその子が、今や着実に成績を上げてきている。
あの情熱、あの粘り強さ……
なにより、舞台で見せたときのあの目。あの目が、脳裏にこびりついて離れなかった。
(ふん……所詮、凡人の必死な足掻き)
そう言い切ってしまえたら、どれだけ楽だったか。
けれど、エリカの中のもう一人の自分が言っていた。
――もし、あの子がスターの目を持っていたら?
その疑問が、喉の奥で棘のように引っかかる。
さらに、もう一つ。
綾小路澪。
あの子の傍にいるのは、誰であってほしいか?
言葉を交わし、少しずつ距離を縮めてきた。けれど、澪のそばにいるのは――
(あかり、だった)
それが癪だった。
それが、いらだたしかった。
それが――少し、怖かった。
だからこそ、今日の試験では、圧倒的な力の差を見せつけなければならない。誰にも追いつかせない。誰にも渡さない。
制服の裾を軽く直し、エリカは教室の扉を押した。冷たい金属の感触が、指先をしっかりと地につなぎとめてくれる。
(私は紫堂エリカ――トップでいるべき存在)
その名に恥じぬように、今日も完璧に、戦場に立つ。




