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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
67/140

67:信じられる人にだけ、可能性はある

 午後の授業が終わるとすぐに、1年生たちは講師に引率され、劇場棟の大ホールへと足を運んだ。

 「今日の5時間目は、2年生の卒業公演のリハーサル見学です。静かに、集中して観なさい」と如月玲奈が静かに告げると、生徒たちは緊張した面持ちでホールの座席に腰を下ろす。

 舞台上では、すでにセットの一部が組まれ、稽古用の仮衣装を身につけた2年生たちが立ち位置を確認していた。スポットライトはまだ点いていないが、舞台全体に張り詰めた空気が流れていた。

 客席の最前列では、嶺山奏が舞台中央に立っていた。彼女が演じるのは《エデンの東》の主人公、ケイレブ。短く整えられた髪、研ぎ澄まされた視線、そして立ち姿の美しさに、1年生たちの視線が自然と吸い寄せられる。


 「すごい……もう、完全に役になりきってる」

 あかりは、思わず小さくつぶやいた。


 隣に座る澪もまた、静かに頷く。舞台上の奏は、台詞を発さずとも“内面”を語っていた。何気ない所作一つにも物語が宿っている。

  一方、エイブラ役を務める御堂しずくの存在感も圧倒的だった。白く整った肌に、丁寧な発声。まるで舞台全体を柔らかく包み込むような存在感があり、ゆらが「娘役って、こういうことなんだ……」と小さく呟いた。


 「ほんと、呼吸すら計算されてる感じ……」


 その言葉に、さらも頷いた。「今の私たちには、まだできないレベルだね。悔しいけど」


 照明が少しだけ落とされ、稽古が本格的に始まった。

 右京は、主演ではないが、準主役の役どころで登場した。やや年上の兄を演じる右京の芝居は、静かで重い。大きな声を張るわけではない。だがその台詞一つひとつに、怒りと悲しみ、嫉妬と愛情がにじむ。


 その演技に、玲奈は小さく目を細めた。


 「……やはり、右京の芝居は積み上げた重さがある」


 舞台袖で控えていた講師たちの一部も、無言で頷く。

 やがて、一つのシーンが終わると、演出助手が拍手とともに声をかけた。


 「ここまでで一度区切ります。演出調整入ります」


 舞台がひと息つくと、1年生たちは自然と小声で感想を言い合い始めた。


 「私たち、あと1年であそこまで……行けるのかな」

 「やれるよ。やらなきゃ、私たちも卒業できない」


 あかりは小さく唇を噛んだ。

 たった一言の役しかもらえなかった自分。

 でも、だからこそ燃えている。この舞台に立ちたい。光を浴びたい。


 それは隣に座る澪も同じだった。

 澪はステージを見つめたまま、囁くように言った。


 「……来年、私も、舞台の中心に立つ」


 その目は、どこまでも静かに、しかし深く光っていた。



***


 ホールを出ると、夕暮れの色がガラスに映っていた。リハーサルを終えた2年生たちが、疲れの中にも凛とした余韻を漂わせてロビーを通り過ぎていく。

 1年生たちはその様子を見送りながら、自然と小さな輪になって歩き出す。


 「……はぁ、すごかったね……」


 最初に声を漏らしたのはさらだった。感嘆というより、半ば呆然としたような息づかいだった。


 「うん……。ただの練習じゃなかった。もう、本番みたいだった」


 ひまりが同意するように言うと、ゆらも頷いた。


 「嶺山先輩のケイレブ……泣きそうになった。あんな複雑な感情、どうやってあそこまで演じられるんだろう」


 「しずく先輩の声も、ずっと残ってる。あれが娘役の芯っていうものなのかな……」


 あかりは無言だった。感動しすぎて、言葉にできなかったのだ。

 けれど、目だけが真っ直ぐで、何かを噛み締めるように強い光を宿していた。


 「ねえ、あかり」澪がそっと問いかける。


 「……どう思った?」


 あかりは、ほんの少し間を空けてから、短く言った。


 「悔しかった。あんなにすごいのに、私……まだ何もできてないって思った。でも、絶対あそこに立ちたいって思った」


 その言葉に、さらも、ゆらも、ひまりも、静かに頷いた。

 誰もが胸に抱いたものは違えど、共通していたのは——あの舞台に、いつか自分が立ちたいという強い思いだった。



***


 寮の廊下は夜の静寂に包まれていた。

 談話室の前の廊下で、自販機の前に立つ長身の後ろ姿を、あかりは見つける。


 「あ……芦原先輩」


 あかりの声に、芦原右京はゆっくりと振り返った。

 カップから立ちのぼる湯気が、彼の落ち着いた表情をかすめていく。


 「こんばんは。こんな遅くにどうしたの?」


 「あ……ちょっとだけ、風に当たりたくて……」


 あかりは少し照れたように笑い、隣に立つ。

 右京は彼女にカップを差し出した。


 「ほうじ茶。眠る前にはいいよ」


 「ありがとうございます」


 受け取った紙コップの温もりに、あかりの指先がじんわりと温まる。


 「……今日、卒業公演のリハーサルを見ました」


 あかりはふと目を輝かせて言った。


 「すごく迫力があって……胸が熱くなりました」


 右京は少しだけ目を細めて、頷く。


 「ありがとう。でも……主役じゃなくて、準主役だけどね」


 「……そんな」


 「そう。だけど主役は嶺山奏に決まった。……まぁ、スター候補だからね。顔も華やかで、男役としての立ち姿も申し分ない。誰が見ても納得の配役だよ」


 右京はどこか乾いた笑みを浮かべながら、カップに口をつけた。


 「……悔しくないんですか?」


 あかりの問いに、右京は少しだけ目を細めた。


 「もちろん、悔しかったよ。でもね……私は私の役を、きちんと自分のものにする。それが今の私にできる舞台への誠実さだと思ってる」


 その言葉には、決して負けを認めたわけではない、強い芯があった。


 「……かっこいいです」


 あかりがぽつりとつぶやいた言葉に、右京は小さく苦笑した。


 「そう言ってもらえると、救われるな」


 ふと、彼は視線を天井に向ける。

 あかりには見えない、遠い何かを見るように。


 「ねえ、鷹宮さん」


 「はい?」


 「……あの人に、言われたことがあるんだ。如月玲奈先生に」


 「……先生に?」


 「この前『私は、スターになれると思いますか?』って、聞いたの。あの人は少し黙ってから、こう言った」


 右京はその言葉を、まるで心の奥底から掬い上げるように語る。


 「『スターになれるかどうかなんて、私が決めることじゃないわ。それを信じられる人にだけ、可能性はある』って」


 しんとした廊下の空気の中に、その言葉が静かに落ちる。


 「……信じること、ですか」


 「そう。誰よりも自分の可能性を信じるって、難しい。でも、それができるかどうかで、きっとすべてが変わる。役がどうとか、順位がどうとか……それよりも前にね」


 あかりは、手にしたほうじ茶の温度を感じながら、そっと頷いた。


 「……私も、信じたいです。まだ全然足りないけれど……でも、信じたい」


 「なら、あなたもきっと、舞台に立ち続けられる」


 右京は、あかりの肩を軽くたたくと、やさしく微笑んだ。


 「じゃあ、そろそろ寝ようか。明日も早いしね」


 「はい。……おやすみなさい、芦原先輩」


 「おやすみ、鷹宮さん」


 その夜風はどこかやわらかく、あかりの胸の奥に火を灯した。


 玲奈の言葉。

 右京の覚悟。

 そして、自分が今、立っているこの場所。


 信じること——それはまだ不器用で、頼りないけれど、あかりはそっと、歩き始めようとしていた。

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