66:右京に足りないもの
特別選抜に選ばれたあかりは、朝から夕方までは通常の授業、放課後は選抜レッスンと、慌ただしい日々を過ごしていた。
それでも、身体の疲れとは裏腹に、心の奥底には確かな手ごたえが芽生え始めていた。
バレエでは足の運びが滑らかになり、日舞では扇の角度ひとつまで意識できるようになった。
声楽では霧島要から教わった発声法が身につき、演技では玲奈の鋭い指導のもと、感情を役へと落とし込めるようになってきた。
「私、少しずつだけど……変わってきてるかもしれない」
そんな小さな実感が、あかりの中に灯をともしていた。
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ある夜、夕食を終えたあかりたちは、寮の談話室でくつろいでいた。
柔らかな照明のもと、ソファや椅子に腰をかけた数人の1年生たちが、お菓子とお茶を囲みながら談笑する。
その中で、ひとりがふと話題を切り出す。
「そういえば、2年生の卒業公演、演目決まったらしいよ。『エデンの東』なんだって」
「えっ、あの有名な?」
「うん。主役のケイレブを嶺山奏先輩がやるんだって」
談話室の空気が、一気にざわめきに変わった。
「え? ケイレブって、てっきり芦原右京先輩かと……成績トップだし」
「それが違うらしいの。エイブラ役が御堂しずく先輩で、ケイレブは嶺山先輩」
「なにそれ、どういうこと?」
思い思いの声が飛び交う中、さらがこっそり言った。
「やっぱり、劇団が嶺山先輩を推してるんじゃない?」
「え〜、でも右京先輩って、めちゃくちゃ舞台映えするじゃん。しかも、いつも成績1位でしょ?」
「でも、主役って毎回同じ人がやるわけじゃないから。芦原先輩はこれまで何度か主役やってるし、今回はバランス”見たのかも」
会話に加わっていたゆらが、静かに言葉を挟んだ。
「……単純に、成績順で配役されるわけじゃないんだと思う」
一瞬、場が静かになった。
ゆらは、湯のみをそっと置き、続けた。
「舞台に立つってことは、実力ももちろん大事だけど……それだけじゃない。運や、タイミング、それから……美しさも。舞台でどう“光るか”ってことじゃないかな」
あかりも、そっと頷いた。
舞台の上で何が真実になるかは、成績や努力だけで割り切れるものではない。
どれだけその役とひとつになれるか、どれだけ観客の心に届くか。
そんな、掴みどころのない“何か”が必要なのだ。
「なんか……舞台って、ほんとに奥が深いんだね」
澪がぽつりと呟いた。
その横顔は、いつもより少しだけ遠くを見つめているようだった。
**
談話室の外、渡り廊下から見える中庭の方では、2年生たちが遅くまで稽古をしていた。
暗がりにぼんやりと灯る稽古場の窓からは、鋭く伸びた声が聞こえる。
「嶺山奏先輩、やっぱりすごい迫力……」
「でも、御堂しずく先輩のエイブラも気迫がすごいよ。冷たいのに、どこか哀しさがあって……」
1年生たちは、2年生の背中を見つめながら、
それぞれが自分の「次の舞台」を想像していた。
“あの場所に、立ちたい。”
小さな憧れと、少しの焦りが胸の奥にじわじわと広がる。
やがて、あかりは静かに立ち上がった。
「私、もうちょっと練習してくる」
澪がすぐに立ち上がり、何も言わずに後を追う。
談話室に残ったさらが微笑んで言った。
「……うん、がんばらなきゃね。私たちも」
それぞれの想いが、確実に次の舞台へと向かって動き始めていた。
***
【専門学校・教室】
卒業公演『エデンの東』の舞台稽古が終わった後、稽古場の照明が落ちる頃、芦原右京は一人、舞台中央に立ち尽くしていた。
――主役は、自分ではなかった。
決して演技力が劣っていたわけではない。
バレエ、日舞、声楽、どの科目も、すべてトップの成績を収めてきた。
講師陣の信頼も厚く、後輩からも憧れられている。
だが、「主役」は与えられなかった。
それが意味するものが、右京には痛いほどわかっていた。
舞台の上で「男役」として最も輝く存在――それが「スター」。
そして、男役スターにとって絶対に必要とされるもの。
それは、顔――その輪郭、その目、その鼻、その光。
「……私は、何かが足りないんですね」
静かに呟いたその声に、背後からもう一つの声が重なる。
「足りないのは、確信じゃないかしら?」
右京が振り返ると、薄暗い客席の通路から、如月玲奈が静かに歩いてくるのが見えた。
「如月先生……」
玲奈は照明の消えかけた舞台を見渡しながら、ゆっくりと歩を進める。
「芦原。あなたの踊り、台詞回し、声の響き。どれも完璧よ。欠けているものなんて、なにもない」
「……でも、顔が……」
右京の声は、いつになく弱々しかった。
「私は奏ほどの整った顔立ちじゃありません。ポスターや舞台写真に並んだとき、自分だけが浮いて見える。……そんなことばかり、考えてしまうんです」
玲奈は舞台の端まで歩み寄り、そっと舞台の床に触れるようにしてしゃがみこむ。
そして、顔を上げて言った。
「舞台は写真じゃないわ。動いて、話して、息をして、生きる場所よ。写真で並べたときに誰が映えるかなんて、スターの本質とは違う」
右京は思わず言葉を失った。
玲奈の目は、どこまでも真っ直ぐだった。
あの天翔歌劇団の舞台で、何百、何千というスポットライトを浴びた元トップスターのまなざしだった。
「あなたには、光があるわ。自分で自分の輝きを疑わないで。……あなた自身が、私はこの舞台で誰よりも生きてると確信できたとき、その光は誰の目にも見えるのよ」
「……でも、現実には、顔で選ばれることもあるでしょう?」
右京の声はまだ少し震えていた。
玲奈は立ち上がり、静かに頷いた。
「ええ、現実には、ね。でも、顔は武器になっても、心を越えることはない。それに、あなたは顔が劣ってるなんて言ってるけど、私はそう思わない」
「え……?」
「美しさは、造形の美だけじゃない。気高さ、姿勢、まなざし……。あなたの凛とした気配、それは多くの舞台人には真似できないわ」
玲奈の声には、一切の感傷も、甘やかしもなかった。
ただ、一人の舞台人として、同じ世界で生きてきた者の重みだけがあった。
右京は目を伏せたまま、ふっと息を吐いた。
「……ありがとうございます、先生」
玲奈はそれ以上多くを語らず、ゆっくりと踵を返した。
客席へと降りる階段に差しかかったところで、右京がぽつりと問いかけた。
「……先生。私に、スターの可能性はありますか?」
一瞬の沈黙のあと、玲奈は振り返らずに答えた。
「それを信じられる人にだけ、可能性はあるのよ。右京さん」
静寂が、舞台を包んだ。
そしてその中で、右京の心に小さな炎がともる。
――自分の光を、信じてみよう。
まだ小さな灯だが、それでも確かに、そこにあった。




