65:選抜レッスンと外部レッスン
朝――。
新たに始まる選抜レッスンの初日。天翔歌劇団専門学校の寮食堂には、いつもとは少し違う、ぴんと張りつめた空気が流れていた。
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食堂の窓から差し込む朝日が、長いテーブルに並べられた朝食をやわらかく照らしている。
ご飯に味噌汁、卵焼きと焼き鮭。質素だが体に優しい和食の香りが、空腹をやんわりと刺激していた。
あかりと澪は、他の一年生たちとは少し離れた席に並んで座っていた。
選抜試験を突破し、今日から特別なレッスンが始まるという高揚感と緊張が、二人の間に言葉少なな沈黙を落としていた。
あかりが箸を置き、そっと口を開いた。
「……緊張して、あんまり眠れなかったな。昨日の夜もずっと、どんなレッスンになるのか考えてて……」
「うん、私も。」
澪はご飯を少し口に運び、静かに頷いた。
その瞳はどこか遠くを見つめているようで、けれど確かに、今日という一日を真っすぐに受け止めようとする強さがあった。
「でも……行こうね、澪。私たち、受かったんだもん。自分の足で選んだ場所で、ちゃんと立ちたい。」
「ええ。覚悟はできてる。……あかりと一緒に、選ばれた意味を証明したい。」
二人はどちらからともなく目を合わせ、小さく微笑んだ。
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食後、制服の襟を正し、荷物を手にしたあかりと澪は、並んで寮を出た。
朝の風はひんやりと冷たく、けれど背筋がしゃんと伸びるような心地良さがあった。空は高く晴れ、空気は澄んでいた。
天翔専門学校までの道を歩きながら、あかりは前を歩く澪の横顔をちらりと見た。
無駄のない姿勢、ゆるぎない足取り。昨日までと変わらないはずの澪が、どこか少しだけ遠くなったようにも感じる。それはきっと、選抜という場で共に戦う仲間であり、時にライバルでもあるという現実を、静かに実感しているからだった。
「ねえ、澪。……私、少し不安なんだ。」
ぽつりとこぼした言葉に、澪は立ち止まり、ふと微笑んで返した。
「大丈夫。あかりは、あかりだから。」
それだけを言って、再び歩き出す澪の背を追いかけながら、あかりは拳をぎゅっと握った。
その手の中には、これからの日々への覚悟が、確かに宿っていた。
そして、登校の坂道を上り切ったその先に――新たな舞台の扉が、二人を待っていた。
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◆紫堂エリカ
選抜レッスン初日。
エリカは、その端正な立ち姿と涼やかな視線で教室に現れた。
「よろしくお願いします」
挨拶は簡潔だが、その背中に漂う自信は揺るぎがなかった。
男役としての技術、声の響き、表現力──どれをとっても頭一つ抜けている。ただ、彼女の内に一つの不安があった。
──日舞だ。
演目ごとの所作、扇の扱い、足の動き。優雅でありながら内に緊張感を孕むその世界は、バレエとはまた違う筋肉と意識を要求する。
「うまく踊る必要はありません。“所作を美しく演じる”のです」
日舞講師・藤代瑞月の言葉が、エリカの脳裏に突き刺さった。
最初のうちはぎこちなかった彼女の動きは、回を重ねるごとに変化していく。
やがて彼女の扇が空気を切り、舞台を静かに照らす。
自信の裏にあった小さな劣等感は、確かな努力で埋められていった。
◆結城さら
選抜クラスの中で、さらは明らかに「娘役の華」だった。
女役の基本を心得た立ち居振る舞い。
バレエでは柔らかく軽やかに舞い、日舞ではしっとりとした品格を見せる。それでも、さらには課題があった。心の出し方。
「あなたは美しい。でも、それだけじゃ観客の心には届かない」
如月玲奈のその指摘は、さらを一瞬黙らせた。
その夜、さらはひとり寮の鏡の前で泣いた。美しさに頼ってきたわけではない。でも、自分の中にあった“恐れ”を直視せざるを得なかった。
翌日の稽古。さらはあえて、舞台に出る前に深く息を吐いた。
「今日の私は、結城さらを脱ぎ捨ててみます」
そう告げた彼女は、まるで違う人のように、感情をこめて台詞を発した。
静かに拍手したのは玲奈だった。
◆綾小路澪
澪の課題は、誰よりも複雑だった。
舞台に立てば誰もが見とれるほどの美貌。その気品と透明感は、娘役にすら引けを取らない。
だが、澪は男役志望だ。男役として「どう立つべきか」「どう声を響かせるべきか」、悩み続けていた。
「あなたは美しすぎるの。そこが、あなたの武器であり、罠でもある」
そう言ったのは玲奈だった。
ある日のバレエレッスンで、澪は無意識に“美しく見える角度”ばかりを選んで踊っていた。
それを指摘され、自分の中の矛盾を見つめ直すことになる。
「美しいではなく、立つのです。男役として、真っ直ぐに」
その日から、澪の姿勢が変わった。
ただ優美に立つのではなく、重心を下げ、芯のある立ち姿を意識する。まだぎこちないが、少しずつ男役・綾小路澪が生まれつつあった。
◆水城ひまり
ひまりは、表現力に長けた生徒だった。
歌えば情感豊かに、踊れば小柄な身体をいっぱいに使って舞う。しかし、選抜レッスンでは技術の細部まで要求された。
「あなたの演技は感覚に頼りすぎている」
如月玲奈の指摘に、ひまりは初めて技術の壁を意識する。
それでもひまりは折れなかった。
「感覚に頼らずに感情を伝えるには、どうすればいいか」
その問いに真摯に向き合い、バレエの足のライン一つ、声の抑揚一つにこだわった。
一歩ずつ、堅実に、前に進むひまりの努力は、講師たちの間でも話題になっていた。
◆鷹宮あかり
選抜メンバーの中で、もっとも未完成だったのが、あかりだった。
けれど、どのレッスンでも彼女は最も変化していた。
声楽では霧島要の指導を思い出し、甘く澄んだ声に芯を持たせていく。演技では宝生聖子の教えが体に染みついており、感情の揺れを自然に表現し始めていた。
そして、何よりも「舞台に立ちたい」という純粋な思いが、彼女のすべてを突き動かしていた。
講師陣の間でも、「この子は何かを持っている」と話題になった
だが、それはまだ光の芽でしかない。
誰にも気づかれずに踏み潰されてしまうほどの、かすかな光。
あかり自身も、それをわかっていた。
だからこそ、彼女は誰よりも貪欲に学び、前へ進んでいった。
***
選抜レッスンが始まってしばらく、校内の雰囲気は明らかに変化していた。
一方で、それとは別の“道”を選んだ者たちもいた。
一ノ瀬ゆらと橘颯真。
2人は、学外の著名な指導者のもとで外部レッスンを受ける選択をした。
専門学校のカリキュラムからは一歩離れた、いわば実戦型の学び舎。そこでは、商業舞台や映像の現場で活躍するプロたちが指導にあたる。
◇一ノ瀬ゆら
ゆらは、文化祭でジュリエットを演じたときの反省点を胸に抱えながら、
娘役に必要な気配りと感性の細やかさを磨いていた。
外部で教える元トップ娘役の講師は、最初から厳しかった。
「あなた、綺麗なだけ。感情が全部、表面で止まってるの」
その一言に、ゆらは悔しさを噛みしめた。
寮に戻ってきたのは夜10時過ぎ。
制服の上に羽織ったカーディガンは少しだけ汗を含み、髪には都心の空気の匂いが残る。
「ただいま……」
小さな声で呟いて部屋に戻り、シャワーを浴び、湯気に包まれた鏡の中で自分の顔をじっと見つめる。
──もっと深く、もっと強く、美しく。
自分の中に眠る核を見つけ出すために、ゆらは誰よりも静かに、戦っていた。
◇橘颯真
颯真が通うのは、元男役トップの個人レッスンを中心とした外部スタジオだった。そこは容赦のない実力主義の世界。
「その身長に甘えるな。お前の立ち姿からは魂が感じられない」
バレエの基礎、発声、台詞回し──。
すべてが“男役としての本質”を問われる授業に、颯真は自分の未熟さを痛感する。
レッスン後、彼が寮に戻るのはゆらよりもさらに遅い。
寮の玄関を開けるころには、玄関ホールの照明も一段階落とされている時間だった。
「はぁ……」
少しだけソファに腰を下ろしてため息をつき、静かに靴を脱ぐ。
部屋に戻ると、同室のエリカはすでに眠っていた。
明かりをつけないまま、颯真は洗面台で顔を洗い、自分の目をじっと見つめる。
──私に、主役をこなせる器があるのか?
誰に聞かせるでもないその問いが、夜の闇に静かに沈んでいった。
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学校で仲間とともに切磋琢磨する選抜レッスン。
そして、孤独な戦いと本物の厳しさにさらされる外部レッスン。
ゆらと颯真は、後者の道を選んだ。
それが正解かどうかは、誰にもわからない。
だが二人とも、確かに何かを掴み始めていた。
寮の廊下ですれ違うたびに感じる緊張感。
そのまなざしの奥にある、燃えるような意志。
いつか交わる未来の舞台に向けて、
ゆらと颯真は今、誰よりも黙々と、自分の足で歩いている。




