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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
64/140

64:予期せぬ訪問者

 夜の帳が静かに寮と講師棟を包み込む頃、鷹宮あかりはそっと寮を抜け出していた。

 制服の上からカーディガンを羽織り、少しだけ肌寒く感じる夜風に身を縮めながら、講師棟の階段をゆっくりと上る。向かう先は五階の一番奥、宝生聖子の部屋。

 あかりは、選抜試験に合格したことを報告したくて来ていた。ただ、それだけのつもりだった。


(お礼だけ。……きちんと、伝えたかっただけ。)


 心の中で何度も自分にそう言い聞かせながら、長い廊下を進む。

 しかし、聖子の部屋の前に差し掛かったそのとき――カチャリ、とドアのノブが音を立てて開き、そこからひとりの人影が出てくるのが見えた。


 「……っ」


 あかりは思わず物陰に身を隠した。音を立てないように壁際にぴたりと背をつけ、その人影を目で追う。

 廊下の照明に照らされたその横顔は――神田麻琴だった。

 麻琴は落ち着いた足取りで、何事もなかったかのように階段へと消えていった。その背にあかりは、しばらく息を止めたまま、立ち尽くしていた。


(麻琴……が、先生の部屋に……?)


 信じられないわけではない。

 選抜試験に落ちた麻琴が、何らかの個別指導を受けていても不思議ではなかった。

 それに、聖子は他の生徒にも演技の指導をしていると、噂で聞いたこともある。


(でも、こんな時間に? ……どうして?)


 ドアは静かに閉まったまま、再び音を立てる気配はない。

 あかりは胸の奥で何かがざわめいているのを感じながら、その場からそっと踵を返した。

 今日は――やめておこう。

 自分には関係のないこと。そう言い聞かせるようにして、あかりは講師棟を後にした。


 

***


 寮の階段を上り、自室である202号室のドアを開けると、部屋の中には澪が静かに座っていた。


 「……遅かったのね」


 とくに問い詰めるような調子ではなく、ただそれだけを言った澪の声は、まるで夜の深さに寄り添うように落ち着いていた。

 あかりは軽く笑ってごまかしながら、「ちょっとね」と呟き、自分のベッドに腰を下ろした。


 ベッドの中に潜り込んでも、なかなか寝付けなかった。

 聖子のこと。麻琴のこと。自分のこと。

 あかりの心はざわざわと波打ち続けていた。


(関係ない。私は選抜レッスンを受けるって決めた。先生が誰と会っていようが、それは――)


 そう何度も言い聞かせたが、胸の奥に生まれた棘のような感情は、なかなか抜けてくれなかった。

 あのドアの前に立ったときの緊張。

 開いた扉の向こうにいたのが、別の生徒だったときの、胸を締め付けられるような感覚。


(私……なんで、こんなに動揺してるんだろう)


 その問いには答えられなかった。

 ただ、自分の感情が、もう理屈では語れない場所にあることだけは、確かにわかっていた。

 あかりが寝返りを打ち、シーツの音が静かに響く。

 その向こうのベッドで、澪は何も言わずに目を閉じていた。


 彼女は知っている。

 あかりの不安も、葛藤も、胸の奥にある見えない熱も。

 けれど今はまだ、それを言葉にするべき時ではないと、澪は感じていた。

 夜はまだ、静かに続いていた。



***


 月明かりも隠れた曇り夜、講師棟の五階、その一番奥の部屋の窓に、ひとつだけ灯された明かりがあった。

 宝生聖子は、背筋の伸びた姿勢のまま、レースのカーテン越しに、静かに夜の校舎を見下ろしていた。

 視線の先にあるのは、講師棟の外階段をそっと降りていく、一人の少女の後ろ姿。


 ――鷹宮あかり。


 その表情はどこか曇っており、立ち止まりそうになる足を無理に進ませるような、迷いを含んだ動きだった。


 「……来なかったのね。可愛い子」


 その唇に、朱を引くような冷たい笑みが浮かぶ。

 聖子は手に持っていたカップをテーブルに戻すと、深々としたソファにもたれかかった。

 その胸の内には、計算通りの展開が静かに波紋を描いていた。

 今夜――あかりが選抜試験の合格を報告しに訪れることを、聖子は直感していた。

 だからこそ、その前に、神田麻琴を自室に呼び寄せた。

 選抜試験に落ちたばかりの麻琴が、自分に特別なレッスンをお願いしてくるように、あえて隙を与えたのだ。


 麻琴は聡い子だった。きっと自分の演技に足りなかった何かを求めて、誰よりも早く行動に移すと思っていた。

 その通り、彼女は聖子のもとを訪れた。そして、それをあかりが見ていた――それも、計算通り。

 麻琴を先に部屋へ招いたのも、あかりの心を揺らすための布石にすぎない。

 あかりが麻琴の姿を目にすれば、何を思うか。自分の胸のざわめきにどう折り合いをつけるか――その全てを聖子は、楽しんでいた。


 窓の外に見えるあかりの背中が、そろそろと寮の方向へ遠ざかっていく。

 聖子はカーテンをそっと指先で押し開き、夜風が頬をかすめるのを感じながら、ふと唇の端を持ち上げた。


 「そう、いいのよ。少し焦らされるくらいが……燃えるもの」


 その声は誰に向けられたものでもなく、ただ空間に甘く溶けて消えていく。

 麻琴のことを気にする――あかりの心の揺らぎ。

 それはまだ、幼い熱。だが、その熱が情熱へと変わるのに、時間はそうかからない。

 聖子は椅子に腰を下ろし、髪を指先で梳きながら、微笑んだ。


 「あなたがどこへ行こうと、最終的に私の手に戻ってくる。……あなたは、そういう子」


 その表情は、舞台の幕が上がる瞬間を待つ演出家のようでもあり、獲物が罠にかかる音を待つ肉食獣のようでもあった。

 夜は深く、そして甘く、静かに満ちていく。

 講師棟の五階――その部屋に宿る妖艶な気配が、夜の校舎を支配していた。


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