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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
62/140

62:選抜試験

 選抜試験の朝、まだ薄暗い寮の廊下には、静かな緊張感が漂っていた。


 天翔専門学校寮202号室。

 あかりは鏡の前で、いつもより念入りに髪を整えていた。澪も隣で、凛とした表情で白いブラウスのボタンをきちんと留める。二人の動きは静かだが、どこか互いの気配に励まされているようだった。

 あかりがそっと声をかける。


 「澪、今日は絶対、私たちのベストを尽くそうね。」


 澪はいつもの彫刻のような美しい顔に、ほんの少しだけ柔らかな笑みを浮かべて答えた。


 「うん、あかり。お互い、頑張ろう。」


 その言葉には、緊張だけではなく、互いを信じる確かな力が宿っていた。


**


 301号室。

 301号室では、選抜試験に挑む紫堂エリカが制服を整えていた。彼女のそばには橘颯真がいて、普段の強気な表情とは違い、どこか優しいまなざしでエリカを見つめている。

 颯真は短く言った。


「エリカ、今日は力を出し切れよ。あなたならできる。」


 エリカは一瞬驚いたように颯真を見つめるが、すぐに微笑み返す。


「ありがとう、颯真」


 颯真は頷き、部屋の外へと歩いていった。

 静まり返る寮の中、選抜試験に挑む者たちの胸には、期待と不安が交錯していた。だが、それぞれの決意が、これから始まる大切な一日の幕開けを力強く告げていた。



■第一試験:バレエ


 冷たい木の床が足裏に触れた瞬間、あかりの身体は自然と引き締まった。

 講堂の片隅では、バレエ講師の目が鋭く光っている。


 トップバッターは――紫堂エリカ。

 動き出した瞬間、その場の空気が変わった。

 カウントの一拍も乱れず、指先まで神経の通った美しいポーズとライン。

 重力を忘れたかのようなジャンプ、無駄のない回転。

 エリカはまさに、「完璧な技術」という言葉を具現化してみせた。


(当然……だけど、完璧すぎて、どこか“隙”がない……)

 講師の一人がそんな感想をノートに書きつける。


 次に踊ったのは、綾小路澪。

 立ち姿だけで、講師陣の目が引き寄せられる。

 彼女の美しさは、「美形」や「スタイル」という言葉だけでは語れなかった。

 舞台上に立つと、そこに物語が生まれるような、不思議な静けさと存在感がある。


(……ただ、まだ身体の芯が甘いな。振付の精度が不安定だ)


 バレエ講師は心の中でつぶやいた。

 そして、あかりの番が来る。


(落ち着いて……落ち着いて……!)


 深呼吸をして舞台中央へ。

 軽やかにポーズを取り、音楽が流れ始めた。

 ――だが、ターンで一瞬バランスを崩す。


(やばい……!)


 と、思ったその刹那、あかりは崩れかけた足元をなんとか修正し、次の動きへつなげた。

 終盤には彼女らしい軽やかなリズムが戻り、なんとか踊り切る。


 「よく立て直したな」


 霧島要がつぶやいた声が、講師席に小さく響いた。



■第二試験:日舞 


 舞台中央に進んだのは――結城さら。

 その所作は流れるようにしなやかで、清楚な美しさが立ち上がっていた。

 彼女は確かに「見せ方」を知っている。魅せるためにどう動けばいいのかを。


 「丁寧だな……やはり舞台映えする」


 講師が一人、頷く。


 次に踊ったエリカは、どこかぎこちなさが見えた。

 基本の所作は正確なのだが、日本舞踊特有の“間”や“静”に苦戦している。


(私……この流れ、まだ掴めてない……)


 その焦りが動きに表れていた。講師陣の一人が眉をひそめる。


 そして、あかりの出番。

 以前よりも落ち着いた動き、そして何より――感情の流れが、所作の中に織り込まれていた。

 まるで、扇をひらく指先に物語が宿っているようだった。


 「おもしろい子だね」


 日舞講師の藤代瑞月が口角を上げて言った。



■第三試験:声楽


 舞台の中央にはピアノが置かれ、試験官が楽譜を持ってスタンバイしている。

 麻琴は重厚な声で、低音をしっかりと響かせた。

 霧島要の補習の成果がはっきりと出ている。


 「支えが安定してきたな……声の芯もぶれていない」


 霧島は目を細めた。

 エリカは、譜面通りの完璧な発声で、まさに優等生の声を響かせた。

 だが――


 (……これ以上の伸び代があるかどうか、だな)


 霧島はそう考えつつも、口には出さなかった。 


 そして、あかりが立つ。

 ピアノの音が響いた瞬間、彼女の表情が一変した。

 まるで、音に触れたことで感情がスイッチされたかのように。

 甘く、優しい声が講堂を包む。

 丁寧に、そして時に大胆に揺らすビブラート――補習で学んだテクニックを彼女なりに消化し、あかりの「声」へと変えていた。


(……伸びる子だ)


 霧島は、確信するように頷いた。



■第四試験:演技


 最後の科目――演技。

 ここでこそ、真価が問われる。

 登場したのは――澪。

 「“なぜ、あなたは戦うのですか?”」

 彼女がセリフを言った瞬間、場の空気が静まり返った。

 その声は静かだが、胸に迫るものがある。

 見た目の美しさだけでなく、内面から滲み出す哀しみのような感情が、言葉の端々に染み込んでいる。


 続いて、エリカ。

 彼女の演技は明確だった。台詞も動きも完璧――まるで模範解答のようだった。 

 だが、玲奈の表情は硬い。


(……完璧すぎる。逆に、何も響いてこない)


 演技に必要な「心」が、まだ届いてこないのだった。


 最後に、あかりが登場する。

 彼女の台詞は拙い。

 動きもエリカほど洗練されていない。

 だが――


 「……あなたに、ただ会いたかっただけ」


 その一言に、教室の空気が震えた。

 感情が、声に乗っていた。心が、舞台の上に立っていた。

 客席の如月玲奈が、ゆっくりと目を伏せる。


(……あの夜の練習は、無駄じゃなかったのね)


 それは、演技の理屈を超えた、“何か”が宿った瞬間だった。


**


 すべての試験が終わり、生徒たちは一様にぐったりと疲れていた。

 エリカは自分の演技にどこか納得がいかず、唇を噛んでいた。

 澪は心の底で、あかりの変化に気づきつつあった。

 さらとひまりは達成感に満ちていたが、内心では順位を気にしていた。

 そして――かりは、一つ深く息を吸った。


 (やれるだけのことはやった。……結果はどうあれ、悔いはない)


 その瞳には、ひとつの確かな決意の色が宿っていた。



***


 夕暮れの講師室。選抜試験がすべて終わった直後の講師室には、静かな緊張感が漂っていた。


 「……今年は、なかなか見応えのある面子が揃ってたわね」


 そう口火を切ったのは、日舞講師の藤代瑞月だった。

 白い湯呑を手にしながら、成績票に目を通している。


 「特に鷹宮あかり。日舞の表現力が格段に上がっていた。あれは努力の証ね」


 「わたしもそう思います」霧島要が静かに応じる。


 「声楽の試験でも、確かに音の乗せ方が変わっていました。感情の流れを感じましたね」


 玲奈は机の上に手を組み、何も言わずにただ頷いた。

 藤代がふと問いかける。


 「如月先生、あなたのクラスの鷹宮さん……最近、急に変わったと思いませんか?」


 「……ええ」玲奈は少し間を置いた。


 「でもそれは、あの子が本来持っていたものが、やっと外に出始めたということだと思っています」


 その視線は、どこか遠くを見るように、深く静かだった。

 霧島が新しい紙に目を移しながら言った。


 「紫堂エリカも当然、優秀でした。ただ……演技だけは少し気になりますね」


 「完成されすぎていて、何も入ってこないのよね」瑞月が眉をひそめる。


 「役を演じているだけで、生きてはいないの」


 一方で澪についての意見も割れた。


 「美しい。表情だけで観客の心を奪える天性の絵画。でも、あれはまだ彫像なのよね。動かない」


 と玲奈が言えば、


 「ただ、あの子の演技には何か深い哀しみがある。あれを掘り下げれば、恐ろしいほどの表現者になるかもしれない」と霧島は評価した。


 最後に話題に上がったのは、選抜合格者の選定だった。

 講師陣の目が、それぞれの用紙に集まり、静かな時間が流れる。

 そして──数分後。

 数人の名が、合格者名簿に記されていった。

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