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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
61/140

61:甘く揺れる心

 廊下の壁に取りつけられた照明が、淡く長く影を引く。

 夜の講師棟は、まるで劇場の舞台裏のようにひっそりと静まりかえっていた。

 鷹宮あかりは、ひとり、その廊下を歩いていた。

 選抜試験の前夜。

 迷いはなかった。……いや、正確には、迷いを振り切った、のだ。


 エリカに、ゆらに、追いつきたい。玲奈や霧島先生のような「本物」に学びたい。

 それでも、どうしても会っておきたかった。今の自分をここまで引き上げてくれた、あの人に――。


 あかりの指先が、講師棟五階の一番奥。

 重厚な木の扉をノックする。


 「……入りなさい」


 中から聖子の声がした。

 低く、柔らかで、どこか絹のように甘い声音。

 ゆっくりと扉を開けると、そこは以前と同じ、香水と静かな音楽の漂う秘密のような空間だった。


 「……こんばんは、宝生先生」


 「あら、鷹宮。来てくれると思っていたわ」


 変わらぬ笑みで、ソファに腰かけた聖子が、優雅に手を差し伸べる。

 誘われるように、あかりはその手の先に腰を下ろす。

 しばしの沈黙のあと、あかりは膝の上で手を重ね、視線を落としたまま呟いた。


 「明日……選抜試験、受けます。申し込みました」


 「ええ、聞いたわ」


 「……先生には、ちゃんと、言わなきゃって思ってました」


 聖子は何も言わなかった。

 ただ、あかりの髪にふわりと手を添え、その頬にそっと触れた。


 「今まで……たくさん教えてくださって、ありがとうございました」


 その言葉に、聖子は細く目を細めた。


 「礼なんていらないわ。私はただ、あなたが美しくなる瞬間を見たかっただけ」

 

 「でも……私、先生のレッスンで、演じることが、少しだけわかった気がして」

 

 「……わかった、だけ? ふふ。そんなものなのね、玲奈の“優等生”たちは」


 「……」


 聖子の指が、あかりの首筋にすべる。

 その触れ方はまるで、そこに宿る声を探るようでもあり――その奥にある熱を試すようでもあった。


 「あなたの中には、まだまだ、誰も気づいていない炎があるわ。あなたも気づいていないかもしれない……でも私は、知っている」


 囁くような声が、あかりの耳元に染み込む。


 「だから……もし、明日、選ばれなくても……また、いらっしゃい」


 その言葉に、あかりの胸がぎゅっと締めつけられた。


(選ばれなかったら……また、この部屋に来ればいい……?)


 その予感は、なぜか怖くて、でも甘かった。

 聖子の香りが、目の奥に残る。


 「……おやすみなさい、先生」


 立ち上がろうとしたあかりの手を、聖子が軽く握る。


 「頑張ってらっしゃい。明日はあなたの舞台。たとえ目立たなくても、あなたの魂が光れば、誰かがきっと見ているわ」


 「……はい」


 扉を閉じてからも、あかりはしばらく立ち尽くした。

 月のない夜。

 講師棟の冷たい廊下を歩きながら、心の奥で自分の中の何かが音を立てて目を覚ましていくのを感じていた。

 選抜試験の朝は、もうすぐそこまで来ていた。



***


 講師棟の五階の一番奥。

 その扉が静かに閉まると、薄暗い廊下にあかりの細い影が伸びた。


(誰にも……見られなかった、よね……)


 白い手が、廊下の壁をそっとなぞる。

 心臓はまだ、つい先ほどの聖子の熱をそのまま刻むように脈打っていた。


(……明日、なのに。わたし、何してるんだろ……)


 階段の手すりに手をかけ、あかりは足音を殺して四階への踊り場を下りかけた──そのとき。


 「……鷹宮」


 張りつめた空気を裂くように、階下からの声があかりを呼び止めた。

 ぎくりとして振り返ると、階段の影から現れたのは、演技の講師──如月玲奈だった。

 階段に斜めに落ちる非常灯の明かりが、玲奈の長い髪に静かに反射している。


 「……先生……」


 あかりは思わず言葉を詰まらせた。

 玲奈の瞳が、何かを見透かすように自分をじっと見ているのがわかった。


 「こんな時間に、ここで何を?」


 その声音は静かだったが、問いそのものに熱がこもっていた。


 「……あの……」


(嘘は、つけない。けど、全部は言えない)


 あかりの喉が、乾くように詰まった。

 その様子を見て、玲奈はふと視線を逸らす。そしてため息のように言葉を零した。


 「……宝生先生の部屋、だったんでしょう?」


 その一言に、あかりの背筋が震えた。


 「……どうして……」


 「廊下に残っていた香りと……あなたの目」


 玲奈の目は、今は柔らかかった。

 けれど、その奥にある感情の渦が、あかりには見えた気がした。


 「演技指導?それとも……」


 「……先生に、お礼を言いに行ったんです。これまで演技を教えてもらって、感謝してて……」

 

 玲奈は答えを促さず、黙って聞いていた。

 あかりの言葉は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。


 「……でも、選抜試験は受けるんですね」


 玲奈の問いではなく、確認だった。


 「……はい」


 それに答えたあかりの声は、かすかに震えていたが、確かだった。

 玲奈は数秒、黙ってあかりを見つめていた。その後、ゆっくりと階段を上がってくると、あかりの隣に立ち、目線を合わせる。


 「……あなたの中に、火があるのは知ってる。だから選抜試験に申し込んでくれて……少し安心したわ」


 「先生……」


 「でも、ひとつだけ覚えておいて」


 玲奈は静かに微笑んだ。

 けれど、それはどこか痛みを含んだ微笑だった。


 「誰かの腕の中で覚えた感情だけで、舞台に立ち続けることはできない。

 それは演技じゃない。演技は、あなた自身の人生から生まれるものよ」


 言葉があかりの胸に、重く、深く沈んだ。

 玲奈はそれ以上何も言わず、そっと階段を背にして去った。


**


(……やっぱり、聖子の部屋だったわね)

 

 講師棟の奥からそっと出てきたあかりの頬はわずかに紅潮し、目にはまだ熱が残っていた。

 手の先が、何かに触れていた余韻を、無意識に覚えているようだった。


(演技のレッスン……だけじゃないわね)


 玲奈は静かに目を伏せた。

 何かを責めるでも、否定するでもなく──ただ、確かに胸がざわつくのを感じていた。


(あの子は、あの年齢で、もう熱を覚えてしまった)


 それは羨望でも、懸念でも、恐れでもある。


(でも――それでも、選抜試験を受けることを選んだ)


 その事実が、ただただ嬉しかった。

 玲奈はあかりの迷いも、揺れも、矛盾も全部知っている。

 あの子が舞台で生きたいと願っていることを、心の底から信じていた。


(あとは……引き戻されないことを祈るだけ)


 玲奈は階段を下りるあかりの背中に、静かに手を重ねるような思いで目を閉じた。


**


 講師棟五階の一番奥の部屋。

 薄闇の中、まだあかりの残り香が漂っている。

 聖子は、窓辺に立ち、夜の風を受けながらグラスを唇に運んだ。

 琥珀色の液体が、喉をすべり落ちる。


(ふふ……かわいい子)


 あかりの手。

 あかりの熱。

 そしてあのまっすぐな瞳。


(……こんなに、あっという間に育つなんて)


 聖子の目が、わずかに細められる。

 指先が、さきほどあかりの髪に触れた感触を追うように頬をなぞった。


(それでも、選抜試験を受けるというのね)


 聖子は面白くて、たまらなかった。


 「舞台に立つには、理性も努力も必要。でも……舞台に生き残るには、それだけじゃ足りない」


 グラスを窓辺に置く。


(あの子はきっと……まだ知らないのね。心を乱すほどの、誰かの目に焼きつくような熱を)


 玲奈の言葉も、指導も、まっすぐで理想的で、正しい。

 でも、舞台の上で人の心を奪うのは、時にもっと泥くて、もっと危ういものだと──


 「……私のほうを選ぶ日が来るかしら」


 誰に言うでもなく、聖子は天井を仰いだ。

 その目は、暗闇の中で、静かに輝いていた。


(ねぇ、鷹宮あかり。あなたはどこまで、自分を燃やせる?)


 聖子の唇が妖艶に笑った。

 その夜、講師棟の最奥の部屋には、冷たい風と、熱を帯びた沈黙だけが、長く残っていた。

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