60:あかりの選択
朝の空気は、どこかひんやりとしていた。
陽はすでに昇っていたが、厚い雲が空を覆い、まだ世界は白くぼやけている。
それでも校舎の時計の針は、容赦なく時間を刻む。
寮の一室。そのベッドの上で、鷹宮あかりは目を覚ました。
いつもより少しだけ早く目が覚めたのに、体は重たかった。昨夜、遅くまで考えすぎてしまったからだろう。ぼんやりと天井を見上げながら、あかりは深く息を吸った。
(……決めなきゃ)
頭の中で、昨夜の思考が静かに再生される。
妖艶で甘く、危うい魅力を放つ宝生聖子。
あの人の指導を受けることに、心が大きく揺れたのは確かだった。
何より、聖子の指導によって、自分の演技に変化が起きたのも事実だった。
けれど――それだけじゃ足りない。
あかりは体を起こし、窓際に置かれたカップに水を注いで口に含んだ。
冷たい水が喉を通ると、不思議と頭も冴えていく。
思い浮かぶのは、入学試験の日。
自分では「ぎりぎり」だと思っていたあの日、合格を勝ち取れたのは――如月玲奈の「可能性を見抜く眼」があったからだった。
そして、声楽。補習で霧島要に教わった発声や呼吸の技術で、確実に成績が上がったことも忘れられない。
(私は、もっとちゃんと上に行きたい)
その思いが、胸の奥からこみ上げる。
文化祭――ロミオとジュリエット――。
エリカの圧倒的な存在感、ゆらの美しく緻密な演技。さらの立ち姿の可憐さ、颯真の正確な演技力。
(あの中にいて、私はただの衛兵だった)
誰が悪いわけでもない。でも、それでも。
自分はもっと、やれるはずだ。やりたいのだ。ただ惹かれているだけでは、何も変わらない。
今、自分が立っている場所は、上位とはほど遠い。下から這い上がるしかない。
だから――
「私は……選抜試験を受ける」
誰に言うでもなく、あかりは小さく口にした。その声は震えていなかった。決意の輪郭が、ようやくはっきりと浮かび上がったのだ。
カーテンの向こうから差し込む薄曇りの朝陽が、あかりの横顔を照らす。
その光の中で、ベッドの向かいに座っていた澪が静かに、あかりを見つめていた。
「澪……起きてたんだ」
あかりが気づいてそう言うと、澪はただ、かすかに頷いた。
「……決めたんだね」
「うん。私は選抜試験を受ける。今は、成績を総合的に上げたい。もっと強くなりたいの。……聖子先生のこと、気にならないわけじゃないけど」
澪は、言葉を返さなかった。
ただその目は、どこか静かで、少しだけ寂しげで、そして――あたたかかった。
「……わかってる。今のままじゃ、私、エリカやゆらに追いつけない」
あかりのその言葉には、悔しさと、焦りと、願いが入り混じっていた。
やがて、澪はそっとベッドから立ち上がり、窓のそばへと歩いていった。
細くしなやかなシルエットが、朝の薄明かりの中で浮かび上がる。その背中に、どこか影が落ちて見えたのは、あかりが気づかない、ほんの一瞬のことだった。
「……がんばってね、あかり」
それだけを言って、澪はまた、ゆっくりとカーテンを閉めた。
新たな朝。
新たな選択。
そして、新たな戦いの始まり。
あかりは制服に袖を通し、鏡の前に立った。目の奥に、少しだけ強さが宿っている気がした。心はまだ揺れているけれど、確かに、一歩を踏み出せた。そんな予感が、あかりの胸にあった。
***
昼下がりの講師棟の講師室。
午後の光がカーテン越しに淡く差し込む講師室では、試験用の書類整理が進められていた。
「――選抜レッスンの申込、出揃ったようだね」
声を上げたのは声楽担当、霧島要だった。
いつもの細身のスーツに身を包み、申込者一覧に目を通していた。
「1年生は多いわね。今年から1年生も受けられるようになったからかしら」
そう言って一覧を覗き込むのは、日舞担当の藤代瑞月。
「……ふふ」
その場から少し離れたソファに座っていたのは、合唱・演技指導補佐の宝生聖子だった。
脚を優雅に組み、手元の紅茶を揺らしながら、ゆるやかに微笑んでいる。
「宝生先生、なにが可笑しいんですか?」
霧島が眉をひそめる。
「いいえ、なにも。ただ、あの子も、そっちへ行くのねと思っただけ」
その言葉に、近くの書棚に背を向けていた如月玲奈が、静かに振り返る。
「鷹宮あかりのこと?」
聖子は答えず、意味深な笑みだけを浮かべる。
玲奈は目を伏せながら呟いた。
(よかった……あの子があのまま聖子に引き寄せられてしまうかと思った)
ふと、玲奈の視線が横に向く。
そこにいる聖子の横顔は、柔らかく笑っていた。だが、その笑みにどこか艶やかな毒が宿っていた。
聖子の目が、掲示板の向こう側――見えない一点を見つめている。
(舞台へ行くのは、まだ早いと思ったのだけどね。もう少し、私だけの舞台で育てたかった)
そんな独り言が、聖子の美しい心の奥底から、ふと滲み出すようだった。
玲奈はその気配を敏感に察していた。
(……何を考えているの、宝生聖子)
以前、自分があかりを入学試験で推したときから、宝生は彼女に興味を示していた。
その興味が、ただの指導者としてのものなのか、それとももっと深い、支配や欲望に近いものなのか――。
玲奈はまだ確信を持てずにいた。
「宝生先生」
意識せず、名前を呼んでいた。
「ええ?」
聖子はいつも通り、妖艶な笑みのまま玲奈を見た。
「あなた……あの子に、なにを教えてるの?」
「演技よ。ほかに何があるというの?」
「……それだけなら、いいけど」
「ふふ、如月先生こそ、ずいぶんと気にしているのね。生徒の選択に、口を出すなんて」
聖子はグラスの紅茶を口に含み、喉をゆるやかに鳴らした。
その仕草のひとつひとつが、まるで誰かを誘うように緩慢で、確信に満ちている。
玲奈は、言葉を呑んだ。
(あの子を守りたい。でも……)
講師としての立場では、あかり自身の選択を尊重するしかない。
そしてあかりは、自分の足で、選抜試験という道を選んだのだ。玲奈は再び申込用紙を見つめた。
その中の一枚に、しっかりと書かれていた“鷹宮あかり”の文字。
その名前の筆跡に、確かな決意が込められていることを、彼女は感じ取っていた。
(なら、私は……その選択に、全力で応えるまで)
玲奈は目を閉じた。
その横で、聖子は静かに微笑みながら、窓の外へ視線を移した。
差し込む光のなか、彼女の瞳だけが、どこまでも深く、そして妖しく輝いていた。




