表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
60/140

60:あかりの選択

 朝の空気は、どこかひんやりとしていた。

 陽はすでに昇っていたが、厚い雲が空を覆い、まだ世界は白くぼやけている。

 それでも校舎の時計の針は、容赦なく時間を刻む。


 寮の一室。そのベッドの上で、鷹宮あかりは目を覚ました。

 いつもより少しだけ早く目が覚めたのに、体は重たかった。昨夜、遅くまで考えすぎてしまったからだろう。ぼんやりと天井を見上げながら、あかりは深く息を吸った。


(……決めなきゃ)


 頭の中で、昨夜の思考が静かに再生される。

 妖艶で甘く、危うい魅力を放つ宝生聖子。

 あの人の指導を受けることに、心が大きく揺れたのは確かだった。

 何より、聖子の指導によって、自分の演技に変化が起きたのも事実だった。


 けれど――それだけじゃ足りない。


 あかりは体を起こし、窓際に置かれたカップに水を注いで口に含んだ。

 冷たい水が喉を通ると、不思議と頭も冴えていく。


 思い浮かぶのは、入学試験の日。

 自分では「ぎりぎり」だと思っていたあの日、合格を勝ち取れたのは――如月玲奈の「可能性を見抜く眼」があったからだった。

 そして、声楽。補習で霧島要に教わった発声や呼吸の技術で、確実に成績が上がったことも忘れられない。


(私は、もっとちゃんと上に行きたい)


 その思いが、胸の奥からこみ上げる。

 文化祭――ロミオとジュリエット――。

 エリカの圧倒的な存在感、ゆらの美しく緻密な演技。さらの立ち姿の可憐さ、颯真の正確な演技力。


(あの中にいて、私はただの衛兵だった)


 誰が悪いわけでもない。でも、それでも。

 自分はもっと、やれるはずだ。やりたいのだ。ただ惹かれているだけでは、何も変わらない。

 今、自分が立っている場所は、上位とはほど遠い。下から這い上がるしかない。


 だから――


 「私は……選抜試験を受ける」


 誰に言うでもなく、あかりは小さく口にした。その声は震えていなかった。決意の輪郭が、ようやくはっきりと浮かび上がったのだ。

 カーテンの向こうから差し込む薄曇りの朝陽が、あかりの横顔を照らす。

 その光の中で、ベッドの向かいに座っていた澪が静かに、あかりを見つめていた。


 「澪……起きてたんだ」


 あかりが気づいてそう言うと、澪はただ、かすかに頷いた。


 「……決めたんだね」


 「うん。私は選抜試験を受ける。今は、成績を総合的に上げたい。もっと強くなりたいの。……聖子先生のこと、気にならないわけじゃないけど」


 澪は、言葉を返さなかった。

 ただその目は、どこか静かで、少しだけ寂しげで、そして――あたたかかった。


 「……わかってる。今のままじゃ、私、エリカやゆらに追いつけない」


 あかりのその言葉には、悔しさと、焦りと、願いが入り混じっていた。

 やがて、澪はそっとベッドから立ち上がり、窓のそばへと歩いていった。

 細くしなやかなシルエットが、朝の薄明かりの中で浮かび上がる。その背中に、どこか影が落ちて見えたのは、あかりが気づかない、ほんの一瞬のことだった。


 「……がんばってね、あかり」


 それだけを言って、澪はまた、ゆっくりとカーテンを閉めた。


 新たな朝。

 新たな選択。

 そして、新たな戦いの始まり。


 あかりは制服に袖を通し、鏡の前に立った。目の奥に、少しだけ強さが宿っている気がした。心はまだ揺れているけれど、確かに、一歩を踏み出せた。そんな予感が、あかりの胸にあった。



***


 昼下がりの講師棟の講師室。

 午後の光がカーテン越しに淡く差し込む講師室では、試験用の書類整理が進められていた。


 「――選抜レッスンの申込、出揃ったようだね」


 声を上げたのは声楽担当、霧島要だった。

 いつもの細身のスーツに身を包み、申込者一覧に目を通していた。


 「1年生は多いわね。今年から1年生も受けられるようになったからかしら」


 そう言って一覧を覗き込むのは、日舞担当の藤代瑞月。


 「……ふふ」


 その場から少し離れたソファに座っていたのは、合唱・演技指導補佐の宝生聖子だった。

 脚を優雅に組み、手元の紅茶を揺らしながら、ゆるやかに微笑んでいる。


 「宝生先生、なにが可笑しいんですか?」


 霧島が眉をひそめる。


 「いいえ、なにも。ただ、あの子も、そっちへ行くのねと思っただけ」


 その言葉に、近くの書棚に背を向けていた如月玲奈が、静かに振り返る。


 「鷹宮あかりのこと?」


 聖子は答えず、意味深な笑みだけを浮かべる。

 玲奈は目を伏せながら呟いた。


(よかった……あの子があのまま聖子に引き寄せられてしまうかと思った)


 ふと、玲奈の視線が横に向く。

 そこにいる聖子の横顔は、柔らかく笑っていた。だが、その笑みにどこか艶やかな毒が宿っていた。

 聖子の目が、掲示板の向こう側――見えない一点を見つめている。


 (舞台へ行くのは、まだ早いと思ったのだけどね。もう少し、私だけの舞台で育てたかった)


 そんな独り言が、聖子の美しい心の奥底から、ふと滲み出すようだった。

 玲奈はその気配を敏感に察していた。


(……何を考えているの、宝生聖子)


 以前、自分があかりを入学試験で推したときから、宝生は彼女に興味を示していた。

 その興味が、ただの指導者としてのものなのか、それとももっと深い、支配や欲望に近いものなのか――。

 玲奈はまだ確信を持てずにいた。


 「宝生先生」


 意識せず、名前を呼んでいた。


 「ええ?」


 聖子はいつも通り、妖艶な笑みのまま玲奈を見た。


 「あなた……あの子に、なにを教えてるの?」


 「演技よ。ほかに何があるというの?」


 「……それだけなら、いいけど」


 「ふふ、如月先生こそ、ずいぶんと気にしているのね。生徒の選択に、口を出すなんて」


 聖子はグラスの紅茶を口に含み、喉をゆるやかに鳴らした。

 その仕草のひとつひとつが、まるで誰かを誘うように緩慢で、確信に満ちている。

 玲奈は、言葉を呑んだ。


(あの子を守りたい。でも……)


 講師としての立場では、あかり自身の選択を尊重するしかない。

 そしてあかりは、自分の足で、選抜試験という道を選んだのだ。玲奈は再び申込用紙を見つめた。

 その中の一枚に、しっかりと書かれていた“鷹宮あかり”の文字。

 その名前の筆跡に、確かな決意が込められていることを、彼女は感じ取っていた。


(なら、私は……その選択に、全力で応えるまで)


 玲奈は目を閉じた。

 その横で、聖子は静かに微笑みながら、窓の外へ視線を移した。

 差し込む光のなか、彼女の瞳だけが、どこまでも深く、そして妖しく輝いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ