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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
56/140

56:文化祭とエリカとゆらの背中

【文化祭当日・天翔専門学校寮】


 朝の寮と、舞台の幕が上がる前。

 寮の窓の外には、まだ淡い薄紅色の朝焼けが滲んでいた。

 鷹宮あかりは、その色の向こうに今日という日が待っていることを思いながら、静かにベッドの中で目を開けていた。


 眠れなかった。

 何度も寝返りを打ち、夢も浅く、明け方には目を閉じることすら忘れていた。

 胸の奥がずっとざわついていた。自分に与えられたのは、台詞がたった一言の衛兵2の役。それでも今日の舞台は、これまでの全ての努力が試される日だった。


 廊下ではすでに、身支度を整えた生徒たちの足音が響き始めている。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、少しずつ部屋の空気を温めていく。

 同室の澪はすでに起きていて、身支度を進めていた。


 「あかり、朝ごはん、食べる?」


 鏡の前で髪を結っていた澪が、やわらかな声で振り向く。

 その表情にはいつも通りの静けさがあったが、どこか緊張の色も混ざっていた。


 「うん……ちょっと、食べておかないと」


 あかりはベッドから身体を起こしながら小さく返事をする。

 鏡に映った自分の顔は、どこかむくんでいて、目元には疲れがにじんでいた。でも、それがどうした――と、自分に言い聞かせて、制服に着替えた。


 食堂ではすでに数名の生徒たちが朝食を囲んでいた。

 普段はにぎやかな水城ひまりも、今日は静かにトーストをかじっている。

 橘颯真は無言でコーヒーを口にし、一ノ瀬ゆらは何度も台詞を小声で確認していた。

 それぞれの表情に、言葉にはできない緊張感が宿っている。


 「……緊張してるの、私だけじゃないんだね」


 あかりは心の中で、そう思ってほっとする。

 と同時に、改めて自分もこの舞台の一員なのだと、背筋が伸びた。



***


 本番前。

 楽屋の扉が開くと、そこには戦場のような光景が広がっていた。

 衣装が次々に運び込まれ、ヘアメイク担当の2年生たちが慌ただしく手を動かしている。

 リハーサルを終えた照明や音響のスタッフが、最終確認の声を上げ、舞台監督が進行スケジュールを読み上げる。


 「紫堂エリカ、衣装合わせ入ります!」


 呼ばれたエリカは、張り詰めたような表情でメイク椅子に腰を下ろした。

 ジュリエット役の一ノ瀬ゆらは、静かに深呼吸をしながら、胸元の台詞カードを見つめている。

 彼女たちの周囲には自然と距離が生まれ、誰もがその空気を乱すことを避けていた。


 「……じゃあ、あたしはこのまま髪結ってもらおうかな」


 澪は、長く艶やかな黒髪をすでにポニーテールにまとめており、凛とした立ち姿で衣装係に指示を受けていた。


「緊張、してる?」


 澪が静かにあかりにたずねた。

 あかりは、小さく笑って答える。


 「……うん。してる。でも、なんだか楽しみでもあるんだ」


 その笑みに、澪もわずかに口元を緩める。

 

「わかるよ。私も、そう」


 そんな二人のやりとりの向こうで、大河とひまりが小道具の最終確認をしている。


 「この剣、ちょっとバランス悪くない?」


 「えー、今さら直すの!? まって、接着剤どこ置いたっけ!」


 騒がしくも懸命な姿に、周囲にいる生徒たちの緊張が少しだけ和らいでいく。

 あかりは、その様子を見ながら、自分の手のひらを見つめた。

 小さな役だ。でも、この舞台の一部になれることが、嬉しかった。


(――もうすぐ、幕が上がる)


 楽屋の時計の針が、静かに開演の時刻へと進んでいた。



***


 開演五分前。

 舞台袖には、緊張と集中が織り交ざった空気が張りつめていた。

 照明スタッフが最終確認のために動き回り、舞台監督の短い指示の声が飛ぶ。

 一番下級生である1年生たちの演目「ロミオとジュリエット」。

 彼女たちにとって、舞台での初めての本番だった。


 袖で待機する紫堂エリカは、張りつめた表情をしていた。

 衣装に身を包んだ彼女は、まさに貴族の若者ロミオそのもので、目の奥には覚悟の光が宿っていた。その隣では、ジュリエット役の一ノ瀬ゆらが静かに呼吸を整えている。

 「……よし」エリカが小さくつぶやいた。


**


 開演のベルが劇場内に静かに響く。

 客席のざわめきがぴたりと止まり、観客たちの視線が舞台へと集中する。

 やがて照明が落ち、序曲が鳴り始める。


 開幕のシーン――賑やかな街の喧騒と、家同士の抗争。

 舞台に登場する生徒たちの中には、あかりや澪の姿もあった。

 彼女たちはわずかな出番の中でも、自分の存在を舞台に刻み込むように、

 一歩ごとの立ち位置や目線まで、繊細に意識していた。


 そして、場面は変わる。


 マスカレード舞踏会の夜。

 ロミオとジュリエットが出会い、運命に導かれるように惹かれ合う――そう、すべての悲劇は、ここから始まった。


 ロミオが舞踏会の中で彼女に惹かれる場面では、エリカの目の奥に宿る火が一層濃くなる。

 そこに佇むゆらもまた、柔らかな声と、芯のあるまなざしでジュリエットという存在を丁寧に描いていった。

 二人が見つめ合う場面、エリカの声が震えそうになった瞬間があった。

 しかしその震えすら、ロミオの高ぶる心として観客に伝わった。


 「君は……天使か、夢か……」


 台詞が落ちるたびに、静かな緊張が劇場に満ちていく。

 エリカは心の底で思った。


(まだだ、もっと、もっと高く……)


 その夜の後。

 ジュリエットが自室のバルコニーに現れる。

 舞台の照明がぐっと落ち、ただひとつ、二階のバルコニーを模したセットに光が差す。そこに立つのは、ジュリエット――一ノ瀬ゆら。

 ゆらは、深紅のドレスに身を包み、月光に照らされるように舞台に立っていた。

 黒髪を柔らかく巻き、繊細なレースの袖が、彼女のか細い腕を一層白く浮かび上がらせる。

 その顔は、ロミオとの出会いによる戸惑いと高揚、恋に落ちた少女の苦悩と憧れに満ちていた。


 彼女の瞳がそっと宙を見上げる。

 客席は一瞬にして静まり返る。

 そして――


 「おお、ロミオ。あなたは、なぜロミオなの……?」


 その声は驚くほど静かだった。

 囁くようで、けれど劇場の隅々にまで届く透明な響き。


 「ロミオ、あなたはどうしてロミオなの……?

 モンタギューの名前を捨てて、ただの“あなた”になってくれたら……

 名前なんて、何になろうと関係ないのに……」


 その台詞は、ただ台詞としてではなく、ゆらの中から溢れ出る言葉として舞台を包んだ。

 その瞬間、舞台袖で見守っていた鷹宮あかりは、思わず息を飲んだ。

 それは自分にはまだ到底届かない演じるという領域だった。


(ジュリエットが……生きてる)


 台詞ではなく、心の叫び。

 言葉ではなく、想いが紡がれている。

 舞台の魔法とは、こういうものなのかと、あかりの胸が震えた。


 袖の反対側、紫堂エリカもその演技を見つめていた。

 自分の登場はすぐそこに迫っている。

 だが、その美しさと哀しみに満ちた台詞に、胸の奥がざわめくのを感じていた。


(これが……ゆらのジュリエット)


 完璧な立ち姿、正確な発声――模範を貫いてきたエリカが、思わず息を止めるほどの魂のこもった台詞。

 彼女の中のロミオが、ほんの一瞬だけ、揺れた。


(……負けられない)


 静かに、拳を握る。


**


 そして舞台が中盤に差しかかるころ――あかりの出番が訪れた。

 舞台の端、門番として立つ「衛兵2」。

 台詞は一言だけ。


 「……そこまでだ!」


 その短い一言のために、あかりはすべての力を込めた。

 声に、息に、足の運びに、表情の揺らぎに。

 そして、台詞を発する以外の時間――誰の目にも映らぬ場面でも、あかりは舞台の空気の中で生きていた。


 動かぬその姿勢、剣を握る手の力加減、目線の移動。

 舞台に立つすべての瞬間を、彼女は「鷹宮あかり」ではなく「キャピュレット家の衛兵」として過ごした。


 舞台袖からそれを見つめていた講師の如月玲奈は、ふと息を止めていた。

 台詞一言のために、ここまで徹する姿。

 それはきっと、本当に舞台を愛している者だけが持てる覚悟だ。


**

 

 舞台はやがて、ふたりの再会へと進み――手を取り合い、未来を誓いながらも、

 やがて悲劇へと転がり落ちていく。


 舞台はクライマックスに向かって進んでいく。

 ジュリエットの死を前に、ロミオが涙を流すシーン。

 エリカの演技は、演出に忠実で、模範的だった。

 しかしその瞳の奥に、どこか届き切らない焦燥が漂っていた。

 完璧にこなした、それでもなお、「届いていない」と自分で感じていた。


 死にゆくロミオと、目覚めたジュリエット――最後、ゆらがエリカの頬に涙を落としながら崩れ落ちたその瞬間、客席に、深い沈黙が訪れた。


 そして――幕が、下りる。


 静寂が、数秒ののちに拍手へと変わる。

 その拍手は、まだ未熟な1年生たちの精一杯の舞台をたたえる、あたたかなものだった。


**


 舞台袖では、あかりが立ち尽くしていた。

 幕が下りたのに、まだ心がその舞台の上にあった。


 そして――その背後から、そっと声がかけられる。


 「鷹宮もよくがんばった」


 振り返ると、そこにいたのは如月玲奈だった。

 静かに、けれど深いまなざしであかりを見ていた。


 「……ありがとうございます」


 小さく頭を下げたあかりの胸の中には、台詞が一言でも、舞台の一員でいられた喜びが、確かに残っていた。

 けれど、同時に、ロミオとジュリエットを演じたゆらとエリカの背中が、遠くに感じられた。

 次は、もっと近づきたい。

 そう、あかりの胸に小さく、火が灯っていた。

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