55:差し入れ
翌朝――朝霧がまだ校庭の隅に残っていた。
夏が近づいてきているというのに、どこか肌寒さの残る朝だった。
如月玲奈はいつも通り、講師棟の洗面台で整える。
鏡に映る自分の表情は、昨夜よりもいくらか穏やかだった。けれどその目の奥にある光は、いつもより深く沈んでいる。
(あのふたり……)
心のどこかで繰り返すその言葉に、玲奈はそっと瞼を閉じた。
一方その頃、寮の一室――あかりは布団の中で目を開けた。
夢は見ていなかった。
けれど、どこか胸がざわつく。
昨夜の、月のない教室。
澪と交わした、あの言葉、あの台詞、あの呼吸。
――“ジュリエット、君がそこにいるだけで、世界は美しい”。
台本の一節。だが、確かにそこには“自分たちだけの何か”が存在していた。
(……変な感じ)
なぜか胸が熱くなる。
けれどその熱の正体が、自分の高揚なのか、誰かへの感情なのか、まだわからない。
「おはよう、あかり」
穏やかな声に、顔を上げると澪が洗面を終えて戻ってきていた。
澪の黒髪は濡れて、少しだけ額に張りついている。
まだ制服には着替えておらず、白い部屋着のまま。
「……澪」
「寝不足?」
「ううん。……ただ、昨日のことを思い出してただけ」
あかりは小さく笑った。それは強がりにも見えたし、どこか幸せそうでもあった。
澪も、わずかに目を伏せて「私も」と呟いた。それ以上、何も言葉は交わされなかったけれど、あの夜に確かに心が交わったことを、ふたりは胸の奥で理解していた。
朝食の時間――
食堂ではすでに、水瀬大河と結城さら、橘颯真が揃っていた。
水城ひまりが遅れてパンを抱えて合流し、にぎやかな朝が始まる。
「今日はバレエの実技か……」と、大河が小さくうなると、颯真が「背筋、のばしとかないとね」と笑う。
「それより、ゆうべのこと、知ってる?」
さらがふと口を開いた。
「ロミオとジュリエットの練習を……夜に、誰かしてたって」
そう言って、さらはちらりとあかりと澪を見る。
「……そうなんだ」
さらの視線を感じながらも、あかりは知らないふりをした。
澪は何も言わず、ただ静かにお茶を飲んでいた。
その目の奥に宿る光を、エリカが遠くから見つめていた。
そして――
各教室へ向かう廊下。
玲奈は、すれ違う生徒たちに短く目をやりながら、歩いていた。
誰も知らない。
昨夜、自分が何を見て、何を思ったのかを。だが、今日の授業もまた、彼女にとって試練になる予感があった。
育つ芽を信じることと、見極めること――そのどちらも、舞台に立つ人間には必要なのだ。
(あなたたちは、どこまで行ける?)
心のなかで誰にともなく問いかけながら、玲奈は教室のドアを開いた。
――次の幕が、また始まる。
***
【 放課後 ・文化祭練習】
午後の稽古が一段落し、稽古場にはほんのひとときの静けさが流れていた。
柔らかな陽がカーテン越しに差し込み、積まれた台本や小道具の影が長く床に落ちている。
そんな中、校舎の入り口から、制服姿の二年生のスター候補たちが現れた。
「お疲れさま、一年生のみなさん」
先に声を掛けたのは、長身で凛とした雰囲気を纏う嶺山奏だった。
端整な顔立ちに切れ長の瞳。男役としての存在感に加え、どこか中性的な魅力が際立っている。成績は常に3位以内を維持し、実力派のスター候補として名を馳せていた。
その隣に立つのは、肌の白さが際立つ繊細な美貌の持ち主――御堂しずく。
長い黒髪をゆるく巻き、優雅に微笑んでいる。名門の家に育ち、礼儀と品格を叩き込まれてきた彼女は、まるで舞台から抜け出してきたようだった。
「頑張ってるって、うわさを聞いたの。差し入れよ」
そう言ってしずくが手にしていたのは、紙袋に入ったたくさんの栄養補助ドリンクと、甘い焼き菓子。
「え……すごい、ありがとうございますっ」
「二年生、やさしすぎる……!」
一年生たちは歓声を上げ、思わず手を叩いて喜んだ。少し緊張した様子で、主役の紫堂エリカも立ち上がって頭を下げる。
「ありがとうございます……嶺山さん。わざわざ……恐縮です」
エリカの声は、どこか固くなっていた。目の前にいるのは、自分がこれから越えていかなければならない、憧れと恐れが混ざり合った存在。
しかし、奏は優しく目を細めると、言った。
「君のロミオ、楽しみにしてる。焦らなくていい、自分の色で演じな」
エリカは驚いたように目を見開いたが、すぐに口元を引き締めて深く頷いた。
(……自分の色、か)
その言葉が、胸の奥にすとんと落ちる。
一方、奏はちらりと視線を動かし、少し離れた隅で小道具作りに集中している鷹宮あかりの姿を見つけた。
ハケや筆、糊や紙に囲まれて、制服の袖をまくったあかりは、真剣な目で布を裁断している。しかし奏は、何も言わず、その場から視線を外した。
すると後ろから現れた、知的な雰囲気を漂わせた一人の上級生が声を発する。
「鷹宮あかりは?」
エリカが振り返る。
そこに立っていたのは、芦原右京。
二年生の学年主席で、知性と努力でのしあがってきた実力者だ。だがその優れた才能の裏で、どこか冷たさと孤独を抱えているように見える。
「あかりは……そこの机で、小道具の作業をしてるはずです」
とエリカは答えたが、右京がなぜ彼女の名前を出すのか、その意図が読めずに首をかしげた。
(なぜ、芦原さんが鷹宮のことを?)
右京はそのまま稽古場の奥へと進み、しゃがみ込んでいるあかりの前に立った。
あかりは、不意の影に気づき、顔を上げる。
「……あ、芦原先輩……?」
「ご苦労さま。小道具、丁寧に作っているんだね」
あかりは慌てて立ち上がり、手を拭きながら頭を下げた。
「はいっ、あまり得意じゃないんですけど……精一杯やってます」
右京は少しの沈黙の後、低く静かな声で言った。
「裏方の仕事を頑張るのは素晴らしいことだね。ただ、それだけで満足してはいけない」
「……え?」
「あなたには与えられた役がある。どんなに小さな役でも、それをどう生きるかで、舞台全体の空気は変わる。あなたが舞台の隅で輝けるなら、主役はもっと輝く」
あかりはその言葉に、返す言葉を失った。
胸の奥が熱くなっていく。
右京は目を細めて、少しだけ優しい表情を見せた。
「君は、まだ自分の可能性に気づいていない。だから……しっかりと、自分を試すといい」
それだけを言い残し、右京はすっとその場を後にした。
あかりはその背中を見つめながら、手の中に握っていた布を強く握りしめた。
(……まだ、やれる。もっと、やれるはず)
舞台のどこにいても、自分らしく、誠実に、強く。
その覚悟が、心の中で静かに芽生え始めていた。




