57:終幕と打ち上げ
文化祭の幕が下りてから、数時間後。
学校の教室の一室には、いつもの机と椅子がずらされ、中央に簡易なテーブルが作られていた。
その上には、生徒たちが持ち寄ったジュースやスナック、お菓子やフルーツが並んでいる。
「おつかれさまーっ!」
「みんな最高だったね!」
歓声と拍手が飛び交い、舞台では見せなかった普段の笑顔が教室いっぱいに咲いていた。
主役の紫堂エリカは、ジュースの紙コップを片手に、いつもより少し柔らかい表情を浮かべていた。
一ノ瀬ゆらはその隣で、少しだけ照れたように肩をすくめる。
「ゆら、本当にすごかったよ!」
「『おお、ロミオ…』のセリフ、鳥肌立ったもん!」
特に娘役の生徒たちからの賞賛は尽きなかった。
ゆらは控えめに笑いながら、何度も「ありがとう」と頷く。
その謙虚さもまた、彼女の魅力だった。
教室の隅では、鷹宮あかりと綾小路澪、神田麻琴が並んで座っていた。
「私たちの出番はほんの少しだったけど……」と麻琴が呟くと、あかりはにっこりと笑って言った。
「でも、その一言に、全部の気持ちを込めたもんね。大切な仕事だったよ」
「……うん」
澪は少し遠くのエリカとゆらを見ながら、静かに頷いた。
あの舞台に、少しでも自分たちも関われた――その事実が、心に小さな灯をともしていた。
やがて打ち上げは終盤に差し掛かる。
空いた紙皿と紙コップを片付け始めたころ、教室の扉がゆっくりと開いた。
「……あら。まだ賑やかね」と、静かな声が響く。
如月玲奈だった。
姿勢を正したまま、教室に入ってきた玲奈に、生徒たちは自然と声を潜める。
空気がすっと張り詰めるような感覚――それは、舞台袖に立つ瞬間に似ていた。
「少しだけ、いいかしら?」
生徒たちは黙って頷いた。
玲奈は教壇の前に立ち、ひと呼吸おいてから口を開く。
「まずは……本当に、おつかれさま」
彼女の視線が、教室の一人ひとりを見渡す。
「よく、やりきったわね。今日の舞台には、あなたたちの真剣さと努力がにじんでいた」
優しい言葉に、ほっとしたような空気が流れる。
だが――
「ただし。」
その一言で、空気が引き締まった。
「セリフを言うだけが演技じゃない。動作、感情の流れ、目線、身体の角度……
すべてを使って、観客に“物語”を伝える。それを理解している子は、ほんの一握りだった」
玲奈の目がエリカへと向けられた。
「紫堂エリカ――あなたは完璧すぎた。だが、それが演技の限界にもなっている。
一つ、心を込める余地があると、もっと深く届いたはずよ」
エリカは真剣な面持ちで、静かに頷く。
そしてゆらへ――
「一ノ瀬ゆら、あなたは……“感じる力”を持っている。今のまま、自分の感性を信じて進んで」
教室にふっと、あたたかな空気が流れる。
他の生徒にもそれぞれ短い講評が続き、最後に玲奈の視線が――あかりと澪に向けられた。
玲奈は二人を、ほんのわずかだけ、長く見つめた。
「……与えられた役が小さくとも、その役に意味を与えるのは、あなたたち自身。
その意味を、ちゃんと見つけていた子がいたこと――私は見逃さなかったわ」
あかりと澪が、息を飲む。それが自分たちへの言葉だと、直感した。
玲奈はほんの僅かに微笑んだ。
そして、誰にも聞き取れないような声で、「夜の教室も、悪くなかったわね」と、二人にだけ届く言葉を落とす。
そのまま、背を向けて静かに教室を出ていく玲奈の後ろ姿を、
あかりと澪は、しばらくただ見つめていた。
あの夜――誰もいなかった教室で、自分たちだけでロミオとジュリエットを演じた夜。
それを、誰かが“見ていた”という事実が、胸の奥を温かく揺らす。
そして、
「まだ、ここからだ」
そうあかりの心には、確かな決意が芽生えていた。
――終幕と、始まりのあいだで。
***
文化祭の翌朝。
あの熱気と興奮の夜から一転して、学校全体が静けさに包まれていた。
寮の食堂に集まる一年生たちは、どこかぽかんとした表情をしていた。まるで、長く走り抜けたマラソンのゴールに辿りついたあとのような、目的を見失ったような空白。
「終わっちゃったね、文化祭……」
ひまりがパンをちぎりながらぽつりと呟く。
「夢だったみたいだよね。ほんとに、自分が舞台に立ったのかなって……」
麻琴が続ける。
あかりはスープを口に運びながら、静かに周囲を見渡した。
どの顔にも、疲れと満足と、そして名残惜しさが入り混じっていた。
「でも、まだ終わりじゃないよ」
あかりはそう言った。
「だって、2年生になったらまた、もっと大きな舞台が待ってる。
今のままで、終わりたくない……もっと上手くなりたい」
その声に、みんながふと顔を上げた。
あかりの瞳は、どこか前よりも強い光を帯びていた。
――その光の正体を、澪だけが、どこか複雑な心で見つめていた。
**
一方そのころ、講師棟。
玲奈は、いつものように自室の書棚の前に立っていた。
並べられた資料と脚本のあいだに、あかりと澪の名前が記されたメモが差し込まれている。
扉がノックされる。
「失礼するわ」
宝生聖子が、紅茶の香りをまとって現れた。
「文化祭、見ていたでしょう」
玲奈が静かに言った。
聖子は微笑む。
「ええ、もちろん。あの子――鷹宮あかり、だっけ。なかなか良かったじゃない?」
「……あなたの指導が入った?」
「さあ、どうかしら。私がちょっとおしゃべりしただけよ」
聖子は曖昧な笑みを浮かべたまま、玲奈の問いに明確な答えを返さない。
「演技は、心を晒すもの。あなたの手で導くのは結構。でも、心を歪めるような導き方はやめて」
「私はただ、本物の舞台人を育てたいだけ。玲奈、あなたと同じようにね」
二人の視線がぶつかる。
静かに火花が散る。
やがて聖子はくるりと踵を返す。
「また、そのうちお茶でもしましょう。演技について、夜通し語り合えるかもしれないわ」
そう言って部屋を去った
玲奈は、机に手を置いたまま、深く息を吐いた。
聖子の存在は、常に彼女の中に波紋を広げる。
(鷹宮あかりは――どこまで行くつもりなのか)
その問いが、今も玲奈の胸の奥に静かに燻っていた。




