45:中間試験1
目覚まし時計のベルが、いつもより少し鋭く耳に刺さった。
鷹宮あかりは、ベッドの中で小さく身体を丸めたまま、それをしばらく眺めていた。
(……いよいよ今日か)
この1週間、あれほど練習したはずなのに、気持ちは不安定なままだった。
それに、昨日の深夜の講師棟、宝生聖子の部屋での甘やかな時間。それもまた、今の自分を形作るひとつの断片であることに、まだ気持ちが追いついていない。
「おはよう、あかり」
向かいのベッドから、綾小路澪の澄んだ声が届く。
カーテン越しに差し込む朝の光が、澪の銀の髪にやわらかく触れていた。
寝起きにもかかわらず、どこか神聖な気配をまとったその姿に、あかりは少しだけ胸がざわついた。
「うん、おはよう、澪」
あかりはいつものように笑って答えたが、昨夜の夢の余韻と、今日という特別な日の緊張が、声に微かな揺れを残していた。
「準備、できたら行こう。朝食はしっかり食べておいたほうがいい」
「うん、そうだね」
ふたりは制服に袖を通し、寮の食堂へと向かった。
**
朝の食堂は、いつもより静かだった。
パンの焼ける匂いと、スープの湯気が満ちた空間に、試験前の緊張感がうっすらと漂っている。
あかりと澪は、いつもの席に着くと、ほどなくして橘颯真、結城さら、水瀬大河、一ノ瀬ゆらたちも合流した。
「……いよいよだね」
さらが口を開くと、皆がうなずいた。
「バレエに日舞に声楽に演技。やっぱり緊張するなぁ……」
大河が冗談まじりに肩をすくめる。
「でも、ここまでやってきたじゃん。自信持とうよ」
あかりが明るく言うと、さらが目を細めて微笑んだ。
「うん。私、あかりの頑張ってる姿にすごく励まされたんだ」
「え……ありがとう。うれしいよ」
あかりは少し照れくさそうに笑い、澪のほうを見た。
澪は静かにスプーンを口に運んでいたが、その目はどこか遠くを見ているようだった。
「やっぱりトップはエリカなんだろうなあ」
大河が苦笑まじりにぼそっと言う。
その言葉に、あかりは首を振る。
「誰だって一生懸命頑張ってる。誰が上でも、私たちは私たちなりにやろう。……ね?」
その言葉に、周囲の空気が少しだけ明るくなった。
さらも、ゆらも、そして颯真も――それぞれの瞳に静かな火を灯していた。
***
【中間試験 ・第一科目:バレエ】
試験用に冷やされた講堂の床に、バレエシューズの音だけが響いていた。
空調の音さえ吸い込まれそうな沈黙のなか、生徒たちはひとりずつ順番に中央へと進み、決められた課題を踊っていく。
鷹宮あかりは、緊張で手のひらに汗が滲むのを感じながら、自分の出番を待っていた。
(大丈夫、大丈夫……練習してきた。昨日も、大河と一緒に……)
そう言い聞かせても、喉は乾き、心臓の鼓動が耳の奥で騒いでいた。
「次、紫堂さん」
講師の声に、あかりは思わずそちらを見た。
エリカが静かに立ち上がり、舞台中央に進む。
その動きすら、まるで指先まで設計されたような無駄のない美しさだった。
演目は短くても内容は濃い。ターン、ポーズ、アラベスク――
彼女の動きには一切の迷いがなく、まさにカウントぴったりで空間を支配していく。
講師たちがメモを取りながら、時折うなずくのが視界の端に見えた。
(やっぱり……すごい)
あかりは、その完璧さに息を呑む。
悔しいけれど、尊敬もしていた。
「次、綾小路さん」
呼ばれた名前に、空気がまた少し変わる。
澪が静かに立ち上がり、中央に進むと、その瞬間――
空間に凜とした緊張感が生まれた。
長い手足、揺るがぬ軸、そして彫刻のように整った顔立ちが、ポジションに立つだけで観る者を引き込む。
動き始めた途端、それは“踊り”というよりも**一篇の詩のよう**だった。
重力すら忘れたような軽やかな跳躍。流れるような腕の軌道。
どの角度から見ても隙がない、美しさの塊だった。
講師のひとりが、ペンを置いてただ見入っていた。
(……やっぱり、澪は……すごいな)
その美しさに心を奪われながらも、あかりはふと、自分が“その澪と同じ舞台に立っている”という事実に、奇妙な感動を覚えた。
「次、鷹宮さん」
肩をすくめるほどの緊張が押し寄せる。
あかりは深呼吸をしてから立ち上がり、震える膝に力を込めて、舞台中央へと進んだ。
(大丈夫、大丈夫……落ち着いて)
音楽が流れ出す。
その瞬間、自分の呼吸と心音が急に遠くなったように感じた。
初めのポーズ――うまく決まった。
腕を上げる角度、足のポジション、バレエの基本は体に叩き込んだはずだ。
だが、肝心のターンの場面――
(よし、今……!)
回った瞬間、ほんのわずか、重心が崩れた。
「っ……」
足が床をかすめ、軸が揺れた。
けれどあかりは、どうにか体勢を立て直し、最後のポーズまで踊り切った。
音楽が終わった瞬間、息を整えるのに必死だった。
(……やっちゃった、かも)
講師たちの目線が突き刺さるようで、立っているのもやっとだった。
だが、誰も何も言わない。ただ、淡々と次の生徒の名が呼ばれる。
控室に戻ると、さらが小声で「おつかれさま」と声をかけてくれた。
「……ありがとう」
あかりは小さく笑ってみせた。
(及第点は……取れた、かな)
足元は少し震えていた。
でも、それでも――心のどこかには、確かな手応えもあった。




