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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
46/140

46:中間試験2

【 中間試験 ・第二科目:日舞】


 バレエの試験を終えた足には、まだかすかな疲労が残っていた。

 それでも、次の科目が始まると、空気は再び張り詰める。


 日舞――


 西洋の優雅な流れから一転して、日本の美と静けさの極致とも言える世界。

 着物の裾の扱い、扇子の使い方、目線、呼吸、そのすべてに「」がある。

 緩やかに見えて、一つひとつの動作には明確な意志が込められている。

 控室では、皆が沈黙のまま、畳の上で正座して自分の出番を待っていた。


 「紫堂さん」


 講師のひとりが名前を呼ぶと、エリカが立ち上がった。

 紋付きの稽古着に身を包んだ彼女は、所作まで男役としての凛とした佇まいを崩さない。扇子を手に舞台中央に進む。

 演目は、静かで品のある恋の舞。

 冒頭、静かに膝を折って扇を構える姿は、息を呑むほどに美しかった。

 だが、その次の動作――立ち上がって右足を運ぶタイミングで、


 (あ……)


 ほんのわずか、裾を踏んでバランスが揺れた。

 動きはすぐに持ち直されたが、あかりにはわかった。

 いや、講師たちの視線が動いたことで、全員が気づいたに違いなかった。


 (エリカさんが……ミスした?)


 衝撃だった。


 いつも完璧に見える彼女が、試験でミスを――

 だが、その後の演舞は見事だった。揺れを一切見せず、むしろ後半は一段と集中力が高まったようにすら見えた。

 舞い終えたエリカは、何もなかったかのように静かに一礼し、控室へ戻ってきた。

 しかし、座るときに指先が少しだけ震えていたのを、あかりは見逃さなかった。


 (エリカでも……緊張、するんだ)


 「綾小路さん」


 澪が名を呼ばれ、静かに立ち上がった。

 舞台に立つ澪の姿は、まるで能面のように凛として無感情に見えた。だが、そこにこそ深い感情が宿っているのが、見ているだけでわかる。

 手の先、足の先、目線の一つひとつに、**儚さと芯の強さ**が同居していた。

 その舞はまるで、春の終わりに散ってゆく桜の花のよう――

 静かで、美しく、見ているだけで胸が締めつけられるようだった。


 (……あれは、澪にしかできない)


 あかりは、心からそう思った。


 「鷹宮さん」


 いよいよ自分の番が来た。

 緊張のあまり足の指先が冷たくなるのを感じながら、あかりは舞台中央へと進む。

 呼吸を整え、正座から舞の構えを取る。


 (ゆっくり、焦らず……)


 始まりの一拍、扇を開き、膝を折って頭を垂れる。

 音楽が流れ始める――

 扇を動かす。立ち上がる。


 《間を恐れないで。沈黙もまた、舞の一部よ》


 その言葉を思い出しながら、あかりは自分の内なる感情を扇に乗せた。


 (私は……この舞で、想いを伝える)


 肩の力を抜く。

 ただ、舞う――


 ミスはなかった。

 ただ、澪のように心を打つような“美”はまだ自分には出せなかったと思う。

 でも――


 (今の私にできる、精一杯の舞は……できた)


 そう思えた。

 控室に戻ると、隣にいたさらが小さく「きれいだったよ」と囁いてくれた。

 あかりは少し頬を染めながら、「ありがとう」と答えた。

 そして、エリカの隣を通り過ぎたとき、彼女の伏せたままの瞳が、ほんのわずか揺れた気がした。



***


【中間試験 ・ 第三科目:声楽 】


 声楽の試験室は、ひときわ静かだった。

 防音のために厚く閉ざされた扉を開けた瞬間、空気の重さが変わる。

 壁には吸音材、譜面台の前には伴奏ピアノ。そして、講師席に座る霧島要先生の厳しい視線。


 (大丈夫。やれる。霧島先生とたくさん練習したんだから)


 心の中で言い聞かせても、足がすこし震えていた。

 前の順番の生徒が歌い終わり、扉の外に出ていく。

 その姿と入れ替わるようにして呼ばれたのは――


 「紫堂エリカさん」


 エリカは表情一つ変えず、まるで予定された動きのように立ち上がって、譜面を手に進んでいった。

 誰が見ても“余裕”に映るその姿に、少しだけ、悔しさと憧れが混じる。

 静寂の中、伴奏が始まる。


 そして、エリカの声――


 やわらかく、しかし芯の通ったアルトが空間に広がる。

 男役としての低音域を安定して出しながら、感情の波を丁寧に折り重ねていく。

 技術と表現のバランスがとれた、まさに「そつのない」歌。


 (すごい……でも、どこか、ちょっとだけ、型にはまってる気もする)


 そんな風に思った自分に驚きながら、あかりは自分の番を待った。


 「鷹宮あかりさん」


 呼ばれた瞬間、全身がびくんと震える。

 それでも、譜面を胸に抱いて立ち上がる。歩く。足を止め、譜面台に立つ。


 (霧島先生に言われたことを、思い出して)


 「あなたの声には、甘さと温かさがある。それを怖がらずに、ちゃんと響かせてごらん」


 深呼吸。

 ピアノの前奏が始まる。


 (私は……私の声で、伝える)


 一音目を放つ。

 柔らかく、少し揺れる甘いソプラノ――

 けれどそれは、前よりもずっと芯があり、迷いがなかった

 譜面通りの正確さを維持しながら、微細な感情の揺れを響きにのせていく。

 霧島先生の顔が見える。

 無表情だけれど、わずかに目が細められていた。

 それがあかりに、勇気をくれた。


 (きっと、伝わってる。私の声……私の心)


 歌い終わり、一礼して視線を上げると、霧島先生の口元が、ほんの少しだけ緩んでいた。


 (やった……!)


 試験室を出た瞬間、張り詰めていた緊張の糸が切れたように、膝から力が抜ける。

 でも、どこか誇らしさが胸に残っていた。

 しばらくして呼ばれたのは、補習を共に受けた――


 「神田麻琴さん」


 麻琴はいつものように真面目な顔で立ち上がり、譜面を抱えて入っていった。あかりは廊下で、うっすら聞こえる麻琴の歌声に耳を傾けた。

 以前よりずっと、太く低い声が安定し、空間にしっかり響いている。


 (麻琴ちゃんも、すごく頑張ってたもんね……!)


 試験室から戻ってきた麻琴は、目を合わせるなり小声で「やりきった」とだけ言って、照れたように笑った。

 二人だけの努力が、少しずつ報われていることが嬉しくて――

 あかりは自然と、麻琴とハイタッチを交わしていた。



***


【中間試験・ 最終科目:演技】


 試験科目の最後は、演技。

 講堂に隣接した演技室には、ふだんと違って緊張した空気が満ちていた。

 この場での評価が、文化祭の配役に直結する――その事実が、生徒たちの表情を引き締めている。

 壇上には講師の如月玲奈。

 かつて男役トップスターとして活躍したその存在は、ただそこに立っているだけで空気が張り詰める。


 「では……始めましょう」


 玲奈の澄んだ声が響く。

 課題の場面は、一組の恋人が再会し、すれ違いを経て和解するというシーン。

 感情の機微と、目線の動き、立ち位置、そして台詞の『間』が試される。


 まず名前が呼ばれたのは――


 「紫堂エリカさん、一ノ瀬ゆらさん」


 エリカは静かに立ち上がり、台本を手に壇上へと向かう。

 その後を追うように、優雅なゆらが続く。

 演技が始まると、さすがに模範的だった。

 エリカは男役としての低めの声で、的確に台詞を言い、ゆらの動きと呼吸を合わせる。

 全体のリズムも申し分なく、どの講師も頷いている。


 けれど――


 (なんだろう、きれいなのに……なにか足りない)


 あかりの胸の奥がざわついた。

 台詞の意味は伝わるのに、その奥にある“感情”が届いてこない。

 演技を終えたエリカが戻るとき、ほんの一瞬だけその目が泳いだ。完璧にこなしたはずなのに、どこか悔しそうで――それがエリカの内面を物語っていた。


 続いて澪と颯真の名前が呼ばれる。

 澪の演技は、やはり「静の美」がある。

 立ち姿だけで観客の目を引くのは、澪にしかない魅力だった。声を張り上げずとも、心のひだのような感情が、そっと舞台に降り立つ。

 颯真は、長身を生かした堂々とした立ち姿で、誠実な青年役を見事にこなしていた。空気を読んで合わせるのが得意な彼女は、澪との掛け合いも自然で美しかった。


 (みんなすごい……)


 そして、いよいよ――


 「鷹宮あかりさん」


 壇上へ向かう足が、いつもよりも軽い気がした。


 (大丈夫。先生が教えてくれた……“役”を信じて、気持ちを込める)


 宝生聖子の、あの夜の声が耳元に蘇る。


 「誰かを想って震えるその心を、演じるのではなく“感じる”のよ」


 台詞を言うのではない。その人物になりきり、感情を重ねて、ただ「そこにいる」こと。

 目の前の演技相手と視線を合わせると、心が自然に揺れた。

 たどたどしさはなかった。口をついて出る言葉が、すっと感情を運んでいく。

 息を飲むような静寂のなかで、あかりの声が震える――演技ではなく、心からの「震え」として。


 「……ずっと、言いたかったのに……言えなかったんだよ」


 涙ではなく、声の奥にある熱。

 甘くて優しい声が、はじめて“恋を知った少女”のような響きを持っていた。

 演技が終わると、空気がふわっと解けた。

 講師たちの間にざわめきが起こる。

 あかりが壇を降りると、講師の一人が静かに頷いた。

 さらやひまりがそっと拍手し、麻琴が「すごいよ」と小声でつぶやく。

 その中心にあって、玲奈はただ黙っていた。

 何かを噛みしめるように目を伏せ――そして、再びあかりを見た。


 (こんなに急激に伸びるなんて……)


 喜ばしいことのはずだった。

 才能が開花する瞬間に立ち会えたのだから。

 けれど玲奈の胸には、うっすらとした“不安”があった。


 (――誰が、あかりにそこまで教えたの?)


 あの演技は、ただの努力や偶然ではできない。

 誰かがあかりの心の奥へ、指先をそっと伸ばしていた。

 玲奈の脳裏に、宝生聖子の微笑がちらつく。

 その妖艶な眼差しと、あかりの目に宿る”なにか”が、どこかで似ていた。

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