44:聖子の部屋の灯り
その夜、天翔専門学校の寮には、いつもと変わらぬ静寂が訪れていた。
廊下の照明は落とされ、共用スペースからも人の気配が消えている。夜風にわずかに揺れるカーテンが、ひとりの少女の決意を包み込んだ。
あかりはそっとスリッパを脱ぎ、スニーカーに履き替え寮の裏口を抜けた。
夜の空気は、どこかひんやりとして、胸の奥をなぞるように通り過ぎていく。校舎の灯りはすでに消えていたが、講師棟の上――五階の一角だけ、ぽつんとひとつ灯りがついていた。
それが、彼女の行く先。
宝生聖子の部屋だった。
(ほんとうに……行っていいんだろうか)
心臓が静かに、でも確実に速さを増していく。
手のひらは汗ばみ、息は浅くなる。
あかりは、ただの演技指導を受けにいくだけだ。そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に芽生えてしまった何かを、否定しきれずにいた。
木造の階段をひとつひとつ踏みしめながら、彼女は五階へと上がる。
踊り場の窓から見える夜空は深く澄んでいて、まるで見透かすような星の輝きがあった。
そして――
「……来たのね」
ドアをノックする前に、声がした。それだけで、背筋にぞわりと冷たいものが走る。
ドアが音もなく開き、中から現れたのは宝生聖子だった。
長い黒髪はゆるく巻かれ、白いローブのようなガウンの裾がふわりと揺れる。
夜のランプに照らされたその肌は、絹のように滑らかで、あかりよりもずっと年上であるはずなのに、まるで時の流れを拒絶しているかのようだった。
「……ごめんなさい、こんな時間に……」
「いいのよ。あなたは“来たい”と思った。だから来た。それだけで、十分」
聖子の声は低く、囁くようでありながら耳元に直接触れるように艶やかだった。
あかりが足を踏み入れると、部屋の空気ががらりと変わった気がした。
窓には分厚いカーテンがかけられ、照明は間接光のみ。
やわらかなランプがいくつか灯され、バニラとラベンダーが混ざったような、甘い香りが漂っている。
ソファの奥には大きな鏡があり、その前には簡易な舞台セットのような空間が用意されていた。
「そこに立って」
聖子が指差したのは、ランプの光が届く一角。
あかりは緊張した面持ちでそこに立ち、まっすぐ聖子を見る。
「今日は……“好きな人に、別れを告げられる場面”。あなたが女役で、相手を想っている。でも相手は去っていく。それを止めたいけれど、止められない。そんな気持ちを、演じてみなさい」
「……わかりました」
震える声で答えたあと、あかりは目を閉じた。
すると、すぐ傍に気配が近づいた。
目を開けると、聖子がすぐそこにいた。
あかりの顔に指先が触れそうなほどの距離で、低く囁く。
「……“本当に愛されたことがある子”と、“愛されたことのない子”の演技は、まるで違うの。
それがどう違うのか、わかるようになりたい?」
あかりは息をのんだ。
鼓動が、どくん、と大きく跳ねた。
「は、はい……」
「じゃあ、今日も、ちゃんと私の“言葉”を感じて」
聖子は、あかりの手をそっと取り、その手を胸元へと導いた。
薄いガウン越しに感じる、体温と呼吸のリズム。
「愛されるというのは、こういうこと」と言わんばかりに、聖子はあかりを見つめていた。
――その瞳の奥にあるものが、何なのか。
あかりには、まだ理解できなかった。
けれど、逃げることもできなかった。
「もっと……もっとうまくなりたいんでしょう?」
その問いかけに、あかりは小さく頷いた。
「じゃあ、もっと深く、感じること。演技とは、心の奥を知ること。あなた自身のね」
そのまま、静かに稽古が始まった。
甘く、妖艶な、言葉と動作のやり取りが、時間の感覚を曖昧にしていく。
部屋の奥のランプがまたひとつ消える頃。
あかりは、演技なのか本心なのかわからないままに、自分の心が揺れていることだけを、確かに感じていた――。
***
「……今日は、よく頑張ったわね」
宝生聖子の指先が、そっとあかりの耳たぶに触れた。まるで音を拾うような、繊細な動きだった。
そこから指は、ゆっくりと頬の曲線をなぞり、顎の下に滑っていく。
そのすべてが、甘く静かで、抗えない引力を持っていた。
「また――いつでもいらっしゃい」
耳元で囁くように放たれたその言葉に、あかりは一瞬、呼吸を忘れた。
それは招待のようであり、誘惑のようでもあり、命令のようにも聞こえた。
肌に残る聖子の指先の感触が、いつまでも消えず、あかりの胸の奥で小さく火照りを灯していた。
「……あ、ありがとうございました……」
絞り出すような声でそれだけを言い、あかりは頭を下げた。そして静かに背を向け、聖子の部屋を後にする。
ドアが、カチリと音を立てて閉まった。
**
講師棟の五階、深夜の廊下はほとんど闇だった。
足元を照らす非常灯だけが点々と続いており、木の床を踏む足音がぽつぽつと響く。
あかりはゆっくりと歩きながら、胸に手を当てた。
鼓動が、うるさい。
自分の身体なのに、まるで他人のもののように感じる。
ただの演技指導のはずだった。
でも、聖子の目、声、手のひら、そのどれもが、演技だけでは片付けられない感情を生んでいた。
(これって、なんなの……?)
手のひらがじんわりと熱い。
唇は乾いて、喉は渇いたままだった。
階段を降りる途中、壁のガラス窓から夜の空が見えた。深い藍色の空に、月だけが静かに浮かんでいる。
(あんな風に、冷静になれたらいいのに)
でも、今の自分は月とは正反対だった。
胸の奥は燃え、思考は渦巻き、足元だけがかろうじて前へと進んでいた。
***
講師棟の玄関から、あかりはそっと外に出た。
誰もいない中庭に、外灯がいくつか灯っていた。照明に照らされたあかりの姿は、少し汗ばんだ額と、どこかぼんやりとした目を浮かべていた。
制服の襟元を軽く引っ張りながら、彼女は小さく深呼吸をする。
夜の空気が肺の奥まで入り込んでも、頭の中の熱は冷めなかった。
そのとき――
その姿を、誰かが見ていた。
講師棟四階の部屋。
窓辺に静かに立ち、カーテンの隙間から夜の中庭を見下ろしていたのは――如月玲奈だった。
何も言わず、何も表情を浮かべず、ただじっと――あかりの背中を見つめていた。
聖子の部屋から出てきたあかり。
微かに揺れる肩、落ち着かない仕草、心の揺れを隠しきれないまま歩くその足取り。
玲奈の目が、わずかに細められる。
(……また、あの部屋か)
そう思いながらも、玲奈は何も言わなかった。
ただ、夜の静寂の中で、少女の背中に目をそっと落とし続けていた。
***
寮の廊下にはもう、誰の気配もなかった。
あかりは音を立てないように足音を忍ばせ、自分たちの部屋の前で小さく息を整えた。
(……きっと、澪はもう寝てるよね)
そう思いながらも、そっとドアノブを回す。
鍵はかかっていない。
静かに開いた扉の向こう、窓際のベッドに澪のシルエットがあった。カーテン越しの月明かりが、彼女の輪郭だけをぼんやりと照らしていた。布団に包まれながら、長い睫毛がまぶたの上に影を落とす――が、目は閉じていなかった。
「……遅かったね」
微かな声が闇の中に溶けた。
あかりは一瞬たじろぎながらも、小さく微笑む。
「……ごめん、ちょっと……外の空気、吸いたくなって」
嘘だった。
でも、どうしてもあの部屋での出来事を、今は澪に話せなかった。
「そっか」
澪はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、その目が、まっすぐにあかりを見ていた。
その瞳は、深く澄んでいて、どこか切なげで――まるで、何かを知っているようにも思えた。
「ね、澪……」
あかりは靴を脱ぎ、静かに自分のベッドに腰掛ける。
「なんか、最近、いろんなことが起こりすぎて……頭が追いつかないっていうか。舞台に立つって、思ってたよりずっと難しいんだなって……」
「……うん」
「だけど、私、もっと上手くなりたい。ちゃんと、誰かの心に届くような演技がしたいんだ」
あかりの声は真っ直ぐだった。
けれどその“真っ直ぐさ”が、澪の胸を少しだけ締めつけた。
(その“誰か”には、私も入ってるのかな……?)
澪はそう思いながら、小さく笑ってみせる。
「あなたは、きっとなれるよ。ちゃんと、届く人には届いてる。……もう、とっくに」
「……ありがとう、澪」
月明かりが、あかりの笑顔に触れた。
その光は淡く、やさしく、そしてどこか無垢だった。
しかし、澪は気づいていた。
その無垢な笑顔の裏にある――澪が見落とされたことへの、わずかな寂しさに。
(ほんの少しでいい、気づいてほしかった)
けれど、それは言葉にはしなかった。
澪はただ、静かに目を伏せた。
「おやすみ、あかり」
「うん、おやすみ、澪」
部屋の灯りはすでに消えていて、言葉だけが静かに部屋の空気を揺らした。
ふたりの間にはわずかな距離があったけれど、どこかそれが愛おしいような、もどかしいような。そんな夜だった。




