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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
44/140

44:聖子の部屋の灯り

 その夜、天翔専門学校の寮には、いつもと変わらぬ静寂が訪れていた。

 廊下の照明は落とされ、共用スペースからも人の気配が消えている。夜風にわずかに揺れるカーテンが、ひとりの少女の決意を包み込んだ。


 あかりはそっとスリッパを脱ぎ、スニーカーに履き替え寮の裏口を抜けた。

 夜の空気は、どこかひんやりとして、胸の奥をなぞるように通り過ぎていく。校舎の灯りはすでに消えていたが、講師棟の上――五階の一角だけ、ぽつんとひとつ灯りがついていた。

 それが、彼女の行く先。

 宝生聖子の部屋だった。


 (ほんとうに……行っていいんだろうか)


 心臓が静かに、でも確実に速さを増していく。

 手のひらは汗ばみ、息は浅くなる。

 あかりは、ただの演技指導を受けにいくだけだ。そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に芽生えてしまった何かを、否定しきれずにいた。

 木造の階段をひとつひとつ踏みしめながら、彼女は五階へと上がる。

 踊り場の窓から見える夜空は深く澄んでいて、まるで見透かすような星の輝きがあった。


 そして――


 「……来たのね」


 ドアをノックする前に、声がした。それだけで、背筋にぞわりと冷たいものが走る。

 ドアが音もなく開き、中から現れたのは宝生聖子だった。

 長い黒髪はゆるく巻かれ、白いローブのようなガウンの裾がふわりと揺れる。

 夜のランプに照らされたその肌は、絹のように滑らかで、あかりよりもずっと年上であるはずなのに、まるで時の流れを拒絶しているかのようだった。


 「……ごめんなさい、こんな時間に……」


 「いいのよ。あなたは“来たい”と思った。だから来た。それだけで、十分」


 聖子の声は低く、囁くようでありながら耳元に直接触れるように艶やかだった。

 あかりが足を踏み入れると、部屋の空気ががらりと変わった気がした。

 窓には分厚いカーテンがかけられ、照明は間接光のみ。

 やわらかなランプがいくつか灯され、バニラとラベンダーが混ざったような、甘い香りが漂っている。

 ソファの奥には大きな鏡があり、その前には簡易な舞台セットのような空間が用意されていた。

 

 「そこに立って」


 聖子が指差したのは、ランプの光が届く一角。

 あかりは緊張した面持ちでそこに立ち、まっすぐ聖子を見る。


 「今日は……“好きな人に、別れを告げられる場面”。あなたが女役で、相手を想っている。でも相手は去っていく。それを止めたいけれど、止められない。そんな気持ちを、演じてみなさい」


 「……わかりました」


 震える声で答えたあと、あかりは目を閉じた。

 すると、すぐ傍に気配が近づいた。

 目を開けると、聖子がすぐそこにいた。

 あかりの顔に指先が触れそうなほどの距離で、低く囁く。


 「……“本当に愛されたことがある子”と、“愛されたことのない子”の演技は、まるで違うの。

 それがどう違うのか、わかるようになりたい?」


 あかりは息をのんだ。

 鼓動が、どくん、と大きく跳ねた。


 「は、はい……」


 「じゃあ、今日も、ちゃんと私の“言葉”を感じて」


 聖子は、あかりの手をそっと取り、その手を胸元へと導いた。

 薄いガウン越しに感じる、体温と呼吸のリズム。

 「愛されるというのは、こういうこと」と言わんばかりに、聖子はあかりを見つめていた。


 ――その瞳の奥にあるものが、何なのか。

 あかりには、まだ理解できなかった。

 けれど、逃げることもできなかった。


 「もっと……もっとうまくなりたいんでしょう?」


 その問いかけに、あかりは小さく頷いた。


 「じゃあ、もっと深く、感じること。演技とは、心の奥を知ること。あなた自身のね」


 そのまま、静かに稽古が始まった。

 甘く、妖艶な、言葉と動作のやり取りが、時間の感覚を曖昧にしていく。


 部屋の奥のランプがまたひとつ消える頃。

 あかりは、演技なのか本心なのかわからないままに、自分の心が揺れていることだけを、確かに感じていた――。



***


 「……今日は、よく頑張ったわね」


 宝生聖子の指先が、そっとあかりの耳たぶに触れた。まるで音を拾うような、繊細な動きだった。

 そこから指は、ゆっくりと頬の曲線をなぞり、顎の下に滑っていく。

 そのすべてが、甘く静かで、抗えない引力を持っていた。


 「また――いつでもいらっしゃい」


 耳元で囁くように放たれたその言葉に、あかりは一瞬、呼吸を忘れた。

 それは招待のようであり、誘惑のようでもあり、命令のようにも聞こえた。

 肌に残る聖子の指先の感触が、いつまでも消えず、あかりの胸の奥で小さく火照りを灯していた。


 「……あ、ありがとうございました……」


 絞り出すような声でそれだけを言い、あかりは頭を下げた。そして静かに背を向け、聖子の部屋を後にする。

 ドアが、カチリと音を立てて閉まった。


**


 講師棟の五階、深夜の廊下はほとんど闇だった。

 足元を照らす非常灯だけが点々と続いており、木の床を踏む足音がぽつぽつと響く。

 あかりはゆっくりと歩きながら、胸に手を当てた。

 鼓動が、うるさい。


 自分の身体なのに、まるで他人のもののように感じる。

 ただの演技指導のはずだった。

 でも、聖子の目、声、手のひら、そのどれもが、演技だけでは片付けられない感情を生んでいた。


 (これって、なんなの……?)


 手のひらがじんわりと熱い。

 唇は乾いて、喉は渇いたままだった。

 階段を降りる途中、壁のガラス窓から夜の空が見えた。深い藍色の空に、月だけが静かに浮かんでいる。


 (あんな風に、冷静になれたらいいのに)


 でも、今の自分は月とは正反対だった。

 胸の奥は燃え、思考は渦巻き、足元だけがかろうじて前へと進んでいた。



***


 講師棟の玄関から、あかりはそっと外に出た。

 誰もいない中庭に、外灯がいくつか灯っていた。照明に照らされたあかりの姿は、少し汗ばんだ額と、どこかぼんやりとした目を浮かべていた。

 制服の襟元を軽く引っ張りながら、彼女は小さく深呼吸をする。

 夜の空気が肺の奥まで入り込んでも、頭の中の熱は冷めなかった。


 そのとき――


 その姿を、誰かが見ていた。


 講師棟四階の部屋。

 窓辺に静かに立ち、カーテンの隙間から夜の中庭を見下ろしていたのは――如月玲奈だった。

 何も言わず、何も表情を浮かべず、ただじっと――あかりの背中を見つめていた。


 聖子の部屋から出てきたあかり。

 微かに揺れる肩、落ち着かない仕草、心の揺れを隠しきれないまま歩くその足取り。

 玲奈の目が、わずかに細められる。


 (……また、あの部屋か)


 そう思いながらも、玲奈は何も言わなかった。

 ただ、夜の静寂の中で、少女の背中に目をそっと落とし続けていた。



***


 寮の廊下にはもう、誰の気配もなかった。

 あかりは音を立てないように足音を忍ばせ、自分たちの部屋の前で小さく息を整えた。


 (……きっと、澪はもう寝てるよね)


 そう思いながらも、そっとドアノブを回す。

 鍵はかかっていない。

 静かに開いた扉の向こう、窓際のベッドに澪のシルエットがあった。カーテン越しの月明かりが、彼女の輪郭だけをぼんやりと照らしていた。布団に包まれながら、長い睫毛がまぶたの上に影を落とす――が、目は閉じていなかった。


 「……遅かったね」


 微かな声が闇の中に溶けた。

 あかりは一瞬たじろぎながらも、小さく微笑む。


 「……ごめん、ちょっと……外の空気、吸いたくなって」


 嘘だった。

 でも、どうしてもあの部屋での出来事を、今は澪に話せなかった。


 「そっか」


 澪はそれ以上、何も聞かなかった。ただ、その目が、まっすぐにあかりを見ていた。

 その瞳は、深く澄んでいて、どこか切なげで――まるで、何かを知っているようにも思えた。


 「ね、澪……」


 あかりは靴を脱ぎ、静かに自分のベッドに腰掛ける。


 「なんか、最近、いろんなことが起こりすぎて……頭が追いつかないっていうか。舞台に立つって、思ってたよりずっと難しいんだなって……」


 「……うん」


 「だけど、私、もっと上手くなりたい。ちゃんと、誰かの心に届くような演技がしたいんだ」


 あかりの声は真っ直ぐだった。

 けれどその“真っ直ぐさ”が、澪の胸を少しだけ締めつけた。


 (その“誰か”には、私も入ってるのかな……?)


 澪はそう思いながら、小さく笑ってみせる。


 「あなたは、きっとなれるよ。ちゃんと、届く人には届いてる。……もう、とっくに」


 「……ありがとう、澪」


 月明かりが、あかりの笑顔に触れた。

 その光は淡く、やさしく、そしてどこか無垢だった。

 しかし、澪は気づいていた。

 その無垢な笑顔の裏にある――澪が見落とされたことへの、わずかな寂しさに。


 (ほんの少しでいい、気づいてほしかった)


 けれど、それは言葉にはしなかった。

 澪はただ、静かに目を伏せた。


 「おやすみ、あかり」


 「うん、おやすみ、澪」


 部屋の灯りはすでに消えていて、言葉だけが静かに部屋の空気を揺らした。

 ふたりの間にはわずかな距離があったけれど、どこかそれが愛おしいような、もどかしいような。そんな夜だった。

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