43:夢と残響
まぶたの裏に差し込む光があった。
それは朝日のようでも、舞台照明のようでもあり――
何か、あたたかくも鋭いものだった。
あかりは、舞台に立っていた。
広く、高く、どこまでも荘厳で、息を呑むような講堂の舞台。
だけど、見慣れたはずのその舞台は、どこか異様だった。
幕がまだ下りきっていない。
赤いベルベットの隙間から、強すぎる光がこぼれている。
あかりは制服姿のまま、舞台中央に立ち尽くしていた。
(……なんでここに?)
客席は闇に沈んでいて、誰がいるのかはわからない。
けれど確かに「視線」がある。それは評価する目であり、値踏みする目であり、
――そして、ときに愛でる目だった。
「鷹宮あかり」
柔らかな声が響いた。
舞台奥、黒いヴェールを纏うようにして現れたのは、宝生聖子だった。
まるで劇中の妖精のように、夢と現実の狭間からすべり出てきた彼女は、赤いドレスをふわりと揺らし、舞台を歩いてくる。
「さあ、演じて。あなたの恋を、あなたの渇きを」
聖子が手を差し出すと、客席がざわめいた。
いや、あれは風の音?
それとも――誰かの笑い声?
あかりが何かを言おうとした瞬間、脇から白い光が差した。
振り返ると、綾小路澪がいた。
深い青の燕尾服に身を包み、舞台の端からゆっくり歩いてくる。その姿はまるで、劇中の王子そのものだった。
「あなたを守るのが、私の役だから」
そう言った澪の目には、柔らかさと寂しさが同居していた。
けれど、すぐ背後に別の足音が重なった。
――カツ、カツ、とヒールの音。
今度は紫堂エリカが現れた。
黒いドレスコートに身を包み、瞳に炎のような光を宿している。
「そのセリフ、私に譲ってくれない?」
エリカが澪に向かって冷たく言い放つと、澪は静かに視線をそらす。けれど、どこか苦しそうだった。
あかりは何かを言いたいのに、言葉が出てこない。目を見開いて口を開こうとしても、声にならない。
胸が痛く、喉が詰まるようだった。
そのとき、天井から薔薇の花びらが降ってきた。
深紅、白、薄紫。花びらはゆっくりと舞い降り、舞台を染める。
照明が消え、舞台が闇に沈む。
ざわ……ざわ……誰かの呟きが耳元で鳴る。
「違う、私はただ……うまくなりたかっただけで」
「それだけで、誰かを傷つけたの?」
声は、あかりの内からも、外からも聞こえた。
舞台が、傾く。
どこかで幕が切り裂かれる音がして、背後から冷たい風が吹く。
あかりは、誰かの手を求めて振り返る。
そこには――いなかった。
澪も、エリカも、聖子さえも、いない。
ただ、あかり一人が、舞台に取り残されていた。
(誰か……)
その時、ふいに客席の奥が明るくなった。
一人の影が、椅子に座っている。
見覚えのある姿――それは、過去の自分だった。声も出せず、身動きも取れず、あかりはただその「幼い自分」に見つめられていた。
「あなた、変わっちゃったね」
その声に、胸が締めつけられた。
**
「……っ!」
あかりは弾かれるように目を覚ました。
胸が早鐘のように鳴っていた。
暗い部屋の中、隣のベッドでは澪が静かに眠っている。
その寝顔はどこか神秘的で、けれど触れれば崩れてしまいそうな繊細さを宿していた。
(夢……だったのか……)
額に汗が滲んでいる。
けれど、夢の中の言葉や視線や、何より自分の罪悪感のようなものが、
あかりの胸の奥にしこりのように残っていた。
(私、ほんとに、正しいやり方で……うまくなってるのかな……)
澪の寝息を聞きながら、あかりは静かにまぶたを閉じた。
そして、自分の手を、胸に当てた。
どくん――どくん――。
夢の中と同じ、鼓動がそこにあった。
***
カーテン越しのやわらかな朝陽が、あかりの頬をなぞっていた。
目を覚ました瞬間、現実に戻ったはずなのに、胸の奥はまだ夢の中のようだった。
(あの夢……やけに鮮明だったな……)
舞台の上、宝生聖子の妖しい声。
澪の切ない目。エリカの鋭い視線。
そして、過去の自分が呟いた「あなた、変わっちゃったね」という言葉。
(変わったのかな、私……)
澪の眠る横で静かに着替えながら、あかりはまだ少し胸の奥にざらついた感情を抱えていた。
寮の朝食の席では、ひまりが冗談を飛ばし、さらが「今日の髪型、変えてみたの」と笑い、颯真が「眠い」とぼやいている。
あかりも普段通りに笑って答えてはいたが、心はどこか雲に覆われていた。
校門へと続く坂道を登りながら、澪、さら、颯真、ひまりと並んで歩く。
空は青く、蝉が少し早く鳴き始めている。
(…現実は動いてるのに、私はまだ夢の中みたい)
と、そのときだった。
「鷹宮さん、最近どう?」
後ろから穏やかで低い声がかかった。
振り返ると、すらりと背の高い上級生――芦原右京が、朝の光を背に立っていた。
2年生の成績トップ。研ぎ澄まされた存在感を持ち、あかりたち1年生の間でも一目置かれている生徒。
決して媚びない涼やかな視線。制服の着こなしさえ洗練されている。
「う、芦原先輩……おはようございます」
あかりが少し戸惑って答えると、彼の視線は一瞬、あかりの表情をとらえた。
次の瞬間、右京の唇がほんの少しだけ、わずかに上がった。
「昨日の放課後、ずいぶん楽しそうだったね」
その言葉に、さらとひまりが「あ、じゃあ……」と小声でささやき合い、空気を読んで自然とあかりの隣から数歩離れる。
颯真も「じゃ、先に行ってる」とあかりの肩を軽く叩いて離れていく。
あかりと右京、ふたりきりになった道。
朝の風がふと吹き抜け、あかりの髪が揺れた。
「浮かれるのは悪いことじゃないよ」
右京の声は優しい。だがその奥にある冷静さは鋭く、あかりの胸の奥を刺す。
「でもね……」
彼は足を止め、あかりの目をまっすぐに見た。
「もうすぐ中間試験だ。あなたは今、自分のどこに立っているのか、それを忘れないように」
柔らかい口調だった。けれど、その言葉は曖昧な夢の残り香を一気に現実へと引き戻した。
「……はい」
あかりはそう返すしかなかった。
右京はそれ以上何も言わず、ほんのわずかに頷いて、その場を去っていった。すらりと伸びた脚で静かに歩き、振り返ることなく校門の向こうへ消えていく。
(芦原先輩……)
その背中を見つめながら、あかりは胸の内で呟いた。
(あの人は……全部見透かしてるみたいだ)
夢の中で迷っていた心。
聖子への憧れと畏れ。
澪の揺れる眼差し。エリカの怒り。
自分自身の、ふらふらと揺れる“初心”と“野心”。
(しっかりしなきゃ。浮かれてなんて……いられない)
ゆっくりと深呼吸をして、あかりは再び歩き出す。
まぶしい朝陽の下。
自分が立つ舞台は、現実という名の世界だった。




