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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
40/140

40:宝生聖子の誘い2

 夕暮れ時、それぞれの自主練習が終わり、生徒たちがそれぞれの帰り支度を始めていた頃。

 校舎の廊下には、カツン、と時折響く靴音だけが静かに残っていた。

 エリカが去った教室で1時間ほど練習したあかりは、ゆっくりと荷物をまとめ教室を出た。扉が背後で音もなく閉まると、ひとりになった実感がじわりと広がった。


 廊下の窓から、橙色の夕陽が差し込んでいた。

 陽の傾きが長く影を引き、世界が少しだけ静まり返っているように感じられる。


 (……私、まだエリカにとって、認められる存在じゃないんだ)


 その現実が、ただただ胸に痛かった。

 “成長した”と、周囲に褒められても。

 “頑張ってるね”と、先生に言ってもらえても。

 一番、認められたい人に届かない。そんな気持ちが、胸の奥でかすかに鈴のように鳴っていた。


 あかりが教室を出て階段を降りかけたところで、その声に足を止めた。


 「……鷹宮」


 聞き慣れた、艶やかな声音。

 振り向くと、階段の陰から現れたのは、宝生聖子だった。

 白いブラウスの襟元には深紅のブローチ。眼差しは、どこか艶めいている。

 その立ち姿は、まるで舞台の中から抜け出してきた女王のようで、あかりは思わず背筋を伸ばす。


 「ほ、宝生先生……」


 「そんなに驚かなくてもいいわ。少し、お話ししない?」


 聖子の指が、窓辺のひとつを指し示す。

 薄曇りのガラス越しに、傾きかけた光が差し込んでいた。二人は並んで窓のそばに立ち、しばし沈黙が流れた。


 「今日は演技の授業だったそうね。あなたの中に、前回までになかった“色”があったと如月先生から聞いたわ」


 聖子の声は、まるで旋律のようにあかりの耳をくすぐる。


 「……ありがとうございます」


 あかりは少しうつむいて答えた。

 内心は、まだ聖子の言葉にどう向き合えばよいのか、迷っていた。


 「でも、あなたはまだ“入り口”に立っただけ。演技というものは、深くて、底がないものよ。

  たとえば“愛してる”という台詞ひとつに、十通りの意味を持たせることができる。……その深さに、あなたは耐えられるかしら?」


 「耐える、というのは……?」


 「つまり、演じながら、自分の感情を切り分けて見つめる冷静さと、

  心のままに震える熱を、同時に抱えるということ」


 聖子の視線は、じっとあかりの瞳を見つめていた。

 まるで、その奥の感情を見透かすように。

 あかりは思わず息を呑んだ。


 「ふふ……そう。あなたは、吸収が早い。……そして、危うい」


 聖子の声が、ふっと低くなる。

 まるで、あかりの首筋をなぞるような音の柔らかさ。


 「“恋愛の演技”は、ただ“好き”と叫べばいいものじゃない。

  相手を見て、自分の弱さを晒して、それでも歩み寄る――そんな怖さと快楽があるのよ」


 「怖さ……と、快楽……」


 あかりは聖子の言葉を、ゆっくり反芻した。


 「あなたは今、感情を演じている。でも、演技が“生きる”ためには、

  自分の中のもっと深い部分――欲望とか、恐れとか……そういうものと向き合わなければならないわ」


 あかりの目が、わずかに揺れる。


 「それって……全部さらけ出すってことですか?」


 聖子は微笑む。


 「違うわ。“さらけ出してるように見せて、隠す”。

  “隠しているように見せて、伝える”。それが演技。――恋と、似てるわね」


 あかりの喉がごくりと鳴った。


 「わたし……うまくできるかわかりません」


 その答えに、聖子はほんのわずか、口元を緩めた。

 そして、ゆっくりと耳元に囁くように言った。


 「そう……なら、鷹宮。あなたがもっと上手くなりたいと思ったら、また私の部屋に来なさい」


 その声は、甘く、妖しく、誘惑するようで、まるで夜の始まりを告げるように、あかりの耳に響いた。

 あかりの胸の奥が、ふいに熱くなる。


 (……また、宝生先生の部屋に……)


 その瞬間、心臓がまたひとつ、どくりと跳ねた。

 胸の奥がざわめき、言葉にならない衝動が、身体の内側から満ちてくる。


 (わたし……また、あの部屋に行きたいと思ってる?)


 自分でも気づかぬ想いに、あかりはわずかに唇を噛んだ。


 「えっ……あ……はい」


 そう答えたあかりの声は、ほんの少し震えていた。

 聖子は満足げに目を細めると、あかりの耳元からすっと身を離し、優雅に踵を返した。


 「期待しているわ。あなたの“深化”を」


 その背中を見送りながら、あかりは自分の胸の上で激しく脈打つ鼓動を、必死で抑えようとしていた。

 その言葉が、心の奥で深く沈み込み、静かな執着の芽となるのを感じながら。

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