40:宝生聖子の誘い2
夕暮れ時、それぞれの自主練習が終わり、生徒たちがそれぞれの帰り支度を始めていた頃。
校舎の廊下には、カツン、と時折響く靴音だけが静かに残っていた。
エリカが去った教室で1時間ほど練習したあかりは、ゆっくりと荷物をまとめ教室を出た。扉が背後で音もなく閉まると、ひとりになった実感がじわりと広がった。
廊下の窓から、橙色の夕陽が差し込んでいた。
陽の傾きが長く影を引き、世界が少しだけ静まり返っているように感じられる。
(……私、まだエリカにとって、認められる存在じゃないんだ)
その現実が、ただただ胸に痛かった。
“成長した”と、周囲に褒められても。
“頑張ってるね”と、先生に言ってもらえても。
一番、認められたい人に届かない。そんな気持ちが、胸の奥でかすかに鈴のように鳴っていた。
あかりが教室を出て階段を降りかけたところで、その声に足を止めた。
「……鷹宮」
聞き慣れた、艶やかな声音。
振り向くと、階段の陰から現れたのは、宝生聖子だった。
白いブラウスの襟元には深紅のブローチ。眼差しは、どこか艶めいている。
その立ち姿は、まるで舞台の中から抜け出してきた女王のようで、あかりは思わず背筋を伸ばす。
「ほ、宝生先生……」
「そんなに驚かなくてもいいわ。少し、お話ししない?」
聖子の指が、窓辺のひとつを指し示す。
薄曇りのガラス越しに、傾きかけた光が差し込んでいた。二人は並んで窓のそばに立ち、しばし沈黙が流れた。
「今日は演技の授業だったそうね。あなたの中に、前回までになかった“色”があったと如月先生から聞いたわ」
聖子の声は、まるで旋律のようにあかりの耳をくすぐる。
「……ありがとうございます」
あかりは少しうつむいて答えた。
内心は、まだ聖子の言葉にどう向き合えばよいのか、迷っていた。
「でも、あなたはまだ“入り口”に立っただけ。演技というものは、深くて、底がないものよ。
たとえば“愛してる”という台詞ひとつに、十通りの意味を持たせることができる。……その深さに、あなたは耐えられるかしら?」
「耐える、というのは……?」
「つまり、演じながら、自分の感情を切り分けて見つめる冷静さと、
心のままに震える熱を、同時に抱えるということ」
聖子の視線は、じっとあかりの瞳を見つめていた。
まるで、その奥の感情を見透かすように。
あかりは思わず息を呑んだ。
「ふふ……そう。あなたは、吸収が早い。……そして、危うい」
聖子の声が、ふっと低くなる。
まるで、あかりの首筋をなぞるような音の柔らかさ。
「“恋愛の演技”は、ただ“好き”と叫べばいいものじゃない。
相手を見て、自分の弱さを晒して、それでも歩み寄る――そんな怖さと快楽があるのよ」
「怖さ……と、快楽……」
あかりは聖子の言葉を、ゆっくり反芻した。
「あなたは今、感情を演じている。でも、演技が“生きる”ためには、
自分の中のもっと深い部分――欲望とか、恐れとか……そういうものと向き合わなければならないわ」
あかりの目が、わずかに揺れる。
「それって……全部さらけ出すってことですか?」
聖子は微笑む。
「違うわ。“さらけ出してるように見せて、隠す”。
“隠しているように見せて、伝える”。それが演技。――恋と、似てるわね」
あかりの喉がごくりと鳴った。
「わたし……うまくできるかわかりません」
その答えに、聖子はほんのわずか、口元を緩めた。
そして、ゆっくりと耳元に囁くように言った。
「そう……なら、鷹宮。あなたがもっと上手くなりたいと思ったら、また私の部屋に来なさい」
その声は、甘く、妖しく、誘惑するようで、まるで夜の始まりを告げるように、あかりの耳に響いた。
あかりの胸の奥が、ふいに熱くなる。
(……また、宝生先生の部屋に……)
その瞬間、心臓がまたひとつ、どくりと跳ねた。
胸の奥がざわめき、言葉にならない衝動が、身体の内側から満ちてくる。
(わたし……また、あの部屋に行きたいと思ってる?)
自分でも気づかぬ想いに、あかりはわずかに唇を噛んだ。
「えっ……あ……はい」
そう答えたあかりの声は、ほんの少し震えていた。
聖子は満足げに目を細めると、あかりの耳元からすっと身を離し、優雅に踵を返した。
「期待しているわ。あなたの“深化”を」
その背中を見送りながら、あかりは自分の胸の上で激しく脈打つ鼓動を、必死で抑えようとしていた。
その言葉が、心の奥で深く沈み込み、静かな執着の芽となるのを感じながら。




