41:妖艶と冷静、静かな火花
【講師棟・講師室】
講師棟の3階の奥にある、窓の広い部屋。
傾いた夕陽が木の床に斜めの光を落とし、空気にはほのかな紅が漂っている。
その部屋で、宝生聖子はお気に入りの深紅の椅子に優雅に腰掛けていた。手にはハーブティーのカップ。香り高い湯気がふわりと立ち上っている。
そこへ、ドアをノックする音が響いた。
やや硬い足取りで入ってきたのは、如月玲奈だった。
「……あら。どうしたの?」
紅茶を口に運びながら、聖子が微笑む。
その目は笑っていない。
玲奈はドアを閉めると、机の前にまっすぐ立った。
「ひとつ、確認したいことがあります。……鷹宮あかりの件です」
「……ふうん?」
聖子はティーカップをソーサーに戻し、興味なさげに片眉を上げた。
玲奈は続ける。
「今日の授業での鷹宮の恋愛演技。……あれは、数日で習得できるレベルではありません。
誰かから“個別の、実戦的な指導”を受けたとしか考えられない」
言葉の端は、静かに熱を帯びていた。
聖子は、ほんの一拍、笑いをこらえるように口元に指を添えると、涼しげに答えた。
「そうかしら。若い子の吸収って、驚くほど早いのよ?……私は知らないわよ、特別な指導なんて」
「知らない……?」
玲奈の目が細くなる。
明らかに嘘をついている。だが、証拠はない。
「本当に、なにもしていないと?」
「ええ、本当に。私は彼女の成長を、ただ……見守っていただけ」
妖艶な微笑。
まるで真実をわざとぼかすかのような語り口。そこには確信犯的な色香と知性があった。
玲奈のこめかみが、僅かに動いた。
「宝生先生。あなたの“ただの見守り”が、どれだけ生徒に影響を及ぼすか、ご自身が一番ご存知でしょう。
何もしていない、などと平然と仰るのは――教師として、不誠実です」
鋭い言葉が、講師室の空気を切り裂いた。
しかし、聖子はまるで気にする様子もなく、あくまで優雅な所作で紅茶を飲み干した。
「まぁ……そう言われると、なんだか私が悪いことでもしたみたいじゃない。
あなた、嫉妬してるの?」
その一言で、玲奈の瞳に一瞬だけ怒りの火が灯る。
「嫉妬? 私は教師として当然の疑問を抱いているだけです。
生徒の実力の急変化には、責任をもって説明すべきでしょう」
「説明……ねぇ。だったらこう考えてみて。
彼女が、才能に“目覚めた”のかもしれないって。
あるいは――あなたが、彼女の可能性に気づくのが、少し遅れただけなのかも」
「……」
玲奈は唇を結び、何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。
その目には、氷のような冷静と、深い懸念がにじんでいる。だが同時に、それは怒りよりも、恐れに近いものだった。
(この人は――ただの専門学校講師じゃない)
聖子は、人の心の奥底を見抜いて、そこにそっと手を差し入れる術を知っている。演技指導という名のもとに、人の魂に爪を立てる力を持っている。
それを、玲奈はよく知っていた。
聖子は微笑んだまま、椅子に深くもたれかかり、言った。
「あなたが彼女に与えられなかった何かを、私が与えたとして――それが悪いことかしら?」
玲奈は一瞬、言葉を失った。
だが次の瞬間、鋭く静かな声で告げる。
「……鷹宮あかりを壊さないでください。演技を教えるために、生徒の心を侵す権利は、誰にもない」
聖子は答えなかった。
ただ、その場に静かに漂う緊張を、まるで楽しむように目を伏せ、やがて甘くささやいた。
「さて――あの子は、どちらに育つのかしらね。
あなたの“正しさ”の道か。
それとも、私の“美しさ”の道か」
玲奈は踵を返し、静かに部屋を出ていった。
残された聖子は、窓辺に立ち、陽が沈みかけた空を眺めながら、うっすらと笑った。
その瞳には、もう次の一手が映っているようだった。
***
玲奈は講師室を出て、廊下を抜け、静かな足取りで自室のドアを閉める。
鍵をかけ、カーテンを引き、部屋の照明を落とすと、室内はほのかに暖色の灯りに包まれた。玲奈は椅子に腰を下ろすと、胸元に手を添え、深くひとつ息を吐いた。
(宝生聖子……相変わらず、煙のように掴みどころがない)
指先でこめかみを押さえながら、玲奈はさきほどの会話を何度も思い返していた。聖子の口ぶりは明らかに“何か”を知っている。だが、証拠も確証もない。
それでも、あかりのあの演技。
目線、息遣い、言葉の間合い――あれは“何か”があったとしか思えなかった。
(あの子は、いま揺れている。芽が出始めたばかりの柔らかな茎に、誰かの手がそっと添えられている……)
その手が、自分であるべきだったのかもしれない。
玲奈は立ち上がり、机の上に飾られている一枚の古い写真に目を向けた。
舞台の幕が上がる直前、舞台袖で撮られた写真――そこには、若き日の自分と、かつての同期たちが写っていた。
その中心に立つのは、自身の若かりし頃――鋭さと緊張感に満ちた目をした、男役としての如月玲奈。
(私は、こうして“戦い”の中で生きてきた)
毎日が挑戦で、選ばれなければ何者にもなれない日々。
演技が足りないと言われれば、一晩中鏡の前に立った。歌が通らないと言われれば、血のにじむような発声練習を繰り返した。そして、仲間の中にあったのは――友情と、激しい競争心。
(あのとき、私が信じていたのは、「努力すれば届く」ということだった)
なのに今、目の前の生徒は、まるで近道を渡るように、急激に進化を遂げている。才能なのか、奇跡なのか、それとも、誰かの影響なのか。
玲奈はデスクに座り、日報用のノートを開いた。
その端に、静かに書き留める。
「鷹宮あかり:表現力の変化顕著。要観察。外部影響の可能性あり」
ペンを置き、窓の外を見る。
夜の空は深く、静かだった。
遠くで、寮の灯りがぽつりぽつりとともっている。
(でも、私が見ているのは芝居の力。真実を表現するために、人がどこまで踏み込めるか。
甘い感情や幻想ではない、“舞台に生きる者”の覚悟と魂)
玲奈は静かに目を閉じた。
(……あの子を、どこまで守れるか。どこまで引き上げられるか。それが、今の私に課された使命)
演じることは、誰かになることではない。
演じることは、自分の深層をえぐり出し、それを観客に差し出すこと。
(その覚悟があるのか、鷹宮あかり……)
窓の向こうに浮かぶ月に向かって、玲奈は一人つぶやいた。
「あなたの道が、正しい舞台に繋がっていることを……私は、見極める」
声は小さく、しかし凛としていた。
如月玲奈――かつての男役トップスターは、今、ひとりの教師として再び“舞台”に立とうとしていた。




