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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
41/140

41:妖艶と冷静、静かな火花

【講師棟・講師室】


 講師棟の3階の奥にある、窓の広い部屋。

 傾いた夕陽が木の床に斜めの光を落とし、空気にはほのかな紅が漂っている。

 その部屋で、宝生聖子はお気に入りの深紅の椅子に優雅に腰掛けていた。手にはハーブティーのカップ。香り高い湯気がふわりと立ち上っている。


 そこへ、ドアをノックする音が響いた。

 やや硬い足取りで入ってきたのは、如月玲奈だった。


 「……あら。どうしたの?」


 紅茶を口に運びながら、聖子が微笑む。

 その目は笑っていない。

 玲奈はドアを閉めると、机の前にまっすぐ立った。


 「ひとつ、確認したいことがあります。……鷹宮あかりの件です」


 「……ふうん?」


 聖子はティーカップをソーサーに戻し、興味なさげに片眉を上げた。

 玲奈は続ける。


 「今日の授業での鷹宮の恋愛演技。……あれは、数日で習得できるレベルではありません。

  誰かから“個別の、実戦的な指導”を受けたとしか考えられない」


 言葉の端は、静かに熱を帯びていた。

 聖子は、ほんの一拍、笑いをこらえるように口元に指を添えると、涼しげに答えた。


 「そうかしら。若い子の吸収って、驚くほど早いのよ?……私は知らないわよ、特別な指導なんて」


 「知らない……?」


 玲奈の目が細くなる。

 明らかに嘘をついている。だが、証拠はない。


 「本当に、なにもしていないと?」


 「ええ、本当に。私は彼女の成長を、ただ……見守っていただけ」


 妖艶な微笑。

 まるで真実をわざとぼかすかのような語り口。そこには確信犯的な色香と知性があった。

 玲奈のこめかみが、僅かに動いた。


 「宝生先生。あなたの“ただの見守り”が、どれだけ生徒に影響を及ぼすか、ご自身が一番ご存知でしょう。

  何もしていない、などと平然と仰るのは――教師として、不誠実です」


 鋭い言葉が、講師室の空気を切り裂いた。

 しかし、聖子はまるで気にする様子もなく、あくまで優雅な所作で紅茶を飲み干した。


 「まぁ……そう言われると、なんだか私が悪いことでもしたみたいじゃない。

  あなた、嫉妬してるの?」


 その一言で、玲奈の瞳に一瞬だけ怒りの火が灯る。


 「嫉妬? 私は教師として当然の疑問を抱いているだけです。

  生徒の実力の急変化には、責任をもって説明すべきでしょう」


 「説明……ねぇ。だったらこう考えてみて。

  彼女が、才能に“目覚めた”のかもしれないって。

  あるいは――あなたが、彼女の可能性に気づくのが、少し遅れただけなのかも」


 「……」


 玲奈は唇を結び、何かを言いかけたが、言葉を飲み込んだ。

 その目には、氷のような冷静と、深い懸念がにじんでいる。だが同時に、それは怒りよりも、恐れに近いものだった。


 (この人は――ただの専門学校講師じゃない)


 聖子は、人の心の奥底を見抜いて、そこにそっと手を差し入れる術を知っている。演技指導という名のもとに、人の魂に爪を立てる力を持っている。

 それを、玲奈はよく知っていた。

 聖子は微笑んだまま、椅子に深くもたれかかり、言った。


 「あなたが彼女に与えられなかった何かを、私が与えたとして――それが悪いことかしら?」


 玲奈は一瞬、言葉を失った。

 だが次の瞬間、鋭く静かな声で告げる。


 「……鷹宮あかりを壊さないでください。演技を教えるために、生徒の心を侵す権利は、誰にもない」


 聖子は答えなかった。

 ただ、その場に静かに漂う緊張を、まるで楽しむように目を伏せ、やがて甘くささやいた。


 「さて――あの子は、どちらに育つのかしらね。

  あなたの“正しさ”の道か。

  それとも、私の“美しさ”の道か」


 玲奈は踵を返し、静かに部屋を出ていった。

 残された聖子は、窓辺に立ち、陽が沈みかけた空を眺めながら、うっすらと笑った。

 その瞳には、もう次の一手が映っているようだった。



***


 玲奈は講師室を出て、廊下を抜け、静かな足取りで自室のドアを閉める。

 鍵をかけ、カーテンを引き、部屋の照明を落とすと、室内はほのかに暖色の灯りに包まれた。玲奈は椅子に腰を下ろすと、胸元に手を添え、深くひとつ息を吐いた。


 (宝生聖子……相変わらず、煙のように掴みどころがない)


 指先でこめかみを押さえながら、玲奈はさきほどの会話を何度も思い返していた。聖子の口ぶりは明らかに“何か”を知っている。だが、証拠も確証もない。

 それでも、あかりのあの演技。

 目線、息遣い、言葉の間合い――あれは“何か”があったとしか思えなかった。


 (あの子は、いま揺れている。芽が出始めたばかりの柔らかな茎に、誰かの手がそっと添えられている……)


 その手が、自分であるべきだったのかもしれない。

 玲奈は立ち上がり、机の上に飾られている一枚の古い写真に目を向けた。

 舞台の幕が上がる直前、舞台袖で撮られた写真――そこには、若き日の自分と、かつての同期たちが写っていた。

 その中心に立つのは、自身の若かりし頃――鋭さと緊張感に満ちた目をした、男役としての如月玲奈。


 (私は、こうして“戦い”の中で生きてきた)


 毎日が挑戦で、選ばれなければ何者にもなれない日々。

 演技が足りないと言われれば、一晩中鏡の前に立った。歌が通らないと言われれば、血のにじむような発声練習を繰り返した。そして、仲間の中にあったのは――友情と、激しい競争心。


 (あのとき、私が信じていたのは、「努力すれば届く」ということだった)


 なのに今、目の前の生徒は、まるで近道を渡るように、急激に進化を遂げている。才能なのか、奇跡なのか、それとも、誰かの影響なのか。

 玲奈はデスクに座り、日報用のノートを開いた。

 その端に、静かに書き留める。


 「鷹宮あかり:表現力の変化顕著。要観察。外部影響の可能性あり」


 ペンを置き、窓の外を見る。

 夜の空は深く、静かだった。

 遠くで、寮の灯りがぽつりぽつりとともっている。


 (でも、私が見ているのは芝居の力。真実を表現するために、人がどこまで踏み込めるか。

  甘い感情や幻想ではない、“舞台に生きる者”の覚悟と魂)


 玲奈は静かに目を閉じた。


 (……あの子を、どこまで守れるか。どこまで引き上げられるか。それが、今の私に課された使命)


 演じることは、誰かになることではない。

 演じることは、自分の深層をえぐり出し、それを観客に差し出すこと。


 (その覚悟があるのか、鷹宮あかり……)


 窓の向こうに浮かぶ月に向かって、玲奈は一人つぶやいた。


 「あなたの道が、正しい舞台に繋がっていることを……私は、見極める」


 声は小さく、しかし凛としていた。

 如月玲奈――かつての男役トップスターは、今、ひとりの教師として再び“舞台”に立とうとしていた。

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