39:恋の台詞、その手前
午後の柔らかな日差しが、演技教室のガラス窓を通して床に長い影を落としていた。
生徒たちは緊張と期待の入り混じった面持ちで円を描くように座っている。
正面に立つのは、演技講師――如月玲奈。
彼女は静かに教壇に手をかけ、淡々と語り出した。
「前回伝えたとおり、今日は“恋愛の演技”をもう一度行います」
ざわっと、生徒たちの背筋がわずかに伸びた。
先週の演技では照れてまともに目も合わせられなかった者も多かった。
「まずは……私が手本を見せましょう。これは“愛の始まり”の一場面」
玲奈が一歩、舞台中央へ進み出る。
その瞬間、空気が変わった。
白シャツの裾を片手で掴みながら、彼女はふと誰かを見つめるように視線を上げた。たったそれだけで、部屋全体が彼女の作る“物語”に引き込まれていく。
「おまえが笑うたび、俺の時間は止まるんだ……。なのに、どうして俺はこんなにも……臆病なんだろうな」
低く柔らかい声。
ためらいと渇望をない交ぜにした目線。
吐息のようにこぼれる台詞の余白に、確かな“恋”が宿っていた。
息をのむ音が、部屋のあちこちから聞こえた。
玲奈が一礼し、言葉を返す。
「恋は、理屈よりも、感情の振れ幅です。心が震えたなら、それが正解」
その後、いくつかのペアが指名され、演技を披露していく。
中でも、紫堂エリカはさすがの完成度だった。彼女の男役は、完璧な立ち姿と声の低さを持ち、視線ひとつで相手役を包み込む。
「おまえを守りたいと思ったんだ……ただそれだけ。それが全部なんだよ」
台詞の終わりには、ささやかな拍手すら起きた。演技力と場の支配力において、エリカはやはり“特別”だった。
続いて、綾小路澪が舞台に立った。
彼女は少しだけ視線を逸らしながらも、落ち着いたトーンで台詞を口にする。
「……君を見ていると、不思議と怖くなくなる。恋なんて、知らなかったけど」
男役らしい骨格の表現と静かな情熱。完璧ではないが、誠実でまっすぐな想いが観る者の胸に残った。
そして、鷹宮あかりの順が回ってくる。
演技の台本を持って立つ彼女に、ざわめきが走る。
前回は、まともに相手の目を見ることすらできなかった――そんな印象が強かったのだ。けれど、その姿勢は迷いなく、視線は真っ直ぐだった。
あかりは一呼吸置いて、相手役をまっすぐ見つめる。
「あなたがここにいるだけで、私の世界は明るくなる。……バカみたいでしょ。
でも、本当なんだよ……ずっと前から、好きだったの」
その声は震えていなかった。
視線は揺れず、手のひらは緊張を押し込めながらも美しく開かれていた。
感情が伝わってきた。
恋に落ちていく心が、そこにあった。
沈黙。
そして――拍手。
「えっ……」とあかりが戸惑ったように目を丸くしたとき、
周囲の生徒たちは口々に言葉をかけていた。
「すごい……なんか、見ててドキドキした」
「前回と全然違うよ、あかりちゃん!」
「台詞の間の取り方も自然だった!」
水瀬大河が照れたように笑って言った。
「きっと、みんなで練習した成果だよね。……嬉しいな、あかりちゃんの成長」
「え、う、うん……ありがとう……」
顔を赤くしながら、あかりは小さく頭を下げた。それは照れと、後ろめたさの入り混じった表情だった。
だが、教室の隅で綾小路澪は、複雑な思いを胸に抱えていた。
(あかりは、夜遅くに帰ってきた。その理由を私は知らない)
「……ほんと、うまくなったね」
そう声をかけながらも、澪の中に言葉にできない“距離”が生まれていた。
講師席からは、如月玲奈がじっとその様子を見ていた。
(……宝生先生の演技指導ね。あの子、覚えが早い)
玲奈は机に組んだ指先を重ねながら、小さく目を伏せた。
(あの才能を、どう導くべきか――)
一方、教室の反対側で、紫堂エリカは拳を握りしめていた。
(……いつの間に、あんな演技ができるように……?)
内心に浮かんだ焦りを、エリカは表情に出さなかった。けれど、彼女の中で何かがざらりと音を立てていた。
***
【放課後 ・演技教室】
誰もいないはずの演技教室に、声が響いていた。
「……あなたのことなんて、最初から――好きじゃなかった」
乾いた板の床、白い壁、四方を囲む鏡。
その中心に立つのは、紫堂エリカ。
右手に台本を握り、何度も同じ台詞を繰り返していた。声の抑揚、感情の波、目線の揺れ。そのすべてをひとりで確認しながら、丁寧に演じる。
玲奈の手本とはまた違う、エリカ流の“愛の拒絶”。
完璧に、冷たく、美しく。
だが――その完成度の裏側で、エリカの心には焦りが渦巻いていた。
(……どうして、あの子が急にあんな演技ができるようになったの?)
午前のバレエでも、午後の演技でも。
鷹宮あかりは、少しずつ、確かに、エリカの背中に近づいてきている。
(違う。あの子はまだ“感情”に溺れてるだけ。技術も、表現も、私の方が……)
だが、心のどこかで――あの“伝わってしまう演技”に、自分が負けているのではないかという不安が蠢いていた。
台詞が途切れ、エリカは深く息を吐いた。
そのとき――
「……エリカ」
不意に聞こえた声に、エリカはわずかに肩を震わせた。
振り返ると、教室の入口に鷹宮あかりが立っていた。
「ごめん。……練習してる声が聞こえて……」
エリカは目を細める。
「何の用?」
「あの、今日の演技……私、まだうまくできてるのか自信がなくて……。
一緒に練習させてもらえないかなって」
一瞬、教室の空気が冷えるように感じた。
エリカはゆっくりと台本を閉じ、背を向けたまま言った。
「……私は、もう帰るわ」
「え……でも、さっきまで練習してたんじゃ……」
あかりの素直な声が、エリカの耳に刺さる。
無垢な眼差しが、プライドを揺さぶる。
「私とじゃ……嫌?」
エリカはぎゅっと台本を握りしめる。
そのまま、短く返す。
「そうね。はっきり言うわ。あなたとは練習したくないの」
空気が凍る。
けれど、あかりは引かなかった。
「それって……どうして? 私、邪魔?」
「違う」
振り返ったエリカの目は、どこまでも冷ややかで――その奥に、焦りがにじんでいた。
「私は、あなたと同じになりたくない」
その言葉は、刃のように鋭かった。あかりの胸の奥に、ずしんと落ちる。
「……そう。わかった」
それ以上は何も言わず、あかりは静かに立ち止まったまま、エリカを見送った。
高く響くヒールの音。それが消えたあと、教室には再び静寂が戻る。
教室に一人残されたあかり。
エリカの背中を見送ったまま、あかりはその場に立ち尽くしていた。
「……同じになりたくないって、どういう意味なんだろう」
鏡に映る自分の顔は、汗で濡れていた。額に手を当て、あかりは小さく息を吐いた。エリカがなぜ、そんなに自分に冷たくするのか。あかりにはまだ、わからないことばかりだった。
けれど――
(それでも、わたしは……逃げない)
そう心に言い聞かせ、あかりは一人、教室の中央へと歩み出た。
誰もいない舞台。
けれど、あかりの中では、エリカの視線も、澪の心のざわめきも、すべてがまだそこにあった。




