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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
36/140

36:掃除の終わり、始まりの余韻

 講堂の中は、再び静けさに包まれていた。

 窓から差し込む朝の光が、磨きあげられた床を照らしている。

 その光の中で、モップを持ったまま立ち尽くす鷹宮あかりと、綾小路澪。

 ふたりの間には、言葉にならない何かが漂っていた。


 「……終わったね」


 あかりが、ぽつりとつぶやく。


 「うん。……これで、ほんとうに終わり」


 澪の声は静かで、それでいてどこか少し、ほっとしたような響きを帯びていた。

 あかりはモップを舞台袖に戻しながら、ちらりと澪の横顔を見る。


 いつもよりも少し遠い。

 けれど、どこか近い。


 そんな矛盾した距離感が、胸の奥をやさしく締めつけた。


 講堂の重たい扉を押し開けると、朝の光がふたりを包み込んだ。

 空は高く、澄んでいる。草の香りと、風に混じる土の匂い。朝の空気はどこか甘くて、肌にやさしく触れてきた。


 並んで歩くふたり。

 けれど、数歩ぶんの距離が空いている。

 さっきまで、あんなに近くで掃除していたのに。

 あかりは心の中で、そっと澪に問いかけた。


 (澪……ほんとは、つらかったんじゃない? 一人で、掃除しろと命じられて……それでも、誰にも言わなかった)


 ――「あの人たちのために、あかりに何かあってほしくなかったから」


 その言葉が胸に残っている。

 あかりの中で、言い返したい気持ちと、黙って受け止めたい気持ちがせめぎ合っていた。


 (わたしも、澪のためにできることがあったはずなのに……)


 けれど、言葉は見つからなかった。


 寮が見えてきたころ、ようやく澪が口を開いた。


 「……今日は、昼から演技の授業だよね」


 「うん、たぶん……また、如月先生かな」


 「……ふふ、厳しいけど、ちゃんと見てくれてる。……怖いけど」


 その言葉に、あかりも思わず笑った。

 短く、柔らかく。どちらともなく、空気が少し和らいだ。

 ふたりの影が、朝日を受けて並ぶ。

 その影は、いつの間にか、もう歩幅をそろえていた。


**


 寮に戻ると、他の生徒たちもすでに起き始めており、朝食の準備の音が聞こえてきた。

 講堂の屋根が、陽の光でやさしく輝いている。


 ――澪が、ひとりで過ごした朝たち。

 ――あの講堂に響いた足音。

 ――そして、今朝、自分たちの間に流れた沈黙。


 (わたし……まだ、何も返せてない)


 その思いが、静かに胸に積もっていく。

 けれど同時に、あかりのなかに新しい何かが生まれ始めていた。

 言葉にするには、まだ小さすぎる感情。

 でも、それはたしかに、強くなりたいという願いだった。

 澪のように。

 誰かのために、立てる人になりたい。

 遠くから、大河とひまりの笑い声が廊下に響いた。

 寮の朝が、本格的に動き出す。


***


 食堂の窓から差し込む光はやわらかく、調理室からは焼きたてのパンの香りと、湯気を上げるスープの匂いが漂っている。

 早起き組の生徒たちがちらほらと席についているなか、角のテーブルに、あかり・澪・大河・さらの四人が並んで朝食をとっていた。


 「ねぇ、もう中間試験まであと1週間なんだよね……」


 と、さらがそっと口にすると、場の空気が少しだけ引き締まる。


 「あっという間だったなぁ。なんか、ついこの前入学したばっかりみたいなのに」


 大河が、パンをちぎりながらぼやく。

 澪はコーンスープを口に運びながら、小さく頷いた。


 「試験の結果が文化祭の配役に直結するって、プレッシャーがすごいよね。演技も、バレエも、日舞も声楽も……全部総合評価」


 「文化祭、ちゃんと舞台に立てるといいなぁ」


 さらがそっと手を合わせながら、空を見上げるように呟いた。

 すると、大河が、やや冗談めかした調子で言った。


 「ま、どうせトップはエリカなんだろうけどさ〜。あの人、もう“完成品”って感じだもん。

  バレエも声も演技も、ぜんぶ一人だけ次元が違うっていうか……はぁ。どうせ私は舞台の隅っこの木役かな」


 苦笑しながら肩を落とす大河に、あかりがすっと顔を上げる。


 「そんなことないよ。大河はいつも明るくて、演技のときもすごく空気を変えてくれるじゃん。私、大河の声、元気が出るって思ってるよ」


 「え、ほんと?」


 少し頬を赤くして、目をぱちぱちさせる大河。

 あかりはにっこり笑って言った。


 「うん。みんなで一緒に頑張ろうよ。順位がどうとかじゃなくて、自分の“今できる最高”を出すために」


 その言葉に、テーブルの空気がふっと明るくなる。


 「……あかりは、いつもそうやって言うね」 澪が、やや照れたように笑った。


 「でも、それが支えになるんだよな」 と、大河が苦笑しつつ背筋をしゃんと伸ばした。


 「うん。鷹宮さんの言葉、ちゃんと届いてる」


 さらがそっと呟くように言った。

 その横顔には、やさしい光が宿っていた。

 うつむきがちだった目に、ほんの少しだけ確信のようなものが浮かぶ。


 (鷹宮さんの笑顔、好き。あのまっすぐさに、私……何度も助けられてる)


 言葉にはしない。けれど、その想いは、静かに心の奥で灯をともす。

 窓の外では、朝の陽が少しずつ強くなっていた。

 試験の日は近づいている。

 けれど、それぞれの胸に――“いま”を懸命に生きる光があった。

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