36:掃除の終わり、始まりの余韻
講堂の中は、再び静けさに包まれていた。
窓から差し込む朝の光が、磨きあげられた床を照らしている。
その光の中で、モップを持ったまま立ち尽くす鷹宮あかりと、綾小路澪。
ふたりの間には、言葉にならない何かが漂っていた。
「……終わったね」
あかりが、ぽつりとつぶやく。
「うん。……これで、ほんとうに終わり」
澪の声は静かで、それでいてどこか少し、ほっとしたような響きを帯びていた。
あかりはモップを舞台袖に戻しながら、ちらりと澪の横顔を見る。
いつもよりも少し遠い。
けれど、どこか近い。
そんな矛盾した距離感が、胸の奥をやさしく締めつけた。
講堂の重たい扉を押し開けると、朝の光がふたりを包み込んだ。
空は高く、澄んでいる。草の香りと、風に混じる土の匂い。朝の空気はどこか甘くて、肌にやさしく触れてきた。
並んで歩くふたり。
けれど、数歩ぶんの距離が空いている。
さっきまで、あんなに近くで掃除していたのに。
あかりは心の中で、そっと澪に問いかけた。
(澪……ほんとは、つらかったんじゃない? 一人で、掃除しろと命じられて……それでも、誰にも言わなかった)
――「あの人たちのために、あかりに何かあってほしくなかったから」
その言葉が胸に残っている。
あかりの中で、言い返したい気持ちと、黙って受け止めたい気持ちがせめぎ合っていた。
(わたしも、澪のためにできることがあったはずなのに……)
けれど、言葉は見つからなかった。
寮が見えてきたころ、ようやく澪が口を開いた。
「……今日は、昼から演技の授業だよね」
「うん、たぶん……また、如月先生かな」
「……ふふ、厳しいけど、ちゃんと見てくれてる。……怖いけど」
その言葉に、あかりも思わず笑った。
短く、柔らかく。どちらともなく、空気が少し和らいだ。
ふたりの影が、朝日を受けて並ぶ。
その影は、いつの間にか、もう歩幅をそろえていた。
**
寮に戻ると、他の生徒たちもすでに起き始めており、朝食の準備の音が聞こえてきた。
講堂の屋根が、陽の光でやさしく輝いている。
――澪が、ひとりで過ごした朝たち。
――あの講堂に響いた足音。
――そして、今朝、自分たちの間に流れた沈黙。
(わたし……まだ、何も返せてない)
その思いが、静かに胸に積もっていく。
けれど同時に、あかりのなかに新しい何かが生まれ始めていた。
言葉にするには、まだ小さすぎる感情。
でも、それはたしかに、強くなりたいという願いだった。
澪のように。
誰かのために、立てる人になりたい。
遠くから、大河とひまりの笑い声が廊下に響いた。
寮の朝が、本格的に動き出す。
***
食堂の窓から差し込む光はやわらかく、調理室からは焼きたてのパンの香りと、湯気を上げるスープの匂いが漂っている。
早起き組の生徒たちがちらほらと席についているなか、角のテーブルに、あかり・澪・大河・さらの四人が並んで朝食をとっていた。
「ねぇ、もう中間試験まであと1週間なんだよね……」
と、さらがそっと口にすると、場の空気が少しだけ引き締まる。
「あっという間だったなぁ。なんか、ついこの前入学したばっかりみたいなのに」
大河が、パンをちぎりながらぼやく。
澪はコーンスープを口に運びながら、小さく頷いた。
「試験の結果が文化祭の配役に直結するって、プレッシャーがすごいよね。演技も、バレエも、日舞も声楽も……全部総合評価」
「文化祭、ちゃんと舞台に立てるといいなぁ」
さらがそっと手を合わせながら、空を見上げるように呟いた。
すると、大河が、やや冗談めかした調子で言った。
「ま、どうせトップはエリカなんだろうけどさ〜。あの人、もう“完成品”って感じだもん。
バレエも声も演技も、ぜんぶ一人だけ次元が違うっていうか……はぁ。どうせ私は舞台の隅っこの木役かな」
苦笑しながら肩を落とす大河に、あかりがすっと顔を上げる。
「そんなことないよ。大河はいつも明るくて、演技のときもすごく空気を変えてくれるじゃん。私、大河の声、元気が出るって思ってるよ」
「え、ほんと?」
少し頬を赤くして、目をぱちぱちさせる大河。
あかりはにっこり笑って言った。
「うん。みんなで一緒に頑張ろうよ。順位がどうとかじゃなくて、自分の“今できる最高”を出すために」
その言葉に、テーブルの空気がふっと明るくなる。
「……あかりは、いつもそうやって言うね」 澪が、やや照れたように笑った。
「でも、それが支えになるんだよな」 と、大河が苦笑しつつ背筋をしゃんと伸ばした。
「うん。鷹宮さんの言葉、ちゃんと届いてる」
さらがそっと呟くように言った。
その横顔には、やさしい光が宿っていた。
うつむきがちだった目に、ほんの少しだけ確信のようなものが浮かぶ。
(鷹宮さんの笑顔、好き。あのまっすぐさに、私……何度も助けられてる)
言葉にはしない。けれど、その想いは、静かに心の奥で灯をともす。
窓の外では、朝の陽が少しずつ強くなっていた。
試験の日は近づいている。
けれど、それぞれの胸に――“いま”を懸命に生きる光があった。




