35:講堂掃除最終日
朝の光が、寮のカーテンの隙間からそっと差し込んでいた。
空はよく晴れていて、蝉の声もまだ聞こえない、涼やかな夏の朝。
部屋の中はしんと静まり返っていたが、それでもあかりは、澪の気配で目を覚ました。
窓際に立つ彼女の背中は、朝日を受けて輪郭だけが柔らかく輝いていた。長い髪が肩に落ち、制服の襟元から覗くうなじが、なぜか少しだけ遠くに見える。
「……おはよう」
あかりが小さな声でそう言うと、澪はほんの少し振り返って、穏やかに笑った。
「おはよう」
その声はいつも通りに優しかったけれど、どこかに淡い膜がかかったような、ひとつ距離を置いた響きがあった。
あかりはその微かな変化を感じ取ったものの、何も言わず、ただ「うん」と頷いた。
やがて、二人は制服に着替え、朝食も取らずに寮を出た。講堂へ向かう道は、まだ人の気配が少ない。朝の光がレンガの校舎を染め、芝生には露が降りている。
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講堂の扉を開けると、ひんやりとした空気が二人を迎えた。
観客席には、舞台稽古用の木道具がいくつか積まれており、空気には埃と古い布のにおいが混ざっていた。
「……じゃあ、私は上手側からやるね」
澪が静かに言うと、あかりは「うん」と返し、反対の下手側へと足を運ぶ。二人の距離は、ちょうど舞台を挟んで対角線上。
モップを持つ手に力が入る。
あかりは、澪に背を向けたまま、床を磨きながら昨夜のことを思い出していた。
(言えなかった……本当のこと)
けれど、澪もまた、何も聞いてこなかった。
あの気配に気づいていないはずはない――それでも彼女は、問いを飲み込んだ。
それが優しさなのか、距離なのか――あかりには、わからなかった。
と、そのときだった。
講堂の扉がバン、と無遠慮に開かれた。
「なにこれ? ほんとに2人だけで掃除してるじゃない」
高い声が講堂に響いた。
扉のところに立っていたのは、2年生の3人組――罰則として澪に掃除を押しつけた、あの上級生たちだった。
一人は腕を組み、もう一人は軽く笑いながら中へ入ってくる。
「あらあら、最終日だから見に来てあげたのに……なんで勝手に1年と2人で掃除してるのよ」
その言葉に、澪が静かに顔を上げた。
けれど、彼女が何か言うより先に、あかりがモップを持ったまま一歩前に出た。
「……私が勝手に手伝ってるだけです」
その声は静かだったが、澪のすぐそばに立つことで、毅然とした意志をにじませていた。
2年生の一人が鼻で笑う。
「ふーん。そういうことにしておくわ。でもね、あんまり目立つと良くないわよ? “出しゃばり”って、上には嫌われるのよ?」
あかりの顔がわずかにこわばる。
まさにそのときだった。
舞台袖の裏側から、すっと人影が現れた。
「あら、にぎやかね。こんな朝から」
静かな、けれど強く通る声だった。
「講堂掃除は2年生の担当だったはずなのに、どうして1年のあなたたちがしているのかしら?」
振り返ると、そこには如月玲奈が立っていた。トレーニングウェアに身を包み、朝の散歩か軽い運動の途中だったのだろう。
だが、その目は冴えていた。完全に場の空気を掌握している。
2年生たちの顔が一瞬で引きつる。澪もあかりも、思わず動きを止める。
「い、いえ……これはその、ちょっと……確認に来ただけで……」
「うん、うん、ね。1年の子が、勝手に掃除を手伝ってたっていうか……自主的にね、やってるみたいで」
2年生たちは口々に弁解を始めたが、玲奈は彼女たちの言葉には目もくれず、ただあかりと澪に視線を向けた。
「鷹宮、綾小路。事実を教えてくれる?」
あかりは口を開きかけた。
昨夜のことがよぎる。
澪が一週間、何も言わずに掃除をしていたこと。自分もその背中に動かされ、共に過ごしてきた時間。
そして、今も――2年生たちがあかりを脅すような口ぶりをしたこと。
このまま玲奈に話せば、きっとすべてが明るみに出る。2年生たちは罰を受け、澪も救われるかもしれない。
(でも――)
そのとき、不意に、澪の声があかりの横から静かに発せられた。
「私たちが……自主的に掃除しているだけです」
玲奈の視線が、澪に移る。
その眼差しは、ほんの一瞬だけ深くなる――けれど、それ以上は何も言わなかった。
「そう。……なら、いいの」
短く、そう言って玲奈は踵を返し、静かに講堂を後にした。
2年生たちは、玲奈が完全に背を向けたのを見届けると、そそくさと講堂を離れた。
誰も、あかりにも澪にも、もう何も言わなかった。
**
講堂には再び、静けさが戻ってきた。
あかりはモップを持ったまま、澪のほうを振り向いた。
「……どうして本当のこと、言わなかったの?」
問いかけは、小さな声だった。でもその中には、戸惑いと、怒りと、優しさと――言いようのない想いが交じっていた。
澪は窓の外を見つめたまま、少しだけ唇を引き結んで、それから穏やかに答えた。
「……わたし、誰かに守ってもらうためにここに来たんじゃないの。
それに、あの人たちのために、あかりに何かあってほしくなかったから」
あかりは言葉を失い、ただ澪の横顔を見つめるしかなかった。
朝の光が、講堂の床をゆっくりと移動していく。掃除の時間は、たしかに終わろうとしていた。
けれど、二人の絆は静かに、確かに、別の形で深まり始めていた。




