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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
34/140

34:胸の奥のざわめき

 校舎の明かりがすべて落ち、天翔の敷地を静寂が包んでいた。

 月のない夜。暗い空に星が散らばり、どこか冷たく感じる風が寮の窓を揺らしている。その静けさを破らぬように、ひとりの少女が足音を忍ばせて寮の玄関に入ってきた。

 鷹宮あかり。

 講師棟での“演技指導”を終え、ようやく帰ってきたのだった。


 (遅くなっちゃった……誰にも会いたくないな)


 薄暗い廊下を進みながら、あかりは心臓の鼓動を押さえ込むように胸元に手を当てた。まだ、聖子の香りがどこかに残っている気がして――頬がほんのり熱を帯びていた。

 足音をできるだけ抑え、寮の洗濯室の前を通りかかったときだった。


 「……あれ、あかり?」


 突然かけられた声に、あかりの肩が跳ねた。

 目を向けると、洗濯機の前でタオルを取り出していたのは――**橘颯真**だった。

 1年生の中でもあかりに次ぐ長身で、寡黙な男役志望。寮では無口な方だが、観察力と洞察力に優れていると噂されている生徒だ。


「……お、おかえり。今、戻ったの?」


「う、うん。ちょっとね……。遅くなっちゃっただけ」


 目が合った瞬間、あかりはバッと視線を逸らし、早足で通り過ぎようとした。

 頬が熱いのが自分でもわかる。心のどこかで「バレてはいけない」と直感が叫んでいた。


 「……?」


 あかりの後ろ姿を見送りながら、颯真は洗濯かごを持つ手を止めた。


 (あれ……今の、あかり……なんか、変だな)


 颯真はしばし考えたあと、洗濯物を無言でたたみはじめた。

 “知ろうとしすぎないこと”――寮生活での処世術のひとつを、彼女は理解している。


**


 あかりは階段を駆け上がるようにして、自分たちの部屋202号室のドアを開けた。

 部屋の灯りは薄く、ベッド脇のスタンドライトだけが灯っていた。そのベッドに座っていたのは、ルームメイトの綾小路澪だった。

 眠るには早い格好。読書でもしていたのか、膝には戯曲の薄い台本が置かれている。澪はあかりの姿を見ると、本を閉じ、静かに尋ねた。


 「……どこに行っていたの?」


 澪の声は淡々としていたが、その中に微かな温度が混じっていた。

 “心配していた”という事実を、直接は口に出さない――それが彼女らしい。

 あかりは一瞬立ち止まり、答えを探すように視線を泳がせた。


 「えっと……ちょっとだけ、風、吸いたくなって。講堂の外のベンチでボーッとしてたの」


 なるべく自然に――そう心がけた言い方だったが、自分で言っていても嘘っぽく思える。でも、それ以上の言葉が、どうしても喉の奥に引っかかって出てこなかった。

 澪はあかりの言葉をしばらく受け止めるように黙っていたが、それ以上は深く追及しなかった。


 「そう。……風邪、ひかないようにね」


 それだけ言って、スタンドライトのスイッチを落とした。

 部屋は静かな闇に包まれる。

 ベッドに滑り込んだあかりは、布団の中で小さくため息を吐いた。澪の優しさに甘えた自分に、ほんの少しだけ罪悪感が疼いた。


 (言えない……今夜のこと。なんだか、自分の中でもまだ整理できてないから)


 布団の中で瞼を閉じる。

 けれど、まぶたの裏には――宝生聖子の微笑みが、まだ薄く残っていた。


**


 夜の寮は、ひっそりと静まり返っていた。

 耳をすませば、かすかに聞こえるのは風の音、遠くで軋む建物の軋み、そして隣のベッドから聞こえる澪の寝息だけ。

 鷹宮あかりは、自分のベッドの中で天井を見つめていた。

 シーツの中は温かく、毛布に包まれているのに、胸の奥だけがざわついている。


 (どうして……こんなに、ドキドキしてるの?)


 心臓の鼓動が、はっきりとわかる。

 それはまるで、自分の身体じゃないみたいに、リズムを刻んでいた。


 そっと胸に手を当てる。

 “トクン、トクン”――静かな闇の中で、その音だけが妙に大きく響いている気がした。


 (宝生先生の……声。あの目。指先。……演技の指導、だったはずなのに)


 思い返せば、部屋に入った瞬間から、空気はどこか別の世界のものだった。間接照明のやわらかな灯り、ワインレッドの絨毯、濃い香水の香り。まるで舞台の一場面のようだった。

 聖子の指が、顎に触れた瞬間。

 肌に残る熱がまだ消えていない。

 呼吸が乱れたのは、あのときだけじゃない――最初からずっと、聖子の空気に呑まれていた。


 (こんな……状態で、恋愛の演技なんて、できるようになるのかな……?)


 ふと、そんな疑問が浮かぶ。


 演じることと、感じることは別だと、先生たちは言った。

 だけど今夜、自分が感じたこの動悸は――まさしく“恋に落ちる瞬間”のようで。


 (わたし……先生に、恋してるの? それとも、ただ圧倒された……だけ?)


 自分でも、答えがわからない。

 ただ、確かなのは――もう“前の自分”には戻れないということ。

 “誰かを好きになるって、こういうことなのかな”

 そんな思いが、胸の奥にほのかに灯る。


 そして、もうひとつ思い返されたのは――階段で出会った如月玲奈のこと。


 (「あなたは、何を信じてこの学校に来たの?」……そう聞かれた)


 まっすぐな声だった。冷たくも、どこか痛みを孕んでいて。玲奈の目は、ただの規則違反を咎める目じゃなかった。


 (……先生も、何かを知ってる。宝生先生のことを……)


 玲奈の視線は、宝生聖子の存在を鋭く見抜いているようだった。まるで、「気をつけなさい」と無言で告げているように。


 (信じて来たもの……夢、だった。舞台で、誰かに届く演技をしたいって)


 毛布の中で、あかりはそっと身体を丸めた。

 あたたかいはずなのに、心の一部がひんやりとしている。


 宝生聖子――あの人の光に惹かれる自分と、

 如月玲奈――あの人のまなざしに揺さぶられる自分。


 その間で揺れる小さな舟のように、あかりの心は静かに波立っていた。


 (わたし、これからどうなるんだろう)


 答えの出ない問いを胸に、あかりは目を閉じた。

 そしていつしか、静かな眠りの底へと落ちていった。

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