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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
33/140

33:キスまでの距離

 静かに、ゆっくりと、聖子の顔が近づいてくる。

 視線が重なり、唇がすぐそこにある。


 ──来る。


 そう思った瞬間、あかりは自然と目を閉じていた。

 緊張と期待が、心と身体をぎゅっと締めつける。

 唇が触れる感触を想像しただけで、熱が頬にのぼる。


 でも。


 ……こない。


 時間が止まったように、数秒が流れる。

 まぶたの裏で、あかりは静かに震えていた。

 不安? 恥ずかしさ? それとも……欲望?

 そっと目を開けると、そこにはほほ笑む聖子の顔があった。ほんの数センチ、距離はそのままに。

 けれど――キスは、されていなかった。


「……え?」


 思わず、あかりの口からこぼれた。


「ふふ、いい顔になったわね」


 聖子は小さく笑いながら、指先であかりの頬に触れる。

 愛しむように、撫でながら、静かに言った。


「この続きは……また今度」


「……え?」


「今日は、ここまで。あなたには、まだこの“焦らし”の気持ちも覚えてほしいの。“満たされない”という感情も、恋愛には大切よ」


 その言葉に、あかりは言葉を失った。

 キスを拒まれたわけではない。

 むしろ、もてあそばれたとも思えるくらいに、あたたかく、深く見つめられていた。

 でも、触れてこなかった唇。


「さあ、もう帰りなさい。夜は長いわ。焦らなくていいのよ」


 聖子はすっと立ち上がり、扉の方を指差した。

 その仕草さえ、舞台の一場面のように、完成されていた。

 あかりは立ち上がる。

 足がふわふわして、心もまだどこか半分夢の中だった。


「……ありがとうございました」


 口にしたその言葉が、どこか物足りなくて、自分でも可笑しかった。

 ドアを開けて、振り返ると、聖子が微笑んでいた。

 その微笑みは、なにもかもを見透かしたように静かで――

 そして、あかりの胸の奥を、じんわりと焼きつけていった。


 廊下に出たとたん、冷たい空気が肌をなぞる。


 いままで部屋の中で触れられていた温度が、じわじわと遠のいていく。

 それだけで、寂しさにも似た感情があかりの中に浮かんだ。


(また今度、っていつ?)


 狐につままれたような気分。

 でも、それ以上に、もう一度あの部屋の灯りの下に戻りたいという衝動が、心のどこかで静かに息をし 始めていた。



***


 夜の講師棟は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 灯りの落ちた廊下に、非常灯の緑色だけがぼんやりと浮かび、窓の外から吹き込む夜風が、薄いカーテンを静かに揺らしている。


 その中を、ひとりの少女が、ゆっくりと階段を下りていた。


 鷹宮あかり――演技補習の名目で宝生聖子の部屋を訪れてからの帰り道だった。

 心臓の鼓動はまだ、ほんのりと早かった。


 部屋を出た瞬間の、聖子の微笑み。

 指先でそっと顎を持ち上げられたあの感覚。

 何かを試されているような、でも、それ以上に――飲み込まれそうな色気と、包み込むような声。


 (夢……みたいだった)


 五階から続く階段は、ひとつ下りるごとに空気が変わる気がした。

 照明は所々落とされ、廊下の向こうからは、時折古い建物特有の軋む音が響く。

 誰もいないはずの講師棟。けれど、どこかで誰かがこちらを見ているような気配が、夜の気温よりも冷たく、背筋を撫でていく。


 ――けれどあかりの足取りは、どこかふわふわと浮いていた。

 まるで夢からまだ醒めきらないまま、現実に戻るための階段を、ゆっくりと下りているようだった。


 四階。

 三階。

 そして二階を過ぎ、もう少しで一階という踊り場まで来たときだった。


 「――あなた、こんな時間に何をしているの?」


 階段の踊り場。

 急に射した鋭い声に、あかりは肩をびくりと跳ねさせた。

 振り返ると、そこには漆黒のシルエットが立っていた。

 如月玲奈。天翔の伝説的な元トップスターにして、今は演技指導を担当する厳しい講師の一人。

 そのまなざしは、暗がりの中でも鋭く、まるで小さな罪も見逃さない夜の猛禽のようだった。


 「こ、こんばんは……如月先生……」


 あかりはぺこりと頭を下げ、笑みを浮かべようとしたが、声が少し震えた。

 玲奈は数段上からあかりを見下ろしていた。足音ひとつ立てずにそこに現れたその姿は、どこか舞台の上の演技のようで、現実と幻想の境を曖昧にさせた。


 「挨拶はいいわ。それより、講師棟には、夜間は立ち入り禁止のはず。……あなたは、どこから来たの?」


 視線が、あかりの背後――つまり、階段の上へと移る。

 あかりは思わず言葉に詰まった。どう答えればいいのか、迷ってしまう。

 聖子に「誰にも言わないで」と言われたわけではない。でも、妙に胸の奥がざわついて、説明がうまく口から出てこない。


 「えっと……その、ちょっと……演技のことで、先生に……」


 「先生、とは?」


 玲奈の声音がわずかに低くなる。あかりはうつむいたまま、小さく答えた。


 「宝生……先生、です」


 玲奈の目が、一瞬だけ細められた。

 まるで何かを考えるように、長い沈黙が流れる。


 踊り場の窓から、夜風が吹き込んだ。

 あかりの髪がそっと揺れ、雨上がりの匂いが漂う。

 玲奈はようやく口を開いた。


 「……そう。宝生先生のところにね。……夜の演技指導、というわけね」


 その声には、何かを含んだような色があった。

 皮肉にも、あきれにも、あるいは少しだけ――憂いのような。


 あかりは息を飲んだ。

 玲奈は一歩、階段を下りた。あかりのすぐ隣まで近づき、そのまま階段を背にして立ち止まる。


 「……あなた。何を信じて、この学校に来たの?」


 問いかけは、唐突で、あかりの胸を打った。戸惑いながらも、彼女は静かに答える。


 「夢……です。舞台に立って、誰かの心に届く演技がしたくて……」


 玲奈はその言葉を聞き、静かに目を伏せた。


 「それなら――見失わないことね。どんな光に照らされても、自分の立つ場所を」


 それだけを言い残し、玲奈は踵を返した。


 あかりはその背中を、しばらく見送っていた。冷たい夜の空気が、まだ火照る自分の頬を冷やしていく。そのとき、心のどこかに、灯りのような違和感が灯った。

 あのときの聖子の瞳と、玲奈の言葉――。


 (私は……ちゃんと、自分で選べているのかな)


 小さな不安を抱えたまま、あかりは階段を下りて、夜の寮へと戻っていった。

 静寂はまた、講師棟に戻った。

 闇は深まり、だがその奥には、まだ知られぬ感情と秘密が潜んでいる――。

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