32:扉の向こうの妖しい誘惑
扉の向こうには、想像をはるかに超えた空間が広がっていた。
天井の高いサロンのような部屋。ワインレッドと漆黒を基調としたインテリア、重厚なソファ。舞台に立つ者の“美意識”が隅々まで行き届いているようだった。
ドアが静かに閉じられると、世界が変わったような気がした。
ここは、教室じゃない。舞台でもない。
けれど確かに、何かの“幕”が上がる気配がする。
宝生聖子は、薄暗い間接照明の中で、ゆっくりとターンするように身を翻し、あかりを部屋の奥へと誘った。
その姿は、まるでかつて聖子が男役だったときのように洗練されていた。いや、講師として磨かれた“見せ方”なのかもしれない。
身にまとっていたのは、黒のサテン地のワンピース。
胸元は大胆にカットされ、谷間の曲線が照明に艶やかに浮かぶ。腰のラインは柔らかくも滑らかで、女性の体の奥行きと曲線を容赦なく引き出していた。
まるで、官能をデザインしたような一着だった。
あかりの目が自然と壁に飾られた一枚の額に引き寄せられる。
男役時代の宝生聖子――凛然とした立ち姿、精悍な眉、女性離れした立ち振る舞いに、あかりは思わず声を漏らした。
「……かっこいい……」
「ふふ、ありがとう。でもあれは過去の私よ」
聖子は妖しく笑みを浮かべた。その笑みの意味が掴めず、あかりは無意識に背筋を正す。
「座って。気楽にね、今夜は授業じゃないから」
ワンピース姿の宝生聖子が、微笑みながら紅茶を注ぐ。
女らしい柔らかな微笑み。その一方で、その眼差しはどこか深く底の見えない色をしている。
あかりは促されるままソファに腰を下ろした。緊張のせいか、背筋が自然と伸びる。
「あなた、霧島先生の補習を受けてるって聞いたわ」
聖子は、テーブルにカップを置きながら、何気ない風を装ってそう言った。
「はい……。成績が悪くて……」
「成績ね。確かに試験では数字がすべて。でも私は、舞台は数字だけじゃ作れないと思ってる」
そう言って聖子は、紅茶を一口含む。あかりは黙って彼女を見つめた。
「あなたは“声”がいい。甘くて、柔らかくて。誰かを安心させる響き。だけど、その良さが合唱ではかえって邪魔になることもあるわね」
「宝生先生も、そう思いますか?」
「あら、悪い意味じゃないの。問題は、あなたが自分の魅力をまだ理解してないこと」
あかりの目が驚きに揺れる。聖子は、そんなあかりの表情を愉しむように微笑んだ。
「ねえ、あかり。あなた自身は、自分の声にどういう印象を持ってるの?」
「えっと……優しいって言われたことはあります。子守唄みたいって。でも、自分では……よくわからなくて」
「それが問題ね」 と、聖子の声が少し低くなる。
「あなたは“演じる”ことを学びに来たんでしょう? だったら、まずは“自分”を知らないと。“誰かになる”ことは、“自分を知っている”人にしかできないのよ」
あかりは、紅茶を見つめながら、ゆっくりと言葉を探す。
「宝生先生は、私に……どうなってほしいんですか?」
「そうね……」
その問いに、聖子は答えずに少し間を置いた。そして視線をあかりの瞳に絡ませるようにして、こう続けた。
「私は――如月玲奈が、なぜあなたに目をつけたのかが知りたいのよ」
「なぜって……」
「彼女が合格に強く推したのは、あなたが初めてだもの。気になるじゃない」
微笑みは変わらない。だが、どこか――鋭い意志のようなものが、その奥底に垣間見えた。
あかりはドキドキしていた。聖子の醸し出す雰囲気は優しさとも違う、不思議な熱を帯びている。居心地が悪いわけではない。むしろ、何か引き寄せられてしまうような磁力。
彼女の声、仕草、ひとつひとつが色香を含み、紅茶の香りと共にあかりを包み込む。
「――それに。恋愛の演技が苦手なら、実際に誰かに恋をしてみるのが一番の近道よ」
さらりと、聖子は言った。
「試してみる?」
紅茶のカップを傾けた聖子の唇が、わずかに意味深な笑みを描いた。
「た、た、試す……?」
あかりは思わず、手の中のカップを見つめて目を逸らす。胸の奥がざわめいていた。
「緊張してるのね」
聖子がふっと笑う。
その声は低く、湿度を含んだように滑らかだった。
近づいてきたその香りに、あかりは思わず身体を固くした。
「……あの……試すって……一体……何を……」
「“恋を知る演技”を学びに来たのでしょう?」
囁くようなその言葉に、胸の奥がじんと熱を帯びる。
聖子の指が、あかりの顎に触れた。
「演技は感情の模倣。でもね、本物を知らないまま模倣しようとすると、不自然になるの。あかり、あなたの演技は心が震えてない」
「……本物を、知れば……震えますか?」
自分でも信じられないほどかすれた声が漏れた。
聖子は満足げに微笑み、指先であかりの頬をなぞった。
「震えるわ。自分の奥にある、“知らなかった自分”を呼び覚ませば」
そう言って、彼女は優しくあかりの髪に触れ、そっと首筋を見つめた。
その視線は、まるで愛おしい台詞を読むように、繊細で丁寧だった。
「あなたは、恋というものを“触れたことのない概念”として演じてる。でも、恋はね、もっと濡れてて、熱くて、理屈じゃないのよ」
聖子の手が、あかりの肩に触れ、静かに滑る。
その指の動きは、優雅で、演出されたように自然だった。
まるで、役者の“感情のスイッチ”を入れるように、聖子の手が、あかりの腕、背中、そして腰へと流れていく。
「怖がらなくていい。これはレッスンの一環よ」
聖子の目が真剣だった。けれどその奥には、授業では決して見せない、一人の女としての熱が秘められている。
ワンピースの深いスリットから覗く脚線美。
ひとつひとつの動きが、あかりの視線を釘付けにする。
気づけば、呼吸が浅くなっていた。
「どう? 男役として、観察してみて。私の“恋する女”の演技を」
聖子はそう言って、そっとあかりの胸元に手を添えた。
「あかり。あなたが男役だとしても、女を抱いたことがなければ、女の心なんて演じられない」
(抱く?演じるために、抱く?)
その言葉は刺激的で、けれど不思議なほど理にかなっていた。
あかりの頬が熱を帯びる。自分でも驚くほど、身体の奥がじんわりと反応していた。
「あの……宝生先生……えっと……」
聖子の唇が、震えるほどの距離まで近づいた。




