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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
32/140

32:扉の向こうの妖しい誘惑

 扉の向こうには、想像をはるかに超えた空間が広がっていた。

 天井の高いサロンのような部屋。ワインレッドと漆黒を基調としたインテリア、重厚なソファ。舞台に立つ者の“美意識”が隅々まで行き届いているようだった。

 ドアが静かに閉じられると、世界が変わったような気がした。

 ここは、教室じゃない。舞台でもない。

 けれど確かに、何かの“幕”が上がる気配がする。


 宝生聖子は、薄暗い間接照明の中で、ゆっくりとターンするように身を翻し、あかりを部屋の奥へと誘った。

 その姿は、まるでかつて聖子が男役だったときのように洗練されていた。いや、講師として磨かれた“見せ方”なのかもしれない。

 身にまとっていたのは、黒のサテン地のワンピース。

 胸元は大胆にカットされ、谷間の曲線が照明に艶やかに浮かぶ。腰のラインは柔らかくも滑らかで、女性の体の奥行きと曲線を容赦なく引き出していた。

 まるで、官能をデザインしたような一着だった。


 あかりの目が自然と壁に飾られた一枚の額に引き寄せられる。

 男役時代の宝生聖子――凛然とした立ち姿、精悍な眉、女性離れした立ち振る舞いに、あかりは思わず声を漏らした。


「……かっこいい……」


「ふふ、ありがとう。でもあれは過去の私よ」


 聖子は妖しく笑みを浮かべた。その笑みの意味が掴めず、あかりは無意識に背筋を正す。


「座って。気楽にね、今夜は授業じゃないから」


 ワンピース姿の宝生聖子が、微笑みながら紅茶を注ぐ。

 女らしい柔らかな微笑み。その一方で、その眼差しはどこか深く底の見えない色をしている。

 あかりは促されるままソファに腰を下ろした。緊張のせいか、背筋が自然と伸びる。


「あなた、霧島先生の補習を受けてるって聞いたわ」


 聖子は、テーブルにカップを置きながら、何気ない風を装ってそう言った。


「はい……。成績が悪くて……」


「成績ね。確かに試験では数字がすべて。でも私は、舞台は数字だけじゃ作れないと思ってる」


 そう言って聖子は、紅茶を一口含む。あかりは黙って彼女を見つめた。


「あなたは“声”がいい。甘くて、柔らかくて。誰かを安心させる響き。だけど、その良さが合唱ではかえって邪魔になることもあるわね」


「宝生先生も、そう思いますか?」


「あら、悪い意味じゃないの。問題は、あなたが自分の魅力をまだ理解してないこと」


 あかりの目が驚きに揺れる。聖子は、そんなあかりの表情を愉しむように微笑んだ。


「ねえ、あかり。あなた自身は、自分の声にどういう印象を持ってるの?」


「えっと……優しいって言われたことはあります。子守唄みたいって。でも、自分では……よくわからなくて」


「それが問題ね」 と、聖子の声が少し低くなる。


「あなたは“演じる”ことを学びに来たんでしょう? だったら、まずは“自分”を知らないと。“誰かになる”ことは、“自分を知っている”人にしかできないのよ」


 あかりは、紅茶を見つめながら、ゆっくりと言葉を探す。


「宝生先生は、私に……どうなってほしいんですか?」


「そうね……」


 その問いに、聖子は答えずに少し間を置いた。そして視線をあかりの瞳に絡ませるようにして、こう続けた。


「私は――如月玲奈が、なぜあなたに目をつけたのかが知りたいのよ」


「なぜって……」


「彼女が合格に強く推したのは、あなたが初めてだもの。気になるじゃない」


 微笑みは変わらない。だが、どこか――鋭い意志のようなものが、その奥底に垣間見えた。

 あかりはドキドキしていた。聖子の醸し出す雰囲気は優しさとも違う、不思議な熱を帯びている。居心地が悪いわけではない。むしろ、何か引き寄せられてしまうような磁力。

 彼女の声、仕草、ひとつひとつが色香を含み、紅茶の香りと共にあかりを包み込む。


「――それに。恋愛の演技が苦手なら、実際に誰かに恋をしてみるのが一番の近道よ」


 さらりと、聖子は言った。


「試してみる?」


 紅茶のカップを傾けた聖子の唇が、わずかに意味深な笑みを描いた。


「た、た、試す……?」


 あかりは思わず、手の中のカップを見つめて目を逸らす。胸の奥がざわめいていた。


「緊張してるのね」


 聖子がふっと笑う。

 その声は低く、湿度を含んだように滑らかだった。

 近づいてきたその香りに、あかりは思わず身体を固くした。


 「……あの……試すって……一体……何を……」


 「“恋を知る演技”を学びに来たのでしょう?」


 囁くようなその言葉に、胸の奥がじんと熱を帯びる。

 聖子の指が、あかりの顎に触れた。


 「演技は感情の模倣。でもね、本物を知らないまま模倣しようとすると、不自然になるの。あかり、あなたの演技は心が震えてない」


 「……本物を、知れば……震えますか?」


 自分でも信じられないほどかすれた声が漏れた。

 聖子は満足げに微笑み、指先であかりの頬をなぞった。


 「震えるわ。自分の奥にある、“知らなかった自分”を呼び覚ませば」


 そう言って、彼女は優しくあかりの髪に触れ、そっと首筋を見つめた。

 その視線は、まるで愛おしい台詞を読むように、繊細で丁寧だった。


 「あなたは、恋というものを“触れたことのない概念”として演じてる。でも、恋はね、もっと濡れてて、熱くて、理屈じゃないのよ」


 聖子の手が、あかりの肩に触れ、静かに滑る。

 その指の動きは、優雅で、演出されたように自然だった。

 まるで、役者の“感情のスイッチ”を入れるように、聖子の手が、あかりの腕、背中、そして腰へと流れていく。


 「怖がらなくていい。これはレッスンの一環よ」


 聖子の目が真剣だった。けれどその奥には、授業では決して見せない、一人の女としての熱が秘められている。

 ワンピースの深いスリットから覗く脚線美。

 ひとつひとつの動きが、あかりの視線を釘付けにする。

 気づけば、呼吸が浅くなっていた。


 「どう? 男役として、観察してみて。私の“恋する女”の演技を」


 聖子はそう言って、そっとあかりの胸元に手を添えた。


 「あかり。あなたが男役だとしても、女を抱いたことがなければ、女の心なんて演じられない」


(抱く?演じるために、抱く?)


 その言葉は刺激的で、けれど不思議なほど理にかなっていた。

 あかりの頬が熱を帯びる。自分でも驚くほど、身体の奥がじんわりと反応していた。


 「あの……宝生先生……えっと……」


 聖子の唇が、震えるほどの距離まで近づいた。

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