31:宝生聖子の誘い
翌朝――。
鷹宮あかりは目覚めた瞬間から、どこか落ち着かない気持ちでいた。夢の中で誰かの声が聞こえた気がする。やさしく、けれど艶やかに耳を撫でていくような声。
「恋愛の演技ができるようになりたいなら、明日の夜、私の部屋に来なさい」
昨夜、花壇で出会った宝生聖子の言葉が、まるで魔法のように心の奥に残っていた。
「どうしよう……ほんとうに、行っていいのかな……?」
朝の身支度をしながら、あかりは頬を両手でそっと包んだ。鏡の中の自分が、ほんのり赤らんで見えるのは気のせいじゃない。わけもなく胸が高鳴る。
その様子を、ベッドで目を覚ました綾小路澪は、ちらりと横目に見ていた。
「……朝から、浮かれてる?」
あかりが澪の視線に気づいたときには、もう彼女は背を向けて髪をまとめていた。
「おはよう、澪!」
「……おはよう。今日はなんだか機嫌いいね」
「そ、そんなことないよ!」
急に弾けるような声を出してしまい、自分でも恥ずかしくなる。頬がまた熱くなるのを感じた。
午前の授業中も、どこか上の空なあかりだった。ダンスでも、声楽でも、つい気を抜いてしまい、先生に名前を呼ばれることもあった。それでも、あかりの表情はやわらかく、どこか甘く夢を見ているようだった。
「何か、いいことあった?」
食堂で昼食をとっていると、向かいの水瀬大河がにやにやとした顔で茶化すように聞いてきた。
「べ、別に……! 何もないよ!」
「ふーん? それにしては、今朝からずっとふわふわしてるけどな〜?」
大河の言葉に、澪が静かに箸を止め、ちらりとあかりに目を向けた。
「……たしかに。何か、あるの?」
「え? な、なんでそんなに詮索するのー! ほんとに、なんでもないよ!」
あかりは笑ってごまかすように、慌てて味噌汁に口をつけた。けれど、浮き立つ気持ちは隠しきれない。どうしても気になってしまうのだ。あの、宝生聖子の言葉の真意が――。
そして、授業がすべて終わった放課後――。
あかりは他の生徒たちの話し声を背に、一目散に教室を飛び出した。
「じゃ、またねーっ!」
駆け足で廊下を抜け、夕暮れの寮へ向かうあかりの背中は、少しだけ弾んでいた。
その様子を、いつもよりゆっくりと片付けをしていた澪が目にした。
「……あの子、今日どうしたの?」
いつもなら、放課後は澪と一緒に歩いて帰るのに。今日は、まるで何かに追われるように走り出していった。
「急ぎの用事……?」
しかし、どこか引っかかるものがあった。
部屋に戻ってくる頃には、何かが変わっているかもしれない――。そんな予感だけが、澪の胸に静かに灯っていた。
***
廊下の隅にかかる時計の針が、ぴたりと二十時を指した。
鷹宮あかりは、その瞬間、そっと立ち上がった。まるで誰にも気づかれないように――いや、気づかれてはいけないという緊張感を纏いながら。
講師棟へ続く道は、人影もなく静まり返っていた。足音が石畳に小さく響くたび、鼓動が一つ跳ね上がる。
「……大丈夫、ただの特別レッスン。恋愛の演技が上手くなるための、ただの……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、あかりは講師棟の最上階を目指した。
講師棟の内装はシックで落ち着いた雰囲気だったが、その静けさがかえって心臓の鼓動を際立たせた。
柔らかい絨毯が敷かれた廊下の突き当たり、一番奥の部屋。その扉の向こうに、元・男役の2番手、宝生聖子が待っている。
五階、一番奥の部屋の前に立つ。
深い深呼吸をしてから、指先で軽くドアをノックするとすぐにドアが開いた。
「いらっしゃい、待ってたわ」
そこにいた宝生聖子は、昼間とはまるで別人だった。
胸元の大きく開いた黒のシルクのブラウス。首筋に添うような繊細なチェーンのネックレス。濡れたような艶のあるリップに、細く引かれたアイライン。
その姿は“専門学校の講師”ではなく、一人の“女性”だった。
あかりは息を飲んだ。
「どうぞ、上がって」
宝生の声は、低く、柔らかかった。あかりの心臓が早鐘を打ち始める。
言葉にならないまま頷き、彼女の部屋に足を踏み入れると、甘く香るアロマと間接照明が、静かに二人を包んだ。
なにかが、始まろうとしている。




