30:ブリッジの子
演技の自主練習を終え、寮へと帰っていく仲間たちの背中を見送ったあとも、鷹宮あかりは校舎に残っていた。
空はやわらかなオレンジ色に染まり、専門学校の花壇を包む空気も、昼間の熱を失って穏やかな風をはこんでいた。
「……今日もきれいに咲いてるね」
あかりは静かにそう呟いて、ホースを取りに行くと、花壇の前にしゃがみ込み、花の根元にゆっくりと水を与え始めた。チューリップに、マーガレット、薄紫のパンジー。水の音と、風が葉を揺らす音だけがそこにあった。
「ずいぶん丁寧に水やりをしているのね」
突然、背後から落ち着いた声が聞こえてきた。
振り返ると、白いブラウスにロングスカートを揺らしながら、合唱の講師・宝生聖子が佇んでいた。
長い髪をゆるく結び、気品ある仕草で手元のハンドバッグを持つ姿は、まるで舞台の中の貴婦人のようだ。
「ほ、宝生先生……こんにちは」
「専門学校の生活には、もう慣れた?」
その問いかけに、鷹宮あかりはホースの水を止め、小さく笑って答えた。
「……慣れるどころか、毎日、授業についていくのが精いっぱいです」
正直な思いだった。うまくできない演技、思うように声が出ない歌。自分だけが遅れているような、焦りと不安。それでも、何かをつかみたくてここにいる。
宝生聖子はそんなあかりを見て、ふっと目を細めた。
「……ふふ、懐かしい顔を思い出すわ」
「え?」
「あなたね、入学試験の面接のとき、ブリッジで歩いたでしょ?」
一瞬にして、あの面接の記憶が脳裏によみがえる。声楽、日舞、バレエ、面接。あかりの最後の選択は、咄嗟の“ブリッジ歩き”だった。
「……はい、やりました」
恥ずかしさに頬を染めながら答えると、宝生聖子は小さくため息をついた。
「正直、あのときの私は、あなたを不合格にしてもいいと思っていたのよ。“何を考えてるの、この子は”って」
その言葉に、あかりは思わず息をのむ。
不合格――。
「でもね……如月玲奈先生がどうしても“この子を合格させよう”って言ったの」
「……え?」
聞き間違いかと、あかりは目を見開いた。
如月玲奈が――自分を?
「あの玲奈が誰かを推すなんて、滅多にないわ。彼女は冷静で、感情に左右されることなんてない人だから」
聖子はあかりに優しく微笑む。
「だから私は思ったの。“この子が、あの玲奈に関心を持たせる何かを持っているなら……この学校でどこまで成長するか見てみよう”って」
その言葉の重みが、胸に染み込んでいく。
玲奈先生が……私を……。
まだ信じきれない気持ちでいるあかりを見て、宝生聖子は花壇の横にしゃがみ、視線を同じ高さに合わせた。
「あなたの声、私はちゃんと覚えてる。まだ技術は足りないけれど、あの声には、人の心を和らげる力がある。無理に誰かになろうとせず、自分の持っているものを大切にしなさい」
あかりは、はっとした顔で宝生を見つめた。
「でも……授業では、合唱の中で声を合わせることが大切で……私は、自分の個性を出してはいけないのかと思っていて」
宝生は、そっと微笑んだ。
「合唱は確かに“ひとつの音”を目指すもの。でもね――あなたの声を消す必要はないわ。大切なのは、“調和の中で、自分をどう生かすか”ということ。誰かと声を合わせるために、自分の声を捨てるのではなくて、自分の声を信じて、他の人と響かせていく……そうすれば、もっと豊かな音楽が生まれるのよ」
その言葉は、心にすっと染み込んでくるようだった。
「……はい、ありがとうございます」
あかりの返事に、宝生聖子は優しく頷いた。
「それはそうと、あなた、恋愛の演技、うまくできないんでしょ?」
図星だった。あかりは恥ずかしさと悔しさで、黙ってしまう。
「だったらね――実際に恋愛をすればいいのよ」
その言葉に、あかりはぽかんと目を丸くした。
「……えっ?」
「恋っていうのは、頭じゃなくて心で動くもの。理屈や技術よりも、“気持ち”が先なのよ。舞台でも、それは同じ」
くるりと背を向け、歩き出しながら、宝生聖子は振り返りもせずに言った。
「恋愛の演技ができるようになりたいなら、明日の夜、私の部屋に来なさい」
そして、夕暮れの光の中に、彼女の姿は溶けていった。
あかりは、水の残るホースを手に、ただその場に立ち尽くしていた。
心の奥で、何かが動いた。
私のことを、見ていた人がいたんだ。
それがただの思い込みではなく、確かな縁として、繋がっている。
あの厳しい如月玲奈も、自分を。
宝生聖子の誘いが、何を意味するのかはわからない。けれど、明日の夜、彼女の部屋へ行くべきだと、あかりの胸は告げていた。




