23:騒動の予感2
夕方の校舎を抜け、薄暗い廊下に足音がこだまする。放課後の補習に向かう鷹宮あかりと神田麻琴は、教室棟を離れ、音楽教室がある棟へと移動し始めた。
「あの…神田さん、ですよね? 一緒に補習、よろしくお願いします」
麻琴はうつむいたまま小さく頷く。
導かれるように、二人は廊下の端を歩いた。
雀のさえずりよりも小さな声で、麻琴がぽつりと訊ねた。
「ねえ…なんで私たちが呼ばれたと思う?」
あかりは一瞬立ち止まり、すぐに麻琴を見た。
彼女はいつも寮では2年生と一緒に部屋を使っている。同級生たちと会話することはほとんどなかった。それなのに――
「そりゃ…成績が悪いからでしょ? 神田さんは確か29番で、私は36番だから…」
あかりは正直に答える。麻琴は黙ってうなずいた。
「でも、補習を受けさせてもらえるってことは、まだ伸びるって思ってもらえてるってことじゃないかな。そう、思いたいな」
あかりの言葉に麻琴は小さく目を見開いた。——まっすぐで、まるで春風のような言葉。
麻琴は手に持っていた譜面をぎゅっと握ったまま、少しかすれた声を出した。
「正直ね…あなたが“あの看板かけをしてる”って聞いたとき、思ったの。『なんで?』って」
あかりは胸が痛むような思いで顔を伏せた。
麻琴が静かに続ける。
「なんだか、自分が軽んじられたんじゃないかって感じて。でも……そういうことじゃないって、今ならわかるわ」
補習教室のドアが見えてきた。
***
補習授業の教室は、本館の奥にある小さな練習室だった。
木張りの床に、アップライトピアノと譜面台が数台。薄暮の窓から差し込む光が、部屋の空気を金色に染めていた。
霧島はすでにピアノの前に座っていた。
二人を見ると「遅い」と睨みつけた。
「今日は“音楽の基礎”を徹底的に復習する。まずは譜面の読み方から始める」
麻琴とあかりは、急いで並んで譜面台の前に立った。
最初は音階練習から。
「ドレミファソラシド」とピアノに合わせて声を出す。
麻琴の声は、低くて響きが強い。そのため、音程を上げるとどうしても苦しそうになる。彼女は何度も眉間にしわを寄せ、譜面に視線を落とした。
「……やっぱり、難しい」
ぽつりと漏らした言葉に、隣のあかりが顔を向ける。
その目は、真っ直ぐで優しかった。
あかりも決して技術があるわけではなかった。だが、歌うときの表情はまるで別人だった。瞳がきらきらと輝き、まるで心の底から“歌えること”を喜んでいるかのように、甘く、優しい声を放っていた。
「なんで、そんなふうに歌えるの……?」
思わず、麻琴が訊ねた。
「えっ?」
「あなたの歌、気持ちがいいわ。技術は……正直、まだまだ。でも、生き生きしてて、聞いていてなぜか気持ちがいい。私、羨ましいって思ったの」
それは、麻琴が初めて見せた“素直な気持ち”だった。
あかりは照れたように笑い、頬をほんのり染めながら言った。
「ありがとう。でも……私も自分の声、そんなに好きじゃなかったんだ。ずっと。でも、誰かが“あかりの声って、元気になる”って言ってくれて……その言葉が、ずっと心に残ってるの」
その言葉に、麻琴は一瞬だけ目を伏せた。
そして、静かに、ゆっくりと言った。
「……いいな、そういうの。私も、誰かにそう言ってもらえる日が来たら、いいのに」
***
譜面読み、音符の長さ、強弱記号。
すべて一からやり直すような基礎練習だったが、それでも二人は真剣に取り組んだ。
「今日の補習はここまで。毎週火曜に放課後にここで行う」
霧島がそう伝えると、あかりと麻琴は頭を下げ、練習室を後にした。
廊下に出たとき、麻琴がぽつりと呟いた。
「……今日、来てよかったかも。ありがとう、鷹宮さん」
あかりは笑顔で返した。
「あかりでいいよ。私も麻琴って呼んでいい?」
麻琴は少し驚いたように、でもどこか嬉しそうに頷いた。
「うん……じゃあ、あかり。これからもよろしく」
廊下の先に、夜の空気が滲む。
二人の足音が、新しい友情のリズムを刻んでいた。
***
その一方で――
【天翔専門学校・中庭】
天翔専門学校の中庭には、まだ誰もいない。
夕暮れの光は、春の校舎を柔らかく染めていた。
放課後のざわめきが遠ざかり、赤く傾いた西日が、石畳を長く照らしている。
微かに揺れる若葉の影が、芝の上に淡く落ちていた。
その中心に、ひとり立つ少女がいた。
綾小路澪――
彼女は白いシャツの襟元にそっと手を添え、どこか遠くを見つめていた。光に透ける黒髪は、滑らかに肩を撫で、肌の白さを際立たせている。
まるで、そこに現れた一帯の彫像。れとも、舞台を去ったあとも一人、灯の落ちた劇場に佇む役者のようだった。
風が、そっと吹き抜ける。
澪の長いまつ毛が揺れ、薄く開いた唇がかすかに震える。それでも表情には、何の感情も浮かんでいなかった。
冷たく整った顔立ち――けれどその奥には、どこか言い知れぬ寂しさが漂っていた。
遠く、校舎の陰から誰かの足音が近づいてくる。
それは、彼女が待っていた者たちのものだった。
「……来たわね」
小さく呟くその声は、乾いた風にすぐにかき消された。
ほどなくして姿を現したのは、入学式の日に鷹宮あかりを咎めた二年生の三人組だった。
赤坂さや、野間由梨、そしてリーダー格の藤原まどか――三人とも、眉を吊り上げ、澪を値踏みするような目で見ていた。
藤原まどかが、わざとらしくため息をついた。
「なんだ。来るの、早いのね? ずいぶん律儀じゃない」
「呼び出したのは、そちらでしょう?」
澪は冷静に、しかし一歩も引かずに返す。声は淡々としていたが、その奥には芯のある強さが滲んでいた。
だが、三人は澪の態度に不快感をあらわにする。
「ねえ、前から思ってたのよ。あなたさ、なんか生意気よね。上級生に呼ばれて、それ?」
「……生意気、ですか」
「言い方気に入らない? じゃあ、はっきり言ってあげる。あんたのその“なんでも悟ってる風”な態度、すごくムカつくの」
まどかの言葉に、野間と赤坂が笑い声を漏らす。
「今日から一週間、講堂の掃除をお願い。もちろん、一人でね。生意気な一年生のお礼よ」
澪は、その場で言葉を飲んだ。理不尽な命令。反論する理由はあった。
けれど――**天翔専門学校で上級生の命令は絶対。**
それは、長い伝統と規律の名のもとに、暗黙の了解として受け継がれていた。
「……わかりました」
そう言って、澪は静かに頭を下げる。どこまでも冷静に、声を震わせることもなく。
その姿に、まどかたちは少し拍子抜けしたようだった。つまらなそうに笑い、踵を返す。彼女たちの影が夕陽に長く伸びていくのを、澪はじっと見送っていた。
頬をなでた風が、春の匂いを運んでくる。
その中で、澪はそっとまつ毛を伏せた。
(――こんな制度、いつかきっと変えてみせる)
心の奥で、小さな炎が灯った。
それは、何よりも静かで、けれど何よりも強く燃える決意だった。




