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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
24/140

24:すれ違う二人

 寮の外に、夜風が静かに吹いていた。

 夕食を終えた生徒たちが談話室に集まり、笑い声や湯沸かし器の音がわずかに漏れてくる時間。廊下の窓から見える中庭には、まだほんのりと春の残り香が漂っていた。


 重たく開いた寮の玄関。

 澪がゆっくりと中に入ってくる。

 制服のスカートの裾が、ほの暗い光のなかでかすかに揺れた。

 顔は伏せられていたが、いつもの彼女の静謐な気配に混じって、なにか張りつめたものがあった。


 玄関脇のソファに座っていたあかりは、澪にすぐ気づいた。


「澪、おかえり……。どうしたの? 遅かったけど……何かあった?」


 ふと、振り返った澪の顔。 その美しさはいつも通りだったけれど、そこには影が落ちていた。

 まっすぐあかりを見つめることもなく、彼女は短く答えた。


「……なんでもないわ」


 その言葉だけを残し、澪は靴を脱ぎ、制服の上着を肩から外すと、階段のほうへと無言で歩いていく。


「あっ……ちょっと待ってよ!」


 あかりは慌てて立ち上がる。


(もしかして……)


 胸の奥が、ざわりとざわめく。

 澪の視線には怒りのようなものが宿っていた。

 それを自分に向けられたものだと、あかりは思い込んだ。


(今日、私……声楽の補習を受けたから? 麻琴と私だけ、特別に……)


補習を受けたことを、自分ではどうしようもないことだとわかってはいた。 けれど、それでも誰かが特別扱いをされることに敏感になる世界。 澪が気分を害しても、おかしくない――そんな考えが頭をよぎる。


 二人の部屋のドアをそっと開けると、澪はすでにベッドに入っていた。

 ベッドのカーテン越しに見えるシルエットは、まるで眠る石像のように微動だにしない。


「……澪?」


 返事は、ない。

 あかりはしばらく、そのまま黙って立ち尽くしていた。 言葉をかけるべきか、それとも黙っているべきか。

 いつも隣にいてくれた澪との間に生まれた、初めての見えない壁に、ただ戸惑っていた。

 小さな決意を込めて、あかりはつぶやくように言った。


「……おやすみ、澪」


 けれどその言葉にも、返ってくるのは沈黙だけだった。

 あかりは、そっとベッドに潜り込んだ。

 部屋の灯りが落とされ、闇の中に、ふたつの呼吸音だけが静かに流れていた。 けれどその呼吸の間には、どこか張りつめた隙間があって、まるで心がすれ違う音が、夜気に紛れて響いているようだった。


――こうして、ふたりの距離は、確かにほんの少し、遠ざかっていた。



***


 窓の外、春の朝霧が薄くたなびき、鳥たちのかすかなさえずりが始まりの時を告げていた。

 鷹宮あかりは、ゆっくりと目を開けた。 昨日の夜、澪と交わすことができなかった会話の重みが、まぶたの裏に残っている。

 隣のベッドに目をやると、すでに誰もいなかった。

 枕はきちんと整えられ、澪の存在だけがすうっと消えていた。 そのとき、枕元の小さなメモに気づいた。


「先に行く」


 それだけ。

 まるで、必要最低限の情報だけを伝えるように、固く結ばれた文字。


(……やっぱり、怒ってるんだ)


 そう思わずにはいられなかった。

 寮の朝はいつも澪の「おはよう」で始まった。 静かで、どこか儚げなその声に包まれることで、あかりはこの場所に自分の居場所があると感じていた。 けれど今朝は、その一言さえなかった。


「……なんで、何も言ってくれないの……?」


 ひとりごとのような呟きは、淡い朝光に溶けていった。 心にぽっかりと小さな穴が開いたような感覚のまま、あかりは制服に袖を通す。 鏡の前に立つと、自分の顔がひどく頼りなく映っていた。


(ちゃんと、話したいのに)


 でもその「ちゃんと」が、どこにあるのかわからない。



***


 その頃、澪はすでに天翔専門学校の正門をくぐっていた。

 制服のスカートが春風に揺れる。

 澪の足取りは速くもなく、遅くもなく、ただ無言で一直線に講堂へと向かっていた。

 誰もいない朝の校舎。

 澪の足音だけが廊下に静かに響き渡る。


(理不尽、なんて言葉じゃ足りない)


 講堂の重たい扉を引き開けると、冷たい空気が一気に頬に触れた。

 昨日2年生たちから命じられた「一週間、毎朝講堂の掃除」。

 ただの嫌がらせなのは明白だった。


(けど……私がここで負けたら、何も変わらない)


 雑巾を水に浸し、長い講堂の窓を一枚ずつ磨いていく。

 自分の影が、朝日で長く伸びていた。



***


 ちょうどそのとき。

 校門脇のジョギングロードを走っていた橘颯真は、誰かが校内に入っていく気配を感じ、立ち止まった。

 すうっと制服の裾が風に揺れ、遠くに見えたのは綾小路澪の後ろ姿だった。


「……澪?」


 澪は何も持たずに、まっすぐ講堂の方向へ向かっていく。


(まだ朝の6時台なのに……どうして?)


 思わず腕時計を見る。

 校舎はまだ開錠されたばかり。授業が始まるにはずいぶんと早すぎる。

 颯真は首をかしげたまま、黙ってその背中を見送った。


(何か……あった?)


 だが追いかけることはしなかった。

 澪の背中には、なにか近寄りがたいものが宿っていたのだ。



***


 寮の食堂では、あかりが箸を止めて1点をじっと見つめていた。

 湯気の立つみそ汁が、少しずつ冷めていく。


(どうして……何も言ってくれないの?)


 けれどその問いを向ける相手は、ここにはいなかった。

 静かに、朝が始まっていく。

 誰にも気づかれないまま、それぞれの胸に、小さなすれ違いが芽吹いていた。

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