24:すれ違う二人
寮の外に、夜風が静かに吹いていた。
夕食を終えた生徒たちが談話室に集まり、笑い声や湯沸かし器の音がわずかに漏れてくる時間。廊下の窓から見える中庭には、まだほんのりと春の残り香が漂っていた。
重たく開いた寮の玄関。
澪がゆっくりと中に入ってくる。
制服のスカートの裾が、ほの暗い光のなかでかすかに揺れた。
顔は伏せられていたが、いつもの彼女の静謐な気配に混じって、なにか張りつめたものがあった。
玄関脇のソファに座っていたあかりは、澪にすぐ気づいた。
「澪、おかえり……。どうしたの? 遅かったけど……何かあった?」
ふと、振り返った澪の顔。 その美しさはいつも通りだったけれど、そこには影が落ちていた。
まっすぐあかりを見つめることもなく、彼女は短く答えた。
「……なんでもないわ」
その言葉だけを残し、澪は靴を脱ぎ、制服の上着を肩から外すと、階段のほうへと無言で歩いていく。
「あっ……ちょっと待ってよ!」
あかりは慌てて立ち上がる。
(もしかして……)
胸の奥が、ざわりとざわめく。
澪の視線には怒りのようなものが宿っていた。
それを自分に向けられたものだと、あかりは思い込んだ。
(今日、私……声楽の補習を受けたから? 麻琴と私だけ、特別に……)
補習を受けたことを、自分ではどうしようもないことだとわかってはいた。 けれど、それでも誰かが特別扱いをされることに敏感になる世界。 澪が気分を害しても、おかしくない――そんな考えが頭をよぎる。
二人の部屋のドアをそっと開けると、澪はすでにベッドに入っていた。
ベッドのカーテン越しに見えるシルエットは、まるで眠る石像のように微動だにしない。
「……澪?」
返事は、ない。
あかりはしばらく、そのまま黙って立ち尽くしていた。 言葉をかけるべきか、それとも黙っているべきか。
いつも隣にいてくれた澪との間に生まれた、初めての見えない壁に、ただ戸惑っていた。
小さな決意を込めて、あかりはつぶやくように言った。
「……おやすみ、澪」
けれどその言葉にも、返ってくるのは沈黙だけだった。
あかりは、そっとベッドに潜り込んだ。
部屋の灯りが落とされ、闇の中に、ふたつの呼吸音だけが静かに流れていた。 けれどその呼吸の間には、どこか張りつめた隙間があって、まるで心がすれ違う音が、夜気に紛れて響いているようだった。
――こうして、ふたりの距離は、確かにほんの少し、遠ざかっていた。
***
窓の外、春の朝霧が薄くたなびき、鳥たちのかすかなさえずりが始まりの時を告げていた。
鷹宮あかりは、ゆっくりと目を開けた。 昨日の夜、澪と交わすことができなかった会話の重みが、まぶたの裏に残っている。
隣のベッドに目をやると、すでに誰もいなかった。
枕はきちんと整えられ、澪の存在だけがすうっと消えていた。 そのとき、枕元の小さなメモに気づいた。
「先に行く」
それだけ。
まるで、必要最低限の情報だけを伝えるように、固く結ばれた文字。
(……やっぱり、怒ってるんだ)
そう思わずにはいられなかった。
寮の朝はいつも澪の「おはよう」で始まった。 静かで、どこか儚げなその声に包まれることで、あかりはこの場所に自分の居場所があると感じていた。 けれど今朝は、その一言さえなかった。
「……なんで、何も言ってくれないの……?」
ひとりごとのような呟きは、淡い朝光に溶けていった。 心にぽっかりと小さな穴が開いたような感覚のまま、あかりは制服に袖を通す。 鏡の前に立つと、自分の顔がひどく頼りなく映っていた。
(ちゃんと、話したいのに)
でもその「ちゃんと」が、どこにあるのかわからない。
***
その頃、澪はすでに天翔専門学校の正門をくぐっていた。
制服のスカートが春風に揺れる。
澪の足取りは速くもなく、遅くもなく、ただ無言で一直線に講堂へと向かっていた。
誰もいない朝の校舎。
澪の足音だけが廊下に静かに響き渡る。
(理不尽、なんて言葉じゃ足りない)
講堂の重たい扉を引き開けると、冷たい空気が一気に頬に触れた。
昨日2年生たちから命じられた「一週間、毎朝講堂の掃除」。
ただの嫌がらせなのは明白だった。
(けど……私がここで負けたら、何も変わらない)
雑巾を水に浸し、長い講堂の窓を一枚ずつ磨いていく。
自分の影が、朝日で長く伸びていた。
***
ちょうどそのとき。
校門脇のジョギングロードを走っていた橘颯真は、誰かが校内に入っていく気配を感じ、立ち止まった。
すうっと制服の裾が風に揺れ、遠くに見えたのは綾小路澪の後ろ姿だった。
「……澪?」
澪は何も持たずに、まっすぐ講堂の方向へ向かっていく。
(まだ朝の6時台なのに……どうして?)
思わず腕時計を見る。
校舎はまだ開錠されたばかり。授業が始まるにはずいぶんと早すぎる。
颯真は首をかしげたまま、黙ってその背中を見送った。
(何か……あった?)
だが追いかけることはしなかった。
澪の背中には、なにか近寄りがたいものが宿っていたのだ。
***
寮の食堂では、あかりが箸を止めて1点をじっと見つめていた。
湯気の立つみそ汁が、少しずつ冷めていく。
(どうして……何も言ってくれないの?)
けれどその問いを向ける相手は、ここにはいなかった。
静かに、朝が始まっていく。
誰にも気づかれないまま、それぞれの胸に、小さなすれ違いが芽吹いていた。




