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天翔の星  作者: 嵯峨野遼
第2章 天翔専門学校1年生
22/140

22:声楽

【午後の声楽の授業】


 生徒たちは一様に、校舎の音楽室へと向かっていた。

 午後の授業は「声楽」。

 この劇団の世界で、生きていくために“声”は不可欠だった。台詞、歌、呼吸。すべての感情は声に宿り、観客の心を震わせる武器となる。

 廊下の窓から差し込む春の陽光が、音楽室の木床に柔らかな影を落としていた。張り詰めた空気の中に、生徒たちの緊張が透けて見える。講師の桐島要は名物教師として知られ、その厳しさと情熱は後輩の間でも語り草だった。


「これから一人ずつ、歌唱テストを行う。曲は自由。だが、君たちの『今』を歌いなさい。声に想いをのせられない者に、舞台の灯りは届かない」


 桐島の低く芯のある声が、静かな教室に響いた。

 緊張のトップバッターは、主席入学の紫堂エリカ。


「紫堂エリカです。よろしくお願いします」


 凛とした声で自己紹介すると、彼女は譜面を置き、指示された場所に立った。選んだのは、天翔歌劇団の代表的演目『銀の湖』より、王子の登場曲「風の行方」。ピアノのイントロが始まると、エリカの表情が一変し、目に強い光が宿った。


♪── 風よ教えて 誰のため 命は咲くのか──


 力強く、揺るぎのない発声。低音域から中高音まで、一切のブレがない。張りのある声に技術が追いつき、完璧なまでの表現で教室を包み込んだ。


「……すばらしい。技術だけではなく、自信と品格がある。誰かがこれを“完璧”と呼ぶだろうな」


 桐島の口元がわずかに緩むと、他の生徒たちにプレッシャーの波が押し寄せた。

 続いて登壇したのは、綾小路澪。長い黒髪を軽くかき上げて一礼すると、静かに口を開いた。


「綾小路澪です」


 選んだのは、抒情的なバラード「月下の祈り」。少女の祈りを綴ったような旋律と詞。最初の一音が放たれた瞬間、空気が変わった。


♪── 月よ あなたに この声が 届くなら──


 教室全体が、まるで風が止まったかのような静寂に包まれた。儚く、清らかなソプラノ。柔らかく揺れる音が、ひとりひとりの胸の奥を揺らす。桐島は目を閉じ、静かに聴き入っていた。

 歌い終えたあと、桐島は目を開けて澪を見つめた。


「……綾小路。君の声は、透明な海だ。聴いていると、深いところまで引き込まれそうになる。だが、少しの迷いがあるな」


 澪は唇を結び、小さくうなずいた。その目は、自分の中にある“何か”と、懸命に向き合おうとしていた。

 三番手に現れたのは、娘役志望の結城さら。澪に似たような清楚な印象だが、その声はまた違った。


「結城さらです。『夢の扉』を歌います」


 彼女の歌は、まさに“天使の歌声”と呼ぶにふさわしかった。柔らかなビブラートと細やかな感情表現。聴く者の心にそっと触れるような音色。桐島がふと目元を拭ったのを、何人かの生徒は見逃さなかった。


「……良い。素直で、まっすぐで、歌で人の心を撫でることができる。それは才能だ」


 その次は、神田麻琴。


「神田麻琴です。……頑張ります」


 緊張からか声が震え、選んだ曲のキーも合っていなかった。音程は外れ、リズムも走る。最後まで歌いきった麻琴は、肩を落とした。

 桐島は無言で立ち上がり、講師机を指で叩いた。


「君、これはプロの養成機関の教室だ。『頑張ります』では務まらない。もっと鍛えなさい」


 静かに、だが厳しい言葉だった。  

 声楽講師・桐島要の鋭い目が、次の名前を呼ぶ。


「鷹宮あかり」


 一瞬、心臓が跳ねた。

 あかりは椅子を引くと、ゆっくりと前へと歩み出る。足元に力が入らず、わずかに震えを帯びていた。


「鷹宮あかりです。『桜の空へ』を、歌います」


 彼女が選んだのは、歌劇団でも人気のある、希望をテーマにしたバラード。

 ピアノのイントロが静かに始まり、あかりは深く一呼吸した。


そして──


♪ 桜の空に 舞い上がれ


 まだ見ぬ夢の その先へ──


 音程は時折ふらつき、声の芯もまだ未熟だ。

 だがその歌声は、甘く、優しく、耳にふんわりと届く。 硬さのない柔らかな声質は、どこか春の風のようだった。

 決して上手ではない。 だが、聴く者の心に、すっと入り込むものがある。 自然と、耳が彼女の声を追い、思いが胸に届く。


 歌い終えたとき、教室には妙な静けさが残っていた。

 桐島要がゆっくりと立ち上がる。 教壇に両手をついて、あかりをじっと見つめた。


「……鷹宮」


 あかりは背筋を伸ばし、息を殺して桐島を見つめ返した。


「技術は、まだまだ。正直、今のままでは通用しない。だが……」


 桐島は少し口調を和らげた。


「君の声には、人を引き付ける何かがある。耳障りがよく、どこか人をほっとさせる。──それは生まれ持った、君だけの武器だ」


 一同が驚いたようにざわつく。

 桐島は続けた。


「だがその武器を、錆びつかせたままにするか、磨き上げるかは、君次第だ」


 あかりは胸が熱くなりながら、深々と頭を下げた。


「……はい。ありがとうございます」


 桐島は椅子に腰を下ろし、机の上に指をトントンと置くと、淡々とした口調で言った。


「神田、鷹宮。君たちは放課後、補習だ」


 教室に緊張が走った。


「補習……ですか?」


 神田麻琴が驚いたように声を上げると、桐島は頷いた。


「君たちの今のレベルでは、演目どころか基礎にも届いていない。だが可能性はある。だから特別に見る」


 生徒たちがざわざわと視線を交わす。

 1年生で放課後補習──つまり、レッスンを個別に受けるなど、前代未聞だった。

 天翔専門学校では、外部のレッスンや講師の特別指導を受けることは基本的に2年生から許される制度だったからだ。


「特別扱い……?」


 誰かが小さく呟いた。


「特別ではない。ただし、条件がある」


 桐島は二人に目を向けた。


「やる気がないなら来なくていい。中途半端にやるなら、むしろ来るな」


 あかりと麻琴は顔を見合わせた。 麻琴は怯えながらも小さく頷く。

 そして、あかりの目には、強い光が宿っていた。


「……お願いします。やります。絶対に、上手くなります」


 その言葉に、教室の空気が少し変わった。

 澪はあかりの横顔を静かに見つめ、

 エリカは一瞬だけ視線を逸らす。

 水瀬大河は口元を押さえながら「マジか……」と呟き、 橘颯真は「すごいな……」と感嘆の息を漏らす。

 桐島は椅子にもたれながら、口元に微かな笑みを浮かべた。


「よろしい。──では、次の者、前へ」


 午後の声楽授業の中で、一際熱を帯びた瞬間だった。

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