第一章 2 イリーナ・セルビー 前
翌日の昼過ぎ、カイルと私は王都の研究区画へ向かっていた。
王都の一角に設けられたこの区画は、小さな町ほどの広さを持つ。行き交うのは王宮魔術師や各研究所の研究者、その助手や研究対象者など、特別な許可を与えられた者ばかり。王国最高峰の知識と技術が集まる場所だ。
その一角に、イリーナ・セルビーの屋敷はあった。王宮魔術師には、この研究区画に研究施設を兼ねた屋敷を構えることが許されている。
屋敷の前庭には色とりどりの薬草が整然と植えられ、小さな畑というより薬草園と呼ぶべき光景が広がっていた。
「さすがイリーナだ。これだけの薬草を管理しているとは」
私は目を輝かせた。
三角屋根は赤く、一見すると物語に出てくる魔女の家のようだ。貴族の豪邸のような華美さはないが、その代わりに煙突が何本も伸びている。窓も大きく取られ、室内へ十分な光が入るよう工夫されていた。
さらに屋敷の奥には、一面ガラス張りの温室が建っている。
「あれは温室かな」
外から中の様子を確かめようと、私は少し背伸びをした。
「ぜひ、あとで見学させてもらいたい」
「お前、まだ中にも入ってねえのに楽しそうだな」
カイルは屋敷と温室を見比べ、小さくため息をついた。
「当然だよ。研究者の家を見るだけでも、その人が何を考えているか分かるからね」
大きな屋敷というより、小さな研究所といった建物だった。
蔦の絡まる意匠の呼び鈴を鳴らすと、ほどなくしてイリーナが出てきた。
「シェリル! 待っていたわ」
玄関で出迎えてくれたのは、私より五つほど年上の女性だった。長い栗色の髪をゆるくまとめ、白衣の上からでも分かるグラマラスな体形。落ち着いた立ち居振る舞いには大人の余裕が感じられるが、その目は研究者らしい好奇心に満ちている。
「私も今日を楽しみにしていたんだ! この間の賭けは私の勝ちだ。この機会を逃すわけがないだろう?」
私たちは親しげに抱き合った。
屋敷の中へ案内されると、大きな天窓から光が差し込み、そこかしこに見たことのない植物が置かれていた。これだけでも、研究者としては胸が躍る。
「あら、カイルも来たの?」
イリーナが私の後ろに控えていたカイルへ、すっと視線を向けた。
「護衛だよ、イリーナ。とても心配性でね。この間のバーでの話をしたら、どうしても付いてくると言って聞かないんだ」
私がさらりと説明すると、イリーナはカイルを上から下まで眺めた。酒に薬を入れたことなど、まるで気にしていない様子だ。
「この王都の研究区画で、一体何から守るっていうのかしら? ねえ?」
イリーナは私の背中に腕を回し、胸元までぴったりと身体を寄せると、カイルを睨んだ。頬をつり上げた笑顔には、隠す気もない敵意がにじんでいる。
「女の秘密の時間に入ってくるなんて、無粋ね」
カイルは眉をひそめた。
「秘密って、お前、前回何したか覚えてるか?」
「もちろん。だから今日は失敗しないわ。この間は効果時間が短かったって、ちゃんと反省したから安心して」
「安心できる要素が一つもねえんだが?」
二人のやり取りを見比べ、私は口を挟んだ。
「まあ、彼のことは見目の良い置物だと思ってくれて構わないから」
「オイ」
カイルがぼそりと呟いた。
イリーナは敵意を消してくすりと笑った。けれど、その目はらんらんと輝いている。何か面白いものを見つけたときの研究者の目だ。
「それは否定できないわね。本当に見目はいいもの。やっぱり人間、見目がいいものを愛さずにはいられないのよね……ええと、確か、この間あなたに告白したのって――」
少し考えたあと、イリーナは指を鳴らした。
「……マケナ・クロムだったかしら?」
「なんと!」
イリーナに抱きつかれたまま、私はくるりと後ろを向いてカイルを見た。目を丸くして声を上げる。
「副官じゃないか!」
「違う!」
カイルは即座に否定した。
「告白なんかされてねえ!」
「あら? そうだった? 誰だったかしら……じゃあ、近衛隊のロイド?」
「だから違う!」
「部下のキース?」
「違うって言ってるだろ!」
「焦っているところが怪しいな」
私は興味深くカイルを見つめた。イリーナは楽しそうに笑っている。
「ええ。この中に正解があるはずよ」
「うむ」
私も腕を組み、真剣な顔で頷いた。
「推理しよう」
「やめろ」
「まずは消去法で――」
「やめろって」
カイルは静かにため息をついた。そして、低い声で告げる。
「……それ以上続けるなら」
私とイリーナは同時にカイルを見た。
「シェリルは連れて帰る」
「え」
私は目を丸くした。
「今日は帰る。研究も中止だ」
その一言に、私は慌てて両手を軽く上げた。
「ま、待ってくれ。もうしない。カイルの恋愛に追及はしない! 約束する」
「いや、恋愛はしてねえ……」
カイルはうめくように訂正した。どうやら、そこだけは譲れないらしい。
その様子を眺めていたイリーナは、肩をすくめた。
「ふふ、ごめんなさい。女子会には恋バナが必須でしょう? だから最近仕入れた話を披露しちゃったの。不快にさせてごめんなさいね?」
「イリーナ」
私は感心して頷いた。
「君って素晴らしいね」
「でしょう?」
「研究だけじゃなく、情報収集能力まで一流だ」
「褒めるところか……?」
カイルは頭を抱えた。
「ふふ」
イリーナは楽しそうに笑った。
「じゃあ、立ち話も何だし案内するわ」
「ぜひ」
イリーナは私の手を取ると、屋敷の奥へと案内した。
扉を開けると、薬草の香りがふわりと漂う。棚には色とりどりの薬瓶が整然と並び、乾燥させた薬草や魔獣の素材、実験器具が所狭しと置かれていた。壁一面には魔術陣の描かれた羊皮紙が貼られ、机の上には試作途中と思われる薬品がいくつも並んでいる。
まさに、研究者の城だった。
「いい研究室だ。ぜひ説明をしてほしい」
私は初めて来た研究室に胸を躍らせていた。
「もちろん」
イリーナも嬉しそうに頷いた。研究者同士だからこそ分かる高揚感が、二人の間に流れている。棚の薬瓶一つ、薬草一株を前にしても、話は尽きなかった。
やがて、ある薬瓶の話題になった。
「魔術薬で一番の売れ筋は、やっぱりこれかい?」
「ええ、そうよ。軍から依頼されている魔力増強剤が、今の注文の中心となっているわ」
「あれか……。魔石が減っているから魔力を補おうとするのは分かるが、副作用が大きすぎるのでは?」
「ええ。副作用を減らして魔力を上げろっていうのがオーダーよ」
「ふん……。ないものを増やすなんて、随分ロマンティックだね」
私は小さく鼻を鳴らした。
「お偉いさんたちには、現実が少し難しいのよ。百年前の栄光にすがっているの」
イリーナも苦笑しながら皮肉を口にする。
「我らの敬愛するノワル王国が、歴史上もっとも栄華を極めた時代の話だね?」
先ほどから、皮肉が止まらない。
「オーレリアから経済を、セルリアから魔術を、ルベリアから資源を奪って――いえ、吸収して。三国を取り込んだ結果、今のノワル王国がある」
「ずいぶんと綺麗な言い方をするわね」
イリーナが苦笑した。
「歴史書にはそう書いてあるからね」
私は肩をすくめた。
「その頃は魔石も潤沢だった。だから使えるだけ使った。魔石を生み出す魔獣まで狩り尽くしてね。まあ、今はその残骸のような栄光にすがっているばかりだが。実際、イリーナの作る魔術薬がなければ魔道具を満足に動かせないほど、魔力が足りない人間も多いし……」
一通りお互いに皮肉を言い合うと、すっきりしたのか、話し疲れたのか。私たちは顔を見合わせ、部屋の隅にあるテーブルへ向かった。
テーブルは質素だが、清潔に整えられていた。あらかじめ用意してあったのだろう。イリーナは紅茶を淹れ、小さな焼き菓子を並べた。カイルの分も用意されている。
「どうぞ」
「ありがとう」
私は早速カップを手に取った。
カイルは用意された菓子と紅茶を見て、少し意外そうな顔をした。彼が来ることは事前に伝えていなかったはずだ。
イリーナはそんなカイルを横目に、くすっと笑った。
「本当は今日、シェリルだけだったら最新作をご馳走しようと思っていたのよ」
その意味を察したらしいカイルが、即座に口を開く。
「遠慮してくれ」
イリーナは肩を震わせて笑っている。
「前回は被験者Aとの楽しいお遊びだったのよ。ちゃんと同意も取っていたし」
この場合の被験者Aとは、私のことだね。
「ちゃんとじゃねえ……」
「口うるさいママが付いてきちゃったから、今日はちゃんと普通のお茶」
「……本当だろうな」
「もちろん」
イリーナはにっこりと微笑んだ。
カイルはまだ不安らしく、テーブルの上を確認するように視線を巡らせている。
「前回はほんの出来心だったのよ」
「その出来心で手錠を掛ける研究者がどこにいる」
「研究には多少の犠牲が必要でしょう?」
「必要ねえ」
私だけが不思議そうに首を傾げていた。
「私は別に気にしていないよ」
「お前は気にしろ」
カイルは呆れたように肩を落とした。何を言っても、この研究バカには通じない。そんな顔をしている。
「さて」
イリーナはティーカップを机に置くと、もったいつけた動きで一枚の羊皮紙を広げた。
「今日、本当に見せたかったのはこれ。この間の賭けの賞品よ。今度の研究発表会で出す前に見せてあげるわ。特別よ」
カイルはそれを眺め、小さくため息をついた。
「……始まった」
「待っていたよ、イリーナ!!」
私は今日一番の笑顔を浮かべ、イリーナから羊皮紙を受け取ると、夢中になって読み始めた。
「痛覚遮断薬よ。一定時間だけ痛みを感じなくする薬。治療や手術のとき、患者さんの負担を減らせるんじゃないかと思って開発したの」
「なるほど」
私は何度も頷いた。
「実にイリーナらしい発想だ」
「でしょう? ただ、痛みを完全に遮断しようと研究を進めていたら、神経の働きに作用する成分が、思いがけない効果を持つことが分かったのよ」
「思いがけない効果?」
「ええ。精神的な抑制が弱まり、普段は表に出さない感情や欲求が強くなるの。特に、性的な欲求への作用が顕著でね」
「……つまり?」
「媚薬よ」
イリーナはあっさりと言った。
「痛覚遮断薬を開発していたはずが、気づけば媚薬まで完成していたというわけ。しかも、ただ気分を盛り上げるだけのものじゃない。欲求そのものを強める作用があるのよ」
「なるほど……!」
私の目が輝いた。
「痛覚を遮断するための研究が、まったく別の分野に応用できるとは。実に興味深いね」
「研究成果としては面白いでしょう? ところが、これを知ったもてたいおじ様たちが興味を持っちゃって」
イリーナはうんざりしたように肩をすくめた。
「患者の負担を減らすために始めた研究なのに、今では媚薬の方ばかり注目されているのよ。まったく、男って嫌になるわ」
私は真剣な顔で頷いた。
「実に無粋だ。研究者としては、痛覚遮断薬の方がよほど価値がある」
「でしょう?」
イリーナは嬉しそうに笑った。




