19-3
「あ、坊ちゃん。学校お疲れっす!」
陸島が声のした方を見ると、向こう側から一人の男が駆け寄ってきた。爪島だった。
「爪島。牙谷は?」
「牙谷さんなら今日はいないっすよ。なんでも仕事とかで」
「仕事?」
送迎の際に牙谷がいなかったことは一度もなかった。
幼稚園の頃からの一つの流れが崩れていく音がした。その音が陸島に届いた時、彼は顔を俯かせる。
「しゃあないっすよ。さ、車向こうですからいきましょう」
「……ああ」
「再来週はいよいよ遊園地っす。最後ですから、ね?笑ってましょうよ」
「……そうだな」
終始くらい彼の表情に爪島は心の内で彼を心配していた。
父として終始したっていた男との別れは決して軽いものではない。
「そうそう。今日の夕飯は羽田が作りますよ。あの太ももを作った料理ですからね。期待してくださいね」
「……へえ」
車の元まで来ると二人はそれぞれ運転席と助手席に座り、爪島は車を動かし始める。
車内には静かに何かがのしかかるような空気が流れる。
「暗い顔で牙谷さんが離れなくなるとでも思ってます?」
「え?」
爪島は急に声色を変えた。
明るい雰囲気から、厳しい雰囲気に声色を変えたとき、陸島は思わず驚いた。
「そりゃあ俺にとっても、羽田にとっても、牙谷さんにはいてもらって欲しいと思ってますよ。でもね、ダメなものはダメなんですよ。牙谷さんも何度も反対したが駄目だった。他に助けを求める人たちがいるんですよ」
「助け……?」
「そうっすよ。独り占めはいけないってことです」
独り占め。
その言葉が陸島の耳に入った時、彼は何か信じられないものを聞いたかのように感情を荒げた。
「違う!そんなつもりはない!!」
「お気持ちは察します。だからせめて牙谷さんを見送る時は笑っていてください」
爪島の説得に陸島は声を返さなかった。
車が家に着くまで、陸島は静かだった。
「はい。夕飯ですよー。今日はカレーです」
「わーい。カレーライスだー」
夕刻。食堂にて。
羽田はキッチンの一部を借りて昼からスーパーで買い物、場所を借りるための準備、一人で調理とそれらを黙々と、楽しくやって見せた。
「会心の出来ですよ。さ!坊ちゃんも早く」
テーブルの上に出されたカレーライスからは黙々と湯気が上がり、出来立てであることを示す。
カレー特有の香辛料の効いた香りが辺りを包む。
「ひゅう。やるじゃねえか!伊達に太もも、太らせてなかったな!」
「おめーの分ねえから」
「ひどい!!」
ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人。
それをよそに両手を合わせて食事を始める陸島と牙谷。
両者の合間には沈黙が走る。
「……どうしよう」
「……どうしようって」
ひそひそと会話をする爪島と羽田。
牙谷と陸島の合間に話し声はなく、カレーを食べる咀嚼音がかすかに聞こえるばかり。
「うーん……どうしたもんかね」
「旅行の時は楽しかったけど、やはり別れが近くなっているのか嫌そうな雰囲気っすね坊ちゃん」
「ごちそうさま」
「え?」
陸島は一杯のカレーを食べ終えて、両手を合わせる。
「待ってください坊ちゃん。まだありますよ」
「いらない」
椅子から降りて、食器を流しまでもっていく。
その一連の行動は淡々としていた。そのまま彼は自分の部屋まで早足で歩いて行った。
「……どうしよう」
羽田は自分が何かをしてましったのではと自分を責めるような声を漏らす。
「どうしようってもなあ」
「ちょっといいかお前ら」
困惑する二人に牙谷が声を掛ける。
「そりゃあ別れってのはつらいもんさ。坊ちゃんはとくにな。何せ俺がいなかったときは親父さんが構ってたが、その親父さんが離れることになった際に坊ちゃんは親父さんを裏切者呼ばわりした。ようは根が寂しがり屋なのさ」
「そうだったんすか?」
「そうだぞ。俺が一番長くあの子に仕えているからな。とはいえ事前に行っても離れることになるのは、嫌なんだろうな」
「……そうでしたか」
牙谷の説明に羽田は肩を落とす。
しょぼくれる羽田を見て、牙谷は少し考えこむ。
「……俺は親父さんから鉄明坊ちゃんの面倒見兼教育係を任されてんだ。それでだ羽田。ちょっと相談なんだが」
「はい?なんでしょうか?」
牙谷は羽田に自分の胸中にある意見を説明した。
それを聞いた羽田は顔を上げてハッとする。
「……つまりはその大役を私にですか?」
「ああ、失敗しても俺が何とかするさ」
「ええ?できますかね?この太ももおばけに」
「フンっ!!」
「ぎゃあす!!」
食堂に破壊の音が響く。
哀れな男の断末魔と共に。
夕飯を食べてしばらく。
陸島は部屋にこもって黙々と本を読んでいた。
周囲は静けさに包まれて、読書をするには最適の時間。本の世界にて陸島は時を過ごす。
そんな折にドアのノックオンが響く。
「坊ちゃん。ちょっといいですか?」
陸島は高い声からしてドアの向こうにいるのは羽田だと予想がつく。
「なんだ?」
「すみません。お話がありまして。今大丈夫ですか?」
少し考えてから陸島は読んでいた本をぱたりと閉じた。
「ああ、いいぞ」
「ありがとうございます」
ドアが開き、羽田が入り込む。
「さっきのカレーですが……ひょっとしてお口に合いませんでしたか?」
「いや。悪くはなかったぞ」
「そうですか。牙谷さんとはもうあまり話してないのですか?」
「今日はいないと聞いてなかった」
「ああ、じゃあそれは牙谷さんが悪いですね」
「再来週、遊園地に出掛けるだろ?そしたらその次の週でおしまい。だよな?」
「……はい」
おしまいというのは牙谷が陸島の下を離れることを指していた。




