18-11
「こんにちは。沼野さんの息子さん?かわいいですね」
「え?あ、あの」
モニター越しではなく、目の前にきたその女性は沼野に近づくとしゃがんで目線を合わせて、微笑んで彼の頭を撫でた。彼女が醸し出す大人の女性のオーラとでもいうべきものが沼野を襲う……というより包んだ。思わぬ来訪者に沼野は頬を赤く染めてたじろぐばかり。彼女の色香はいささか幼い沼野には効いたようだ。
(うわあ……すごい綺麗な人。父さんの部下なのかな?)
留目という女性が放つ沼野を掴んで離そうとしないそのオーラの本質は彼女の持つ麗しい容姿と理想的な体のスタイルに加えて、躊躇いなく距離を詰めるその勢い。ふわりと広がる彼女の香りが包み、目につくのはそのスタイル。そして静かなる触れ合い。
(……ドキドキする)
沼野にはその一瞬は永遠のように感じられた。母親以上に触れてくるかのような振る舞いに忘れがたい笑み。それらは沼野の心に深く刻まれる。
「おい、何してんだ」
だがその一瞬は父の声で途切れ、彼方に消える。
沼野が振り返れば、父は睨むように息子を見ていた。
「ごめんなさい。あまりにも可愛かったもので」
「か、かわいい……?こいつが?」
可愛いと言われたのはいつ以来だろうか?
ふとそんな疑問が浮かんだが、沼野の父が見せる難解な課題にぶち当たったかのような絶望的な表情がそれを吹き飛ばす。
「まあいい。おい、お茶出してやれ。母さん寝込んでるんだからお前がやらないとダメだろ?」
「あ、はい」
「お構いなく。それより奥さん大丈夫なんですか?」
「大丈夫だ。暫く寝てればいい」
父の言葉に、見えぬところで沼野は顔を顰めた。
ズボンのポケットの下で拳を握りしめながら。
(誰のせいだよ……!)
沼野の母は少し前から家のベッドで寝たきりだった。
父の怒鳴り声や叫び、ねちっこい指摘に彼女はずっと耐えていたがここ最近ついに具合を悪くして家のベッドで横になったままだった。
――いいか?俺が一番頑張ってるんだ?寝ないで遅くまで苦労して誰かの為に働いているんだ。しかもたまにクソみたいな奴らが来るんだ。そいつらの為に働く仕事をやってるんだ。嫌な仕事だと思うさ。それでも俺が仕事してるのは、お前と夏久にご飯を食べさせるためだ。夏久にはこれまで以上に頑張ってもらわないといけないんだ。お前がこうして寝ていられるのは、夏久が頼んできたんだからだ。自立しようとしてお前に休んでもらいたいって受験の合間を縫ってそう言ってきたんだ。だからお前はしっかり休んで早く起き上がらないと行けないんだ。わかったか?
(母さんにあれだけギャアギャア喚いて自分は悠々と美人と仕事か。母さん、気の毒だな……)
日に日にやつれていく母の姿に沼野は心が裂かれそうだった。
ティーセットで紅茶を作って父の書斎に入ると、沼野の父は留目と楽しそうに談笑している。
(何が苦労だよ。笑ってるじゃねえか!!)
胸中の怒りを胸にしまいながら、沼野は机の上に紅茶の入ったカップを二つおいた置く。
「はい」
「はいじゃない!お待たせしましただろ!!」
「まあまあ沼野さん。お店じゃないんだから。夏久君だっけ?ありがとう!」
「え?ああ、えっと……どういたしまして」
「ったく」
沼野の父はカップを手に取るとぐいっと飲み始める。
「あち……」
舌を火傷しそうになった自分の父親の姿を心の何処かで笑っていた。
心の笑みが表情に溢れそうになるのを抑えながら、沼野は父の部屋を後にした。笑い声が聞こえる部屋を背にそのまま彼は母の眠る寝室に向かう。
「母さん、大丈夫?」
静かにドアを開けて母に自らの容体を伺う。
薄暗い部屋の中で、母はベッドからゆっくりと起き上がって息子に答える。顔は少し痩せこけて、髪の毛はボサボサと伸び、縮こまったその姿勢を息子が見た時、思わず声をあげそうになった。
「大丈夫よ。だいぶ楽になったわ。ねえ、お父さん笑ってたりしない?」
「え?ああ、仕事仲間が来たんだ」
「そう。お父さんも大変ね。ああ言った人たちの相手をしないといけないんだから?」
「え?どういうこと?」
沼野は顔を顰めた。
母はゆっくりと説明を始めた。
「お父さんの仕事っていうのはね。弱い人たちを助ける時だけじゃなくて、悪い人達にも手を伸ばさないといけない時があるのよ」
「わ、悪い人って?どういう事なの?」
「ああ、そんなにパニックにならないでいいのよ」
困惑する息子に母は笑って自分の意見を直しつつ、説明する。
「弁護士っていうのはね、時には国の決まりで犯罪者の人達の味方に近いことをしないといけないのよ。お父さんまだそういうのは説明してなかったのかしら?」
「たぶん。でもどうしてなの?」
「悪い人たちが本当に悪いことをしたのかを確認するの。他にも悪い人達がどうしてそんな事をしたのか?例えば、食べ物を盗んだ人がいたのならお父さんはその人達の為にみんなに説明するの。お金がなかったとか、家でご飯が食べられなかったとか、ね」
「それでお父さん、あんなに普段から怒ってるの?悪い人たちばかり相手にしているから?」
「多分ね。本当に悪い人は恐ろしいのよ。悪魔とかそういう――」
「夏久!降りてこい!!」
母の息子に向ける丁寧な説明を父の大声が遮る。
「今行きます!!ごめん」
「いいのよ」
ベッドの上で笑う母に申し訳なさそうにして沼野は部屋を出て行った。
その時に見せた母の笑顔が息子の胸を締め付ける。
「くそ……どうしてなんだよ」
彼の痛む胸を癒す物はいなかった。
この時までは。




