18-4
「坊ちゃん、まだ走れますか?」
「いいよ。行こう!!」
陸島が小学三年生になり、寒い冬の日が訪れていた。
その日、ジャージを着た陸島は同じくジャージを着た牙谷達と一緒に寒い街から山の中腹にある家までの道を走って駆け上っていた。家のある方へは山を登る必要があるので必然的に坂道が相手になる。
「苦しくなったらペースを落としてくださいね」
羽田が近寄ってアドバイスをする。
「ああ。わかった」
笑って返答をする陸島の表情にはまだ余裕があった。
「坊ちゃんまだ余裕そうっすね。でも油断はダメっすよ。ペースを上げて良いのはそこの最近また太ったスイーツ――」
走りながら浴びせられる蹴りに爪島はバランスを崩し、坂道をそのまま転げ落ちていった。
「鉄明さん。今聞いたことは忘れてください。良いですね?」
「あっはい」
羽田の満面の笑みで陸島の頬に冷たい汗が一滴流れ落ちた。
しばらくしてペースを戻しつつ爪島が一向に加わって牙谷に小さい声で話しかける。
「しかし坊ちゃん、よくやってくれる気になりましたね?」
「ああ、俺も驚いてるよ。ゲームばかりの現代っ子だからちょっと気になったけど、意外とやる気で――」
その時、牙谷の体に痺れが走った。
一瞬だったせいか、彼は倒れることはなかったが少し顔を歪ませた。
「牙谷さん?どうしました?」
「いやなんでもない」
周囲を見渡す。
山の道の両隣には木々が茂っており、その近くにいるであろう何かを探るように目を光らせる。無論周囲には悟られぬように。
暫くして何かを思いついたかのように牙谷は爪島に話を返す。
「……多分こないだの騒ぎで体を鍛える気になっていたんだろう」
「ああ、アレっすか。怪我酷くなくてよかったっすよ」
「羽田や家の魔女が手を回したらしい。それで回復が早かったみたいだ」
「なるほど。ならこのまま一緒にいれば大丈夫そうっすね」
「……ああ」
牙谷はどこか寂しそうに返答した。
それに爪島は疑問の目を向ける。
「反対すか?坊ちゃんが『こっち側』に来るのは」
「わからない……家がそうなら、そうなるが……まあ体を鍛えることに悪い意味はないだろう。それに、俺達もここ最近は魔女との戦いもない。鈍ってばかりじゃ毒だろ?」
「そうっすね!」
彼らは家までの道をえっほえっほと駆けていく。
汗ばむ体には冬の寒さに負けぬ熱が溜め込んでいた。
陸島が牙谷達と体を鍛えるようになってから暫くしてのこと。
その日、牙谷は陸島から離れて橘樹と木下と一緒に料亭にて食事をしていた。並ぶ懐石料理を口にしながら、牙谷は陸島の近況を語る。
「そうか。やはりずっと一人か……」
「ええ。友達を作る気は無いのかって聞いたら、坊ちゃんは『いらない』といつも即答で返すんです。学校の先生には面談で学校生活の方を聞いたんですが、いつも休み時間には読書してるって言ってて。以前の騒動もあってか、誰も彼には近寄らないみたいです」
「まあそうだろうな。どっかの強面が子供相手に凄んだんじゃな〜」
出てきた料理を口にしながら橘樹は目の前の強面を見る。
「いやでもあれは相手が悪いというか……結局相手の子も謝ってそれっきりで。あの沼野って子の父がどうやら厳しく躾けたとか」
「そうか。ところで今後のお前に関してだが――」
橘樹は木下の方を見る。
木下はそれを合図に自分の隣に置いていた封筒を手にして中の書類を取り出す。
「お前がここに来てから五年以上経つのか。時の流れは早いもんだな」
「ええ。そうですね……」
牙谷は寂しそうな表情を浮かべる。
その表情は何か大切なものを憂うようであった。その顔を見て木下は全てを察したわけではないがある程度の事情は把握できていた。
そして木下は手に持った書類を目に通しながら牙谷に話を切り出す。
「牙谷さん。魔女機関の頼みで貴方に関しての調査はしておりません。このような頼みは初めてですが、相手は魔女。何かがあったと察してはおります。なのでその時まで我々も深くは干渉はしません。現状は引き続き、鉄明坊ちゃんの面倒を見ていただければ幸いです」
「……恩にきます」
橘樹と木下に向けて、深く牙谷は頭を下げた。
木下は更に話を続ける。
「牙谷さんがもし何か望みでしたらやれる事はやりたいのですが……その呪いがある以上はやはり大きくは動けないのですね?」
「はい。あの者に……やられました」
牙谷の脳裏にはある光景が浮かんでいた。
深き夜の世界に広がる血の海にて倒れる者達。先ほどまで会話をしていた魔女や眷属といった仲間がそこにいた。
その向こうには薄ら笑いを浮かべる一人の人間の姿。
其の手に持つは禍々しき息吹放つ結晶体。
――全ては貴方の責任よ?
魔女は責めるように囁く。
まるでそれは此度の事態が自分のせいだと言うように。
「……はあ」
何かに引き戻されるように牙谷はその風景から今に戻る。
深いため息を吐いた牙谷に橘樹は首を傾げる。
「どうした?疲れたか?」
「ああいえ。坊ちゃんの事ですよ。このままだと知り合いが俺ら以外いないんじゃないかって思うと……ええ」
「むう……確かに」
三人は暫く口をつぐんだままだった。
陸島の外の世界における孤独。誰とも手を取ろうとしないその姿勢。孤独のまま一生を終えてしまうのでは無いかと言う不安。他者に無関心にて終わる一生の虚しさが三人の胸中を駆け巡る。
だがその不安に対し、一抹の希望がそっと降ってくることをまだ彼らは知らなかった。




