迎え火③
泣く子も黙る騎士団長として、国民に広く名前と顔が知れ渡っているのは、悪いことばかりではない。
王都に帰り、カルヴァンは最初に香を買い求めた。香を嗜む趣味はない。生まれて初めて入った店だった。
彼の本性を知っていれば、どうしてそんな香を、と訝しがられただろうが、表の顔は、神に忠誠を誓いこの世から魔物を殲滅せんと剣を振るう英雄だ。神に祈りを捧げるために焚かれる香を求めたとしても、違和感を持たれることはなかった。
部屋に戻って包みを解くと、乳白色の樹脂から、覚えのある匂いが立ち上る。
「相変わらず、頭が痛くなる匂いだな……」
まだ両親が生きていた頃、手を引かれて連れられた教会。孤児になって無理矢理保護され、兵団に入隊するまで暮らした王立教会。
カルヴァンの記憶にある教会は二つだけだが、どちらもこの匂いが充満していたのを覚えている。特に後者の記憶が最悪だ。
匂いは記憶と強烈に結びつくというのは本当らしい。嗅ぐだけで眩暈がしそうだ。
「まぁでも、アイツには一番馴染みがある匂いだろ」
樹脂をひと粒、コロンと馬の背中から投げ入れる。チラリと窓の外を見れば、西の空がうっすらと紅くなり始めていた。
「あとは、なんだったか……生前、好きだった食べ物? アイツ、好物なんかあったか?」
遠い記憶を辿るが、ピンとこない。
記憶の中で、リツィードが、食べ物に好き嫌いをしているところなど見たことがなかった。
(毎年、誕生日に何を作っても、「うまい」しか言わなかったしな。メニューも完全にこちら任せで、リクエストされたこともほとんどない)
十年、一緒にいた。祝ってやれたのは九回だけ。
――親友が、その誕生を誰かに寿がれたのは、人生でたったの九回だけだった。
「……チッ……」
気持ちが沈みこみそうになり、舌打ちして頭を振る。毎年、カルヴァンの手料理を口にして、「うまい!」と笑う顔は、きっと、もう誰も覚えていない、『ただのリツィード・ガエル』の顔。
聖女の息子。赤銅色の死神。稀代の聖人――生前も、死後も、カルヴァン以外の誰一人、リツィードを『人』として扱う者は現れなかった。
だから彼を友と呼ぶと決めた日に、せめて自分だけは、等身大の彼を認め、生涯傍にい続けるのだと誓ったのだ。
それなのに、いざ蓋を開けてみれば、彼の食事の好みすら知らなかったのだ。それも、死後十五年もたって、初めて気がついた。
(何が、親友だ。――馬鹿馬鹿しい)
腹の底から込み上げる苦いものを、顔を顰めて飲み下す。
彼の死後、どうして秘密を打ち明けてくれなかったのかと、そんなに自分は頼りなかったのかと自分を責めた。十五年、ずっと、己の不甲斐なさを悔やまなかった日はない。
だが、食べ物の好みすら察せない程度の関係性の相手には、そんな重大な秘密を打ち明ける気にはならないと言われれば、反論の言葉などあるはずもない。
今日もただ、死にたくなるような現実を突きつけられる。
「食堂で、何か調達するか……」
少なくとも、誕生日の手料理を喜んではくれたのだ。食堂の余りを使って作る大雑把な男料理を、大袈裟に喜んで、嬉しそうに頬張っていた。――さすがに、あの表情までが嘘だったとは思いたくない。
供え物は、ひとまず手料理で賄おう。好きなものはわからないが、嫌いなものはほとんどなかったはずだ。
一兵士だったあの頃と違い、騎士団長が食堂で食事を作っているとなると奇異のまなざしを注がれたが、不機嫌な空気で追及を避ける。鬼神と呼ばれ、普段から部下に遠巻きにされていることが、こんなところで役に立つとは思わなかった。
部下たちの物言いたげな視線を無視して皿を持って部屋へ戻る。
いつの間にか、黄昏が近づいて、世界が薄闇に包まれ始めていた。西の空には、ひときわ輝く一番星。――急いだほうが良さそうだ。
カルヴァンは、大股で香炉へ近づき、中を覗き込むと視線一つで乳白色の樹脂に着火する。
その瞬間、ふわりと重い甘さを含んだ香りが部屋に充満し始める。
カルヴァンにとっては、頭が痛くなるほど大嫌いな匂いで――きっと、亡き親友の生前、一番身近にあった香り。
ぎゅっと眉間に皺を刻みながら、香炉の前に皿を置く。
「食事に文句があるなら直接言いに来い。――なんだって作ってやる」
不機嫌に呟いて、椅子に腰かける。
わかっている。あの男が言っていたことなど、全て迷信だ。
神などいない。信仰など意味はない。カルヴァンは、大陸一の宗教大国にいながら、徹底した現実主義者として生きている奇特な人間だ。
死者が蘇ることなどあるわけない。人が死ぬのは一瞬で、本当に簡単なものだ。それは、この三十年ばかりの人生で、嫌というほど知っている。
だけど、それでも――それでも、こんな馬鹿げたことをしたくなるくらいには、カルヴァン・タイターが十五年背負い続ける闇は深すぎた。
(もしもお前が本当に戻って来たら――何を話せば、いいんだろうな)
ゆらゆらと立ち上る香りに包まれながら、ぼんやりとそんなことを考える。
まず、何を言われるかが、全く想像つかない。何せ、十五年ぶりだ。それも――歴史上類を見ない、非業の死を遂げた人物との対面。
「……詰ってくれればいいんだがな」
辛かった、痛かった、怖かった――何でもいい。
どうして自分があんな死を迎えねばならなかったのか。どうして誰も自分を助けてくれなかったのか。――どうか、尽きせぬ怨嗟を吐いてほしい。それが許される男だ。
そして、それを受け止めるべきは自分なのだと――カルヴァンは、ずっと、思っていた。
そうしたら、初めて、謝ることができる。許しを請うことができる。
「どう頑張っても、お前がそんなことを口にするところを、微塵も想像できないんだけどな……」
眉間を指で押さえ、瞳を閉じる。
記憶の中の友人ならば、穏やかな微笑みを湛えて『民の救済こそが、聖人の務め』と告げるはずだ。カルヴァンが大嫌いな、聖職者然とした、あの、仮面みたいな笑顔のままで。
むしろ、遺していった友人を苛むくらいなら、姿を現すことすら憚りそうな男だ。
いつだって、孤独の中に沈むことを笑って受け入れるような聖人面が気に食わなかった。
最期の瞬間すら、微笑みを浮かべた聖人は、きっと、死後の世界でも同じように、完璧な笑みを浮かべているはずだ。
仮面のように張り付いた、慈愛の塊のような笑顔で――誰も踏み込ませない。懐に入れない。独りぼっちを当然と受け入れ、自分以外の誰かを幸せにすることを生きがいにして、自分自身が幸せになることなんて考えもしない。
リツィードは、カルヴァンが伸ばした手を握り返すことなく、たった独りで旅立った。きっと、今も、独りきりで、深く色濃い闇の中に沈んでいるのだろう。
「こんな儀式くらいで帰って来られるモンなら、さっさと帰ってこい、馬鹿野郎……」
吐き捨てるように呟いて、項垂れる。孤独と絶望の闇に飲まれているのは、カルヴァンも一緒だ。
己の生も死もどうでもいいと、孤高に生きるカルヴァンに、昔を知る人物たちは皆、リツィードのことは忘れろと言う。
過去に生きるのはやめて、未来を見て生きろと。新しく誰かの手を取り、孤独と傷を癒して、幸せになればいいと。
だけど、どうしてもカルヴァンにはできない。
痛みを背負って死に、今も変わらず誰の手も取らず孤独と不幸の真ん中で強がる親友を放置して、自分だけ幸せになるのは、違う。
だから、未だにこの部屋に住む。リツィードが生きていた頃と同じ日々をなぞる。
掃除が苦手だったリツィードの分まで掃除をして、シーツは定期的に洗い替えて。もしも奇跡が起きて、ひょっこり本人が帰って来たとしても、憂いなく再び暮らし始められるくらいに。
目にするたびに、そんな奇跡が起きるわけがないと現実を突きつけられても――己で己の心をずたずたに切り裂くような所業だとわかっていても、やめるつもりはなかった。
痛みでも、絶望でもいい。――それがあるうちは、亡き親友を、いつまでも忘れずにいられる。
もう二度と、リツィードを救えないというのなら――今のカルヴァンにできるのは、一緒に孤独に沈んでやることだけだから。
夜明けに焚く送り出しの香は、必要ない。孤独と不幸しか待っていない世界になど、帰らなくていい。ずっと、カルヴァンの傍にいればいい。
現世に留まれば悪霊になり、呪いをまき散らすというなら、それもいい。――真っ先に自分を呪い殺してほしい。
リツィードがいない世界で生き続ける方が、カルヴァンにとっては、耐えがたい呪いのような人生だから――




