61 【さよなら、堕天使】
勇者様という人は本当に強い人で、彼は魔王を討伐するその時まで、ネガティブな感情や言葉といったものを1度も見せたり言ったりすることがなかった。
自分の死が怖くないから、そうすることができるのだと思う人もいるかもしれないけど、そうじゃない。勇者様のちょっとした変化というか、行動のリズムというか、その時彼と接した時間はほんの少しの間だったけれど、はっきりとした違和感を覚えた僕には彼の心の内がよくわかった。勇者様を心理的な苦痛から一刻も早く救って、真の意味で彼と繋がるには、ウーリール先生とゆっくりお話しをしてもらうのが1番いいと思った。
だから僕は、ハンスさんに初めてのキスという大切なイベントの邪魔をされ、はらわたが煮えくり返っても、決して愚かなことはせず、勇者様を先生のお屋敷に連れて行くことにした。ちなみにハンスさんは一生懸命弁明していたけれど、無視して部屋に置いていった。
「ようこそいらっしゃいました、勇者様。間もなく、先生がお帰りになられます。どうぞ中でお待ちください」
僕たちを出迎えたのは、おしとやかな良妻となった師匠だった。あの時、ハンスさんが部屋に入ってきたということは、師匠はあの場所からいなくなっていたということだ。僕と勇者様が愛を再確認している間に、裏で色々と準備をしてくれていたのだろう。それにしても早すぎるけど。
師匠に通されたのは、いつもの暖炉の部屋ではなく、僕が泊まっている2階の部屋だった。部屋に入るやいなや、フレディ君が後ろ足を床に叩きつけて、溜めていた怒りを爆発させてから、勇者様の足元にすり寄った。勇者様はフレディ君をそっと抱き上げて謝罪の言葉を口にした。
「ご、ごめんよぉ……フレディ君も、怒らせちゃって。元気だった?」
僕は口元をだらしなく緩ませながら、久しぶりの癒し系コンビを堪能した。
「シスター? ちょっとこっちに来て、手伝ってもらえますか?」
「あ、はぁい」
師匠に呼ばれた僕は、口からこぼれかけていた涎を啜って部屋の外へと出た。たどり着いた先は、1階のいつもの部屋だった。僕が部屋に入ったことを確認すると、師匠は分厚い扉を静かに閉めた。
「あれ? 手伝うことがあるんじゃ?」
「んなもん、あるわけねぇでしょうが。どうだったんですか?」
さっきまでいたはずのおしとやかな女性は、どこを探してもいなかった。師匠は鼻息と語気を荒げて顔を近づけてきた。
「え?」
「とぼけなさんな。避妊はちゃんとしたんですか?」
「避妊って……いや、その、そこまでは……」
「ダメですよ! もし今子供を授かったら、どうする気ですか? 旅どころじゃなくなりますよ! 正しい交際は正しい避妊から! そんなこともできないなんて、まったく最近の子ときたら……」
どこか安心できる師匠とのやり取りは、面倒臭い誤解を解くことから始まった。
それからすぐにウーリール先生が帰ってきた。先生が勇者様と2人きりでお話をできるようにするために、僕と師匠は再びフレディ君のいる2階の部屋へと移動した。お茶とお菓子の準備だとか、ついでの晩御飯作りだとか、少し時間がかかってしまって、気付けば窓の外は暗くなっていた。
ベッドの上で師匠と隣り合って座りながら、僕は事の顛末をすべて話した。
「……それでは、勇者様とは本当に何もしていない? 口づけすら?」
「そうです」
「何やってんだ、おめぇ」
師匠はガックリと肩を落として、我がことのように残念がった。
「仕方ないじゃないですか。だって、ねぇ? 人の動きはコントロールできませんから」
「時々いるんですよねぇ……そういう、空気が読めないというか、天才お邪魔虫が。あの優男……ぶっ潰してやろうかな」
「賛成したいんですけど、絶対にやめてください。そこさえなければ、とてもいい人なので」
腹が立ちすぎて彼を無視した僕が言うのも何だけど、ハンスさんは基本的にはとても親切でいい人だ。現場から遠く離れて、時間も経って、なんとかそれを思い出すことができた。
「そうですかぁ? まぁ、せいぜい本番の時は気を付けてくださいね? 絶対に邪魔の入らない自室か、ここを使ってもいいです」
「ほ、本番の時って……いつのことですか?」
「無論、聖夜祭の日ですよ。それまでデートを重ねて、お互いに気持ちを高め合っていかないと」
「で、で、で、デート?」
「はい。今日はもう暗くなってしまいましたから、ダメでしょう? それで明日はあなた、ここで勉強しなきゃいけないんですから、ダメですし……そしたらもう、聖夜祭まで5日。聖夜祭の日を抜いたら、4日しかないじゃないですか。大変ですけど、頑張ってくださいね?」
慌ただしく毎日を過ごしている間に、もうそんな時期になっていた。昼頃に勇者様と過ごした場面を頭の中でイメージすると、緊張感と羞恥心が同時に襲ってきた。
「おっ? いいですねぇ。恥じらう乙女の姿は。その調子で、2人の仲を一層盛り上げていってくださいね?」
「ど、どうしたらいいんですかね?」
次なる支持を求めても、答えが返って来ることはなかった。
「もう、自分で考えて行動できるでしょう? ここからは先は、私は何も手出しをしません。小鹿ちゃんとも呼びません」
その時の師匠は笑いかけてくれていたけれど、どこか寂しそうな目をしていた。
「最後に私から、祝福の言葉を贈らせていただきます。おめでとうございます、アリーさん」
師匠と過ごした日々の記憶が一気に呼び起こされた。ドアを破壊され、お湯をぶっかけられ、町中を駆け回って、どこで拾ったのかわからない雪を口に突っ込まれ、また町中を駆け回って、極めつけはドキドキ大作戦なんていう、わけのわからないこともさせられた。彼女との思い出なんて、ろくでもないものばかりで、まともなものなんてひとつもなかった。それなのに……。
「どうしたんですか? 急に泣いたりして」
「だって……師匠がいなければ、僕は、何もできなかったから……」
たぶん、久しぶりに実感する別れが悲しかったんだと思う。泣けて泣けて仕方が無かった。師匠は優しく僕の背中をさすってくれた。
「ありがとうございます、マリアさん。この恩は、一生忘れません」
突如としてやかましく現れた愛の堕天使は黙って僕を抱擁した。それが彼女の別れの挨拶だった。




