55 【代償】
目覚めはいつでもぼんやりとしていた。僕は心地の良い疲れが残っている体を無理やり起こして、声が大きくて体の小さいその修道女に言われるがまま動いた。
「おはようございます。それじゃあ、まずはこれを口に含んで?」
「あい」
「ミルクで流し込んで?」
「あい」
「それじゃあ参りましょうか?」
「あい」
「その前に髪をとかした方がいいですね。ついでに顔も洗っちゃいましょう」
「あい」
僕は師匠によって甘い焼き菓子を口の中に放り込まれ、すかさずミルクも流し込まれ、最後は化粧台の前へと移動させられた。
この時は朝じゃなかったけど、師匠は朝からうるさい人だった。師匠と出会って日の浅い時は、彼女に首根っこを掴まれて一日が始まったりしていた。けれど、それが嫌すぎた僕は最終的に、師匠が部屋に起こしに来るちょっと前に自然と目が覚めるようになるという、変な特技を身につけることになる。
「……なんで、いきなりお菓子を食べさせたんですか?」
熱い布巾でゴシゴシ顔を拭われて視界と思考がはっきりすると、最初に気になったことがそれだった。どこから取り出したのやら、師匠は精巧な装飾がなされた木製の櫛で僕の髪を丁寧にとかしてくれながら答えた。
「これから頭を使いますからね。そういう時に、甘いものはいいらしいですよ? それに昼間はお粥だけで肉体労働をさせてしまいましたから、私なりのお詫びの気持ちでもあります」
「なるほど。ありがとうございます」
僕は師匠への感謝を言葉にして、バカでも頑張らなきゃいけない時が迫っているという緊張感を持った。
「でも、美味しかったです。ミルク粥。あれはオソバのお粥だったんですか?」
お昼に食べたミルク粥の麦でもない、もちろん精霊の木の実でもない、独特な風味には覚えがあった。
「案外、違いのわかる女だったようですね。先生がお帰りになられるまで、まだ少し時間があります。待っている間、お料理のコツを少しだけお教えしましょう」
「わぁ……楽しみだなぁ」
藪蛇だった。後の生活において、それが死ぬほど役に立つスキルになることを知らなかった僕はそんなことを思っていた。
外は夜の闇に包まれていた。夜というのは魔が差す時間なんて言われていて、実際に治安が悪くなるし、暗くて何も見えない怖い時間帯でもある。見回りの修道兵だとか、各お屋敷で警備をしている人だとかが持つ灯かりがなければ、きっと何も見えなかったと思う。上層の町では師匠がなかなかの有名人だったという事もあって、道すがらで出会う仕事中の人たちから温かい言葉と注意をかけられつつ、何事もなくウーリール先生のお宅にたどり着くことが出来た。
家の中に入って、まずは2階の部屋へと通された。その日は帰りが遅くなるから、泊っていった方がいいという師匠のお誘いをありがたく受けたからだった。部屋の中を色々と観察したいところだったけれど、カバンに入れていたフレディ君のための寝床やトイレを設置してから、すぐに師匠のお料理レッスンを受けることになった。
料理中に帰ってきたウーリール先生は、僕の心を少しだけ動かすくらいに疲れ切った顔をしていた。師匠がフレディ君も来ていることを先生に伝えると、彼は「下に連れてきてもいいですか?」と弱ったような甘い声で僕に囁いてきた。もちろん了承すると、先生は師匠よりも3倍速く動いてフレディ君を抱っこしながらキッチンへと戻ってきて「向こうの部屋で待っています」という言葉だけを残して去っていった。
夕食が終わって、フレディ君は暖炉のある部屋で大好物の牧草の山に囲まれて幸せそうに眠っていた。僕たちも同じ部屋で、食後のまったりとした時間を過ごしていた。
「本当に美味しかった。2人とも、本当にありがとうございました」
師匠に教わりながら作った『ユハ』と呼ばれる魚のスープの味を、ウーリール先生はとにかく褒めてくれた。おかげで気分が良くなった僕は、臆することなく本題に入ることができた。
「それで今日は先生にお聞きしたことがあって、訪ねてきたんですけど……質問をしても、よろしいですか?」
先生が一瞬だけ師匠の顔に視線を向けたのを僕は見逃さなかった。師匠はわざわざ立ち上がって僕の隣に座ってきた。和やかだった雰囲気が一気に引き締まった。
「聞かずともわかっているつもりです。いつかはお伝えしなければならないと、私も思っていたことですから」
テーブルの下で震えていた手を師匠がそっと握って笑いかけてくれた。その顔は何に対してかはわからないけれど「任せろ」と言っていた。
「まずは魔法のお話から、させてもらいます。ひとくちに魔法といっても種類というものがあって、私の使う魔法の威力が一般的な魔女と比べて弱いのも、そこに理由があります。学術的な話になってしまうので詳細は省きますが、勇者だけが使える魔法というのは、もっとも原始的で、強力であり、なおかつ制御が難しいとされている特殊な分野に属するものとなります」
先生の話は思っていたよりも、ずっとわかりやすかった。僕は前のめりになって話の続きを聞いた。
「アルハギク・アルハギト。勇者にだけ許されたその魔法だけが、魔石を破壊することが出来るということはもうご存知ですね?」
以前、ハンスさんに同じような話を聞いたことのある僕はしっかりと頷いた。
「問題は、勇者の魔法には必ず大きな代償がともなうという点にあります」
「ダイショー?」
「魔法を成功させるために何かを捧げなければならない、ということです。アルハギク・アルハギトの場合であれば」
血だ。何度も何度もその魔法を間近で見て、勇者様の傷ついた手に聖水をかけてきた僕は、そのことに気が付いて先生が言い切る前に口を挟んだ。
「それは……ノト君の血じゃなければ、ダメってことですか?」
先生は深く頷いてから言葉を続けた。
「しかし、問題はそこではありません。勇者はもうひとつだけ、世にもおそろしい魔法を使うことができます。その魔法でしか魔王は倒せない。成功すれば、この暗黒の時代は終わり、太平がやってくる。その魔法には名前すらありません。そしてその魔法の代償こそが、ノトというひとりの若者からあなたという希望を奪うことになってしまった」
「その魔法の代償って……一体、何なんですか?」
1度大きく深呼吸をした先生はごくりと喉を動かして、僕から目を逸らしながら口を動かした。
「……勇者の命」




