49 【むなしい人間】
ほどなくして、おじいさんは獣舎へと戻ってきた。お礼の言葉だけでは足りないと思った僕たちは、獣舎にいるバッカムトのお世話を手伝うことにした。
バッカムトは長い角と豊かな被毛に全身を覆われた、なんとも可愛らしい外見をした白い牛だった。3人がかりだと給餌はすぐに終わってしまいそうだったので、僕は糞尿の処理を率先しておこなった。朝の雪かきに比べれば、その作業は大変ではなかった。専用の道具でかき集めた物体を床に空いた穴へ落とす。そうすると穴の下に流れる水が、地下に埋め込まれたタンクまで一気に流してくれるという、画期的なシステムが取り入れられていたからだった。
タンクに流した糞尿は加工して燃料として使ったり、発酵させて畑に撒いたり、昔は建物の外壁として使っていたなんていう話もおじいさんから聞けた。そんな世間話も挟みつつ、無事に奉仕活動を終えた僕は、やたら人懐こい1頭のバッカムトの前髪をめくって隠されていた顔をよく見てみた。
「わぁ、すっごい綺麗……」
そこには勇者様と比べても負けず劣らずの美しい白目とつぶらな黒い瞳があった。バッカムトに頭を擦りつけられた僕は、その子の顔全体を両手で抱くようにして強めに頬を撫でてあげた。たちまち体中が牛臭さに支配されていった。
「あぁ、なんてニオイ……でも、嫌いじゃないかも」
「それだけ体格差があるのに、よくそんなことができますね。怖くないんですか?」
師匠は実は結構ビビりな一面を持っている人だった。その証拠に彼女は給餌をしている時も、横から伸びてくるバッカムトの大きな顔に怯えていたし、僕たちから離れた場所に立っていた。
「全然、平気です。あ、でも近づいちゃダメですよ、マリアさんは。絶対に」
基本的にバッカムトは温厚だけど、ひとたび暴れだしたら人間なんて簡単に蹴り殺される。そもそも師匠と牛は動物として相性が悪いということが直感できた。僕は不測の事態が起こる前に警告をしておいた。
「なんだぁ? その言い方はぁ?」
口を尖らせた師匠がつかつかと歩み寄ってくると、バッカムトが「ムゥ」と鳴きながら後ずさりした。
「ほらね? 空気の変化にとっても敏感なんですよ、この子たちは」
「……まぁ、今回ばかりはそちらの勝ちとしましょう」
すぐそばで僕たちのやり取りを見ていたおじいさんが愉快そうに笑った。
「もしかして、お嬢さんは動物師の方ですか?」
世代や地域によって呼び方が変わるだけで、動物師と獣使いは同じ意味のものだ。自分の生まれを明かすべきか、少し迷った僕は師匠の顔を見た。さすがの師匠も困りきって口を結んだままでいた。
「……なるほど。こちらの配慮が足りませんで、とんだ失礼をしました」
「いや、そんな……こちらこそ、すみません」
おじいさんになんと返したらいいかわからないまま、僕は自分自身を誤魔化すような態度をとるしかなかった。勇者様は肯定してくれたけど、知らない人に自分の生まれを突かれると、抵抗感みたいなものがその時の僕にはまだあった。
「私のような、むなしい人間では、お嬢さんのお力にはなれませんでしょうな」
「……むなしい? あなたが?」
「はい、そうです。長く生き、知識だけはつきましたが、残念ながら私はあなたの為に何もできやしません」
「そんなことないですよ。さっきだって助けられたばかりだし……あなたのことをむなしい人間だなんて、僕には思えません」
「ほっほっほ。どうもありがとうございます。本当に、雪の妖精のような純粋さを持つお嬢さんだ。ただ生きただけで、こんなに素晴らしい出会いがあるなんて、感慨無量とはこのことです」
感慨無量の意味は、おじいさんと別れてから師匠に聞いて知った。なぜかはわからないけれど、おじいさんは僕たちと出会えたことをとても喜んでくれていた。
「世の中には知識と行動を伴う、優れた人間がいます。あなたの人生を豊かにしてくれるのは、そういった希少な人たちとの出会いだと私は思います。私はせいぜい、この場所であなたの幸運と幸福を祈らせてもらうことにします。どうかお元気で」
別れ際のおじいさんの言葉は、かなり哲学的なものだった。この言葉の意味は、師匠もよくわからないと言っていた。
その日から、僕は自分が獣使いであるということを隠さなくなった。おじいさんに気を遣わせてしまったことを申し訳なく思ったからというのと、僕の生まれを真っ向から否定してくるような人は、大体嫌な人だから、それで何の問題も無いということに気が付いたからだ。今のところ、それで上手くやっていけてるから、この考え方は間違ってはいないと思う。なんたって僕には勇者様がいるし、師匠や先生だっている。ついでにハンスさんも。おかげで自分が恵まれた環境にいるという自覚も芽生えたし、それまで習慣のなかった『ごちそうさま』が言えるようになったのも、確かこの時期くらいからだったと思う。人に感謝できるようになるというのは、幸せへの第1歩なのかもしれない。そう考えると、やっぱり僕には、あのおじいさんがむなしい人間だとは少しも思えなかった。




