45 【家主不在の邸宅で】
意識はすぐに取り戻せたと思う。以前招かれたことのある、本と本棚がたくさんある暖炉付きの部屋へはシスター・マリアの肩を借りることによって、なんとか到着することが出来た。
ウーリール先生は留守のようだった。マリアさんは暖炉に火をつけると、抜群の手際の良さで調理を始めた。あっという間に出来上がった湯気立つ鍋の中身は、取っ手付きのマグに入れられて僕の目の前に出された。
「ヤイモルクックです。冷めないうちに、どうぞ」
そのホットドリンクは卵の黄身のような濃い色をした液体の上に、甘い香りのする茶色い粉末が振りかけられたものだった。何気なく使われていたその粉末が、特権階級の人たちにしか使えない超高級な香辛料であることを僕が知るのはもう少し先のことだった。
「……おいしい」
ひと口飲んだヤイモルクックの味に僕は痺れた。ミルクと卵の濃厚な味わいと優しい甘さが、冷え切っていた手足の先をプチプチと温め、血が全身を駆け巡るのがわかった。その味はそれまで混沌としていた僕の心を鎮めてくれるものだった。
「ちなみに、これがお砂糖です。甘さが足りなければ、お好きなだけどうぞ」
マリアさんが今度は砂糖の入ったポットを勧めてくれた。生まれて初めて見たお砂糖の色は、ヤイモルクックにかけられていた粉末よりも、もっと淡い色をしたものだった。
完璧な配合をこなしてみせた上で、さらに相手に配慮することができる。僕はしみじみとした気持ちで彼女の申し出を断った。くらくらとしていた視界はピタッと止まって、師匠の愛嬌ある素敵な笑顔をしっかりと見ることが出来た。
「まったく、焦りましたよ。よくそんな状態で、勇者様と旅が出来ていましたねぇ」
「いや、あの……なんか、酷くなっちゃってる、みたいで」
勇者様のことがまともに見れないなんて、初めてのことだった。もちろん気まずさもあったけれど、そんなケチな感情を上回ってくる何かが、僕の体の自由を奪っていた。
「どうしたら……どうしたら、どうしたらいいんですかね?」
同じことを3回も言ってしまうくらいに、この時の僕は僕自身に戸惑っていた。
「まぁまぁ、落ち着きなさいな。まずはグイっと飲んじゃって。お話はそれからにしましょう」
師匠は自分のマグを顔の近くにあげて、お得意のスマイル付きウインクをしてきた。僕は彼女を妬みつつ、僕でも真似できそうな部分はないかと目を光らせながらマグの中身を啜った。
マグの中が残り少なくなってきても、ウーリール先生はまだ帰ってこなかった。不在の家主の行方と正体が気になった僕は、少しだけ踏み入った質問をすることにした。
「先生はどちらに?」
「おそらく町だと思います。先生は魔法で除雪が行える方なので、この時期は大変頼りにされてるんですよ」
「なるほど」
それまで魔法に攻撃的なイメージしかなかった僕は、物は使いようなんだと感心して、納得もした。
「ところで、先生って何の学者さんなんですか?」
「大学では精霊学を、聖堂では倫理に関することで教鞭をとっておられます」
「へぇ……」
わかったフリをして聞いていたけれど、僕の人生とは縁のない言葉ばかりが出てきて、ひとつもピンと来ていなかった。
暖炉の炎が大きく揺らめいて、玄関で物音がした。
「あなたのおかげで影の方から差してきました。先生を出迎えてきますね」
マリアさんは嬉しそうな顔をさせて素早く退室していった。その姿たるや、例えるならば飼い主が帰ってきた忠犬のような、見ていてほっこりとさせられるものだった。部屋にひとり残された僕は、起立して学者先生を迎える準備を整えた。




