32 【鹿になれ】
どこの教会に行っても、礼拝堂には必ず丸い鏡が飾られていた。鏡の大きさは教会によってまちまちだったけど、丸という形だけは世界共通だった。何の意味があって、その丸い鏡が礼拝堂に飾られているのか、未だによくわかっていないし、特に知りたいとも思っていない。
脱衣所に設置されていたのは、年季の入った四角い鏡だった。木の枠がガビガビになるまで使い込まれたその鏡が映し出すひとりの乙女の顔は、生まれたての小鹿なんかよりも断然可愛く仕上がっていた。
「悦に浸っているようですね。鏡は初めてですか?」
湯上り後の僕を映していた鏡越しに、微笑みを浮かべたマリアさんが話しかけてきた。
「す、すいません。あのー……そう、ですね」
不思議なもので、自分の顔というものを初めてまともに認識した僕は、目の前にいるこいつが素っ裸でお湯の浴びせ合いやら、乙女の正しい洗い方やらをやっていたかと思うと、なんだか急激に恥ずかしくてたまらなくなった。
「自分の容姿を肯定するというのは、悪いことではありません。存分に武器を探してください」
「武器?」
「はい。いろんな角度から見える自分の顔を研究して、最も可愛いと思える顔を意中の相手に見せつけ、その気にさせる。これを武器といわずして、なんといいますか?」
「なるほど……」
言われた通り、僕は何度か角度を変えて鏡の中の自分を見てみた。どの角度もなかなかだったけれど、なんというか、僕はまだまだ子供みたいな顔をしていて、少女性を残しつつ大人の魅力も兼ね備えたマリアさんの顔には確実に負けていた。彼女と自分の顔を見比べた僕は、気になったことを尋ねてみた。
「ちなみに、ここのシスターたちの中で、1番可愛い人って誰ですか?」
「ぶっちぎりで私ですね」
間髪入れずに言い切られた。でも、それはまごうことなき事実だったし、なんだったら彼女は目に見えない魅力というか、存在するだけで場が明るくなる、華やかさを持った人だった。
「まぁ、可愛いなんて言ってもらえるのは、人生の中でほんのひと時だけです。どんな人間でも、生まれてくれば、最後は仲良く土の中ですからね。身だしなみは大切ですよ? お風呂に入って、ちゃんと体を洗って、髪だってしっかりとセットすれば、アリーさんのような田舎娘でも、ご覧のとおり」
「あ、あはは……」
ジョークなのか本気なのか、判断に困った僕は愛想笑いを返すのが精いっぱいだった。
「ですが、どれだけ外見を整えても、内面だけはそうもいきません」
鏡の中で雄弁に語っていたマリアさんは自分の胸に手を当て、強い意志の宿った瞳で僕を見据えた。
「いいですか、アリーさん? 人生は何があるか、わかりません。愛しの彼がいなければ何もできない小鹿ちゃんではなく、彼さえいれば何でもできる立派な鹿になっていきましょう」
「はぁ……」
当時の僕には、マリアさんの言っていることの意味がまったくわからなかった。
あれから1年が経った。今ならあの時の彼女の言葉の意味が、なんとなく輪郭ぐらいは捉えられるようになってきた、かなぁ? いつの日かきっと、彼女の言っていたような立派な鹿になれるといいなと思いながら、僕はバハティエで日々を過ごさせてもらっている。




