31 【乙女の正しい洗い方】
聖堂のどこをどう歩いたかまではまったく覚えていない。シスター・マリアに手を引かれた僕は、ポーっとした気持ちで操り人形のように廊下を歩かされていた。
当たり前のことだけど、聖堂内は聖職者たちでいっぱいだった。廊下ですれ違った神父やシスターたちがマリアさんに示した態度は実に様々なもので、穏やかに挨拶をする人や、朗らかに笑いながら軽く雑談をする人もいれば、明らかに彼女を見る目が笑っていない人、まったくの『無』の状態の人もいた。
それでも彼女は誰に対しても変わらない愛嬌の良さで、ひとりひとり丁寧に接していた。情けないことに僕はその都度、相手がギリギリ確認できるかできないかぐらいの角度で会釈をする程度だった。
「シスター・マリア……」
大浴場に到着する直前のことだった。妙齢の美しい修道女が、吐息多めの艶っぽい声を出してマリアさんを呼び止めた。
その美しい修道女は大きく笑った口を半開きにさせて、青い瞳を輝かせながらマリアさんに熱い視線を送り続ける、お姉様大好きオーラを隠そうともしない人だった。ベールから明るい色の前髪を出している姿を見て、同じ見習いシスターだと察知した僕は、美人のお姉様と仲良くできるチャンスかもしれないと、淡い期待を抱いて事の成り行きを見守った。
「ヨアナじゃないですか。ごきげんよう。聖歌隊の調子はいかがですか?」
マリアさんは若い修道女を呼び捨てにした。そのことについて、少しの嫉妬を覚えた自分に対して疑問を感じた僕は、そこから急速に我に返っていった。
「これから練習に行くところなんです。シスター・ロリクスったら、またおかんむりでしたよ?」
「え~と……夜には顔を見せると、彼女に伝えておいてください。しばらくの間は新しい同志に、ここのルールを教えなくてはならないので」
「はい、承りました」
シスター・ヨアナとはお互いに軽く会釈を交わして別れた。適度にほっそりとしたヨアナさんは、後ろ姿までが百合の花のように甘く美しかった。彼女が長い廊下の角を曲がる頃には、僕は完全に自我を取り戻していた。
「どうかされましたか?」
「あ、いえ。大丈夫です」
危ないところだった。聖堂という特殊な環境に飲まれかけていた。長い間、同性とも縁がなかったからか、ついうっかり、目の前のパワフルで頼りがいのある先輩だけに飽き足らず、初対面の美人見習いシスターのことまで、そういう目で見てしまっていた。諸々が入り混じったドロドロの恋愛関係なんて望んでいない僕は、勇者様の顔を鮮明に思い出して、自分が何のために頑張っているのかをしっかりと胸に刻み込んだ。
「ではでは、参りましょうか。大浴場はすぐそこです」
信念をはっきりとさせた僕は、背筋を伸ばして先輩シスターのあとを追った。
生まれて初めて見た大浴場は、大浴場だった。大きくて広い、湯を浴びる場所。それが大浴場。そうとしか言えないし、人間というのは驚きすぎると声がめちゃくちゃ小さくなる。だから僕は、大浴場を見渡しても『ゎ』という声しか出すことができなかった。
「ふっふっふ。驚きましたか? ここは他のシスターたちも使う共有スペースですので、湯浴みを始める前のエチケットというものがございます。まずはそれをお教えしますので、私についてきてください。足元が滑りやすくなっておりますので、転ばないように気をつけてくださいね?」
彼女の言う通り、大浴場の足元は湿地帯のぬかるみよりもヌルヌルとしていた。これに完全にビビった僕は慎重に抜き足差し足、すり足まで使って、大きな四角で区切られた浴槽の前にまでたどり着いた。
「まずはこの手桶を使って浴槽からお湯をすくい、頭からこれをかぶります。あんまり勢いよくやると、耳にお湯が入ったりしてテンションが下がるので、なるべくそっとかけるようにしてください」
マリアさんは自分で言ったことをそのまま実践してみせると、顔にかかったお湯を片手で切って、持っていた桶を僕に手渡してきた。
「どうぞ」
促されるまま、僕も彼女と同じことをした。ひとつひとつの毛穴が洗い流されていくような、温かさを含んだ独特の快感が頭のてっぺんから肩にまでつたっていった。
「いいですねぇ。次は肩にお湯をかけます。右でも左でも、順番はどっちからでもいいです。でも必ず両方の肩を流してくださいね?」
僕の手から桶をひったくったマリアさんは、浴槽からたっぷりとすくったお湯を僕の左肩にぶっかけてきた。
「ぐはぁっ!? なにするんですか!?」
「いやぁ、すみません。あまりにも素直で可愛いらしいお顔をされていたもんですから、つい。さあさあ、もう1発いきますよ? オラァ!!」
右肩に命中させられたお湯の衝撃で、僕はその場に尻もちをついた。マリアさんは挑発するように笑いながら浴槽からお湯をすくい、僕に桶を押し付けてくると、両手を使って手招きをしてきた。
やってやる。結構な重みと痛みを伴う攻撃をもらった僕は、完全にその気にさせられ、力を込めて桶を握りしめながら立ち上がった。
「おりゃあああ!!!」
全力で振りかぶって撃ちつけたお湯は、見事に彼女の肩に命中した。
「な……なん、で!?」
完璧な手ごたえだった。それなのに、彼女はその場から1歩も動かずに不敵な笑いを浮かべているだけだった。
「ふふっ。そんな貧弱な攻撃では、私を倒すことはおろか、動かすことさえできませんよ?」
「なにをォッ!!」
僕はマリアさんに背を向け、浴槽からもう1度お湯をすくい直しながら考えた。同じことをやっても、無駄かもしれない。攻撃面においてだけでなく、防御の面でも圧倒的な力を見せつける相手を打ち負かすにはどうしたらいいのだろうか。
「ヤアァァッ!!!!」
不意打ちをするしかなかった。僕は思い切り体をねじって、彼女の顔めがけて攻撃を仕掛けた。
「いけませんねぇ。顔は反則ですよ? 洗い流すべきは肩ですからね」
僕の耳元でマリアさんが囁いた。
心すら読まれていたというのだろうか。僕の放ったお湯は、さっきまで彼女が立っていたはずの空間を切っただけだった。簡単に背中を取られた僕は、相手との力量の差という現実を突きつけられ、絶望することしかできなかった。
「はしゃぐのはここまでにしましょうか。次にお湯をかける場所はデリケートゾーンになります。これも順番はどちらでもいいので、前と後ろ1回ずつ流してくださいね? 以上が湯浴み前の基本的なエチケットとなります」
仕切り直したマリアさんは、またしても実践を交えながら丁寧に説明をしてくれた。
「さてと。本来だったらここで浴槽に入ってもいいんですが、その前に……アリーさん」
「あ、はい」
僕はマリアさんが見せてくれた実践の真似をしながら答えた。
「ここまで来るのに、大変な長旅だったと伺っております。本当に、お疲れ様でした」
「あ、ありがとうございます」
突然厳かになって頭を下げてきたマリアさんに、なんだか申し訳ない気持ちになりながら僕も頭を下げた。
「ですが! あなたの乙女の部分はそれによって、とんでもねぇことになっている可能性があります」
「とんでもねぇ……乙女の部分?」
「ぶっちゃけると、性器まわりのことです。その部分についての垢の落としをお教えしましょう。まずはしゃがんでください。旅のさなかで、大自然に向かって解き放っていた時のように」
「大自然に……ああ、なるほど。わかりました」
彼女の遠回しな表現を遅れて理解した僕は、その場でしゃがみ込んで股を広げた。
「少しは躊躇いなさいな! そういうところが小鹿ちゃんなんですよ!」
言う事を聞いただけなのに、理不尽に怒られた。
「いいですか? 男というのは、恥じらいを持った乙女の姿に欲情するものなのです。浴場なだけにね?」
「……ん?」
彼女の言っていることは僕にはよくわからなかった。
「気にしないでください。続けましょう。それで垢を落とすためには、こいつを使います」
言いながら、マリアさんは手のひらサイズの灰色のブロックを僕に向かって見せてきた。
「これは石鹸といってですねぇ、まずはこいつで手指の汚れを綺麗さっぱり落としていきます」
「ゎ」
初めての石鹼。初めてのお風呂。そして初めて乙女の正しい洗い方を学んだ僕は、その流れで正しいお尻の拭き方までをも彼女から学ぶことになった。
「コラァ!! 誰が中まで洗えと言いましたか!? それに、もっと優しく扱わないとダメです!! 泡立ちも全然足りていませんよ!?」
傍から見れば、その様子はまったく品が無かったかもしれない。けれど、僕にとってその時間は、新しい知識を得るとても貴重な時間となった。




