28 【堕天使マリア】
大きな大きな聖都ヤシュロク。僕がいたのは小さな小さな箱のような空間の中。僕がその破戒尼と出会った、というか、向こうから勝手に飛び込んできたのは、部屋に閉じ籠って4日目の朝を迎えた時だった。
「さ~てさてさてさて、ちょっと失礼させてもらいますよ? 入りますからね~、シスター……まだ霊名がありませんでしたね。まぁ、いいでしょう。悩める乙女のために、ハウラァァ!!」
彫刻の刻まれた重厚な扉の向こう側から、甘ったるい女性の声が聞こえてきた。と思った矢先、彼女はとんでもなく汚い声をあげて扉を蹴破ってきた。
「……いたいた。お~、予想通り、小鹿のような可愛い子ちゃんですねぇ」
ノックもしないでいきなりドアを破壊してきたその修道女は、僕とそう変わらない小柄な人だった。ベールもアクセサリーもしていない、身につけているものはシンプルな修道服だけ。肩の下まで伸ばした髪を左右で緩く結んでいて、色を感じさせない澄み切った肌とあどけない顔立ちがとても印象的だった。
その小さな体のどこにそんなパワーがあるというのだろう。僕の驚きと疑問をよそに、彼女はキュラキュラと音の鳴るカートを雑に片手で引いて部屋の中に入ると、自らが蹴破った扉を丁寧にはめ込み直した。
「防音よし!」
扉の修繕を瞬く間に終えた彼女は、再びカートを引いて僕の元へとやって来た。カートの上には、ちゃっかり彼女の分のカップまで乗せられていた。
「あ、あの……」
ベッドの上で戸惑い続ける僕に、彼女はくりくりとした可愛らしい瞳を大きく開いて、にっこりと笑った。
「はじめまして、シスター。勇者様にフラれてから、かれこれ3日も飲まず食わずと聞いて、愛の堕天使こと、わたくし、マリアが馳せ参じましたので、もう大丈夫ですよ。それでですねぇ、あの~……まぁ、これも何かの縁ですから、まずは一緒に温かい飲み物でも飲みましょう」
自称堕天使のマリアは手際よく、良い香りのする飲み物をカップに注いだ。ハチミツがベースとなっているのか、嗅いでいるだけで身体が温まるような琥珀色の液体が入れられたカップを、彼女は上品に僕に手渡した。
手にしたカップは熱すぎることもなく、ぬるくもなかった。心までさめざめと泣いていた僕にとって、その温度はとても心地が良かった。
「新たな出会いに乾杯!」
大きな声で音頭を取った彼女は、自分でも手にしたカップの中身をひと口飲んで、またしても僕ににっこりと微笑みかけた。元気の押し売りに負けた僕は彼女の振る舞いを受けることにした。
「それでですねぇ、実はあなたのウサちゃんを私のところで預かっていまして」
彼女は僕が飲んでいる最中に急に話を始めた。おかげでむせてしまって、飲み物の味はよくわからなかった。
「フ……フレディ君を? それは、ごめんなさい」
彼の存在をすっかり忘れていた。修道服に着替えさせられてから、僕がそれまでに着ていたものや荷物はすべて聖堂に預けっぱなしだった。
「いえいえ、全然、お構いなく。それより、あの~、思ったよりも懐かれてしまったといいますか、よっぽど先生のお腹が気持ちいいのか、1度抱っこされると私の先生からなかなか離れてくれないし、先生も先生で動物好きな方なので、私よりもウサちゃんに夢中になってしまうこともあって、ウサちゃんも夜中に限ってエオエオ吠えながら元気に走り回ったりしてしまいますし、盛り上げてくれているのか先生と肌を重ねている時に歌ってくれるのがなんとも邪魔と言いますか、その~……ね? 出来るだけ、お早めに助けていただきたいところではあります」
「……せ、先生?」
彼女の話は支離滅裂で全容がよくわからなかった。僕は耳に残った単語だけを聞き返した。
「はい。たまに我々修道女にも読み書きなんかを教えてくださる、聖都では大変高名な学者先生です。私の夫となる方なんですけども、抱きしめがいのあるとっても素敵な人なんですよ?」
「お、夫?」
修道女なのに彼女には婚約者のような人がいる。それって、大丈夫なのだろうか。
「ええ。私、先日、ついに先生を……先生に押し倒されまして。そういう男女の関係になってしまったものですから、この冬が終わったら、めでたくシスターをクビになることになりました。だからなんですよ。ベール、被ってないでしょ?」
シスター・マリアからは危ない匂いがした。僕と同族というか、変態族特有の濃度の高いオーラと気持ちだけで話すところなんかが僕とそっくりな気がした。あと『被ってないでしょ』と言われても、修道女にそういう決まりがあることすら知らなかった。
「何か食べますか? あいにく、ガッツリしたものは用意してこなかったんですけど、焼き菓子とジャムならばあります」
聞いておきながら、彼女は丸くてしっとりとした焼き菓子の上にジャムを乗せたものを問答無用で渡してきた。突き返すわけにもいかず、僕は渡されたお菓子を口の中に入れて飲み物で流し込んだ。
「いい食べっぷりですねぇ。何日も食べていない、飢えた野生少女って感じですねぇ」
そんなにガツガツは食べてない。けれどお菓子もジャムも飲み物もすべてを同時に口に含むと、そこで芸術品が完成したかのような美味しさの衝撃が、口の中から脳天にかけて突き抜けた。
「おいしい……」
「そうでしょう? これ、全部私のお手製なんですよ? 3日も泣いて、お疲れでしたでしょうから、体に優しい味付けにさせてもらいました。そんなことより、アリーさん。再出発は出来そうですか?」
「……どうして、僕の名前を?」
見知らぬ土地で会ったこともない人が自分の名前を知っていたら、普通はもっと警戒すると思う。だけどこの時の僕は、彼女の明るい狂気と美味しいお菓子に感覚をおかしくさせられていた。
「まぁまぁまぁ。そのことについては話せば長くなりますけど、まずは勇者様と優男様が相部屋ということになりまして」
優男様というはハンスさんのことだろう。僕がこの部屋を占拠してしまったから、2人には違う部屋が与えられたらしい。
「それで我々シスターというのは抑圧された生活をしていますから、性癖がひん曲がった連中が多いわけです」
いきなり話が飛躍した。でも実際に人間というのは、環境次第でどうにでも変わってしまう。飢えに苦しんでいた時の僕がそうだったように。
「その性癖というのは実に多岐に渡りまして、貴族と爛れた関係を持つような人から、ひと晩限りの酔っ払い相手にですとか、ひとり遊びがお好きな方、あとはその~……馬ですとか、シスター同士で致す方なんかもいらっしゃいまして」
知りたくもない情報が満載だった。彼女がそこまで話す必要があったかどうか、今でも疑問に思っている。
「それで今回は、男性同士の行為を見ることでしか興奮できないシスターの為にですね、ここでは無敵の存在となった私が勇者様と優男様のお部屋の盗み聞きをしていまして、そこで大体の事情を掴むことが出来ました。あなたのお名前も」
「そうだったんですか」
世界は広かった。僕は自分よりも酷い女が、少なくとも目の前にひとりいることに安心感を覚えていた。
「先ほど大丈夫とは言いましたが、事態はそんなに簡単なことじゃありません。ですが……例えば、あなたの愛する人が他の女とくっついたとしたら、どう思います?」
「嫌です」
想像するのも嫌な質問だった。僕はすぐに答えた。
「どれぐらい?」
「死ぬほど」
シスター・マリアは僕を指差したまま目を閉じて、深く満足した笑みを浮かべた。素早く1度だけ頷いてから目を開いた彼女は、口元に微笑みを携えたまま話を続けた。
「いい答えだと思います。それでは次の質問です。もし、あなたの愛する人が、誰かに殺されそうになっていたら、どうします?」
「僕がそいつを殺します」
当たり前だった。そんな状況になったら、黙って指をくわえて見ていられるわけがない。
「それでは、私たちは私たちで大いなる戦いに挑むことにしましょう。なんといっても、相手はあの精霊様ですからね」
「……へ?」
破戒尼であり、自称堕天使でもあるマリアは壮大な敵の名前を口にした。目の前のイカれた女は僕が思っていたよりも圧倒的にイカれていた。




