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第9話 朝粥の静寂と未練

 朝粥の温もりが擦り傷に染みる。


 大石は土間に腰を下ろしていた。一人で座る板の間が、道場の広さを思い出させる。


「……」


 粥をすくう。左手に収まる重さ。かつて刀の柄を握る感覚が、掌の皮を這い上がる。


 漬物を口に運ぶ。歯切れの良さが、鍔迫り合いの音に重なる。男谷精一郎の木刀が稲妻のように振るわれたあの日。左腕が痺れて刀を落とした。


 粥が喉を通る。胃が温まる。だが左腕だけが冷たいまま。石と縄で結んだ記憶が筋を引き締める。


 椀を置く。左手を開く。閉じる。鍬の柄を握る動き。刀を抜く動き。二つの感覚が混ざり合う。


 軒下から鍬が呼んでいる。川原で拾った石が腿を打っている。すべてはこの左手から始まる。


「行くか」


 立ち上がる。長身が天井に届きそうになる。左腕が振り子のように揺れる。石の重みを測りながら。


 ◆


 陶芸工房へ向かう足が、土間の隅で止まった。紐が朽ちた稲束が転がっている。

「……」

 大石は屈み込んだ。指が稲束を探る。掌に乾いた感触が広がる。左腕が微かに震える。

 男谷の木刀が走ったあの一瞬。痺れた左腕。今はその震えが縄を探らせる。

 物置き台の陰を覗く。錆びた鍬の横に、切れ端の蔓がからまる。右手がそれを掴む。左の掌に載せる。

 二つの素材が交差する。石を吊るすための支え。それが左手にだけ許された鍛錬だ。

 立ち上がる。長身が軒を揺らす。左腕に蔓と稲束の重さ。陶芸工房のことは、もう頭から消えていた。


 ◆


 蔓が左の掌で絡まる。指先が稲束を撚る。土間の空気が肌を刺す。

 左腕だけが熱を持った。男谷の木刀が走った痺れが、今は縄を編む鼓動に変わる。

「……」

 稲束の端を蔓で縛る。結び目が指に食い込む。過去の敗北が締め付ける。

 石を吊るす輪ができた。掌に載せて重さを測る。左腕の筋が軋む。

 土間を跨ぐ。長身が戸口をくぐる。左手の輪が陽の光に揺れる。

 道に足を踏み出す。陶芸工房へ向かう坂道が、右手に広がる。左足は川原へ向かった。

 左腕が引きずる。重くない輪が、肩から先を鉄のように固める。

「あの日、落としたのは刀じゃない」

 川原の岩場が見える。足元の小石が転がる。左の掌が開いた。

「俺の全部だ」

 輪が握りしめられた。骨が鳴る。左腕だけが、震えを忘れていた。


 ◆


 陶芸工房へ向かうはずの足が、軒下の梁を見上げて固まった。

 古びた麻紐が物置き台の隅で埃をかぶっていた。指がそれを摘み上げる。左腕の筋が微かに軋む。


 梁は松材で黒光りしている。重さに耐えるだけの強さがある。石が地面に転がっている。冷たい。


 麻紐を一旦置き直す。手を空けて石を拾う。掌に重みが沈む。かつて刀を落としたあの感覚がよみがえる。


 紐の端を梁に投げる。結び目が指に食い込む。心拍が耳の中で響く。筋肉が緊張して硬い。


 石を吊るす。麻紐が伸びきる。左腕がその下に位置を定める。肩から先が鉄のように固まる。


 全身が粟立つ。呼吸が浅く速い。左の掌を開く。石が静止している。重さが視線の先にぶら下がる。


「これが……第一歩だ」

 疲労が骨の髄まで染み込んでいる。だが左腕だけが、震えを忘れていた。


 ◆


 梁から吊るした石が静止したまま、左腕だけがその下で震えている。


 石の重みが筋を引き裂く。左腕の血管が締め付けられる。心臓が肋骨を打ち付ける。

 息が喉を掠める。浅く速い。口の中が乾く。舌が重たい。


 首筋に汗が伝う。冷たい。肩甲骨が張り詰める。腰に力が入る。膝が微かに震える。


 視線は石に釘付けだ。指先から冷えが上がってくる。左腕に鋭い疼きが走る。


 目が焦点を定め直す。疲労が骨の髄まで染み込んでいる。だが左手の五本は、石を吊るす輪を握りしめたまま。


「……動け」

 足が一歩、前に出た。長い脚が畦道を跨ぐ。左腕は鉄のように固まったままだ。


 田んぼが見えてきた。早朝の水が鏡のように光る。人影がちらほらと動いている。

 ささやきが風に乗る。「物干竿」という言葉が、稲の葉擦れに混じる。


 大石は肩をすくめた。骨が軋む音だけが、自分に聞こえる。 大石の左腕はまだ熱をもっていた。だが彼は鍬を握り、田の畦へ足を踏み入れた。

 稲の列が長く伸びる。彼は腰をかがめる。背骨が軋む。膝が土を抉る。


 身長七尺の巨躯は、稲の間を動くには大きすぎた。肩が稲穂を揺らす。腰を深く折るたび、息が詰まる。


 左腕で鍬を扱う。柄が掌に擦れる。筋が引き攣る。朝露が足首を濡らす。


 遠くで少年たちの声がする。「物干竿が動いてるぞ」

 ささやきが水田を伝う。大石は鍬を立てた。肩の力を抜く。吐息が白く曇る。


 背筋を伸ばす。首の関節が鳴る。周囲の農夫たちが、楽な姿勢で手早く作業を進める。


 彼は再び腰を折る。左腕に鋭い疼きが走る。石を吊るした重さが、鍬の柄に乗り移る。


「…………」


 鍬が泥を掻く。水が濁る。左腕だけが、稲の緑の中に異質なリズムを刻む。左腕が鍬を離し、藁束を掴んだ。指先が乾いた茎に食い込む。


 藁束を突く。いつもとは違う衝撃が肘を貫く。筋が伸びて縮む。骨の奥で何かが唸る。


 力が逃げない。突き抜けた先で、筋肉の襞が微かに震える。かつてない密着感が腕を包む。


 左手を開く。掌に擦り傷の痕。だが疼きは消えている。指が自然に曲がる。


 藁束が地面に転がる。左腕だけが、残った感覚を記憶していた。重さが武器へ変わる予感が筋を走る。


 彼は目を見開いた。朝日が左腕を照らす。皮膚の下で、新しい力が脈打っている。 石が吊るされている梁を見上げる。左腕が疼く。紐は昨日よりも深く食い込んでいる。

 物置き台の石を手に取る。拳大よりも大きく、角が皮膚を刺す。土埃の匂いが鼻をつく。


 紐の結び目を解く。指先に力が入らない。石を吊るし直す。重みが一気に左腕を引きずる。


 肩関節が軋む。筋繊維が引き裂かれる。呼吸が浅く速くなる。額に汗がにじむ。


 左腕を水平に保つ。肘が震える。重さが骨に響く。歯を食いしばる。顎の筋肉が突っ張る。


 地面を踏みしめる。足裏が小石を感じる。膝が微かに震える。背筋に冷たい汗が伝う。


 目を見開く。石だけを見据える。周囲の音が遠ざかる。心臓の鼓動だけが耳に残る。


 一分。二分。左腕が火照る。血が脈打つたびに鈍痛が走る。息を吸うたびに鎖骨の下が痺れる。


「……足りない」

 右手が左腕の石に触れる。さらに一つ、重りを加える。左半身が一気に沈む。


 歯が軋む。瞼の奥が熱い。乾いた空気が喉を焼く。肋骨の内側で心臓が暴れている。


 だが足は動かない。腰は揺るがない。左腕だけが、石の重みに抗い続ける。


 ◆


 大石は小川へ向かうはずだった。

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